赤谷村(読み)あかたにむら

日本歴史地名大系 「赤谷村」の解説

赤谷村
あかたにむら

[現在地名]栃尾市赤谷

刈谷田かりやだ川と来伝らいでん川の合流地点に立地。川の氾濫原にあるので水利の便がよい。小向こむかい村の西。栃尾町とちおまち村からの東谷ひがしだに道は、当地から入東谷いりひがしだにの諸集落を経ていし峠越で現北魚沼郡守門すもん村地内で八十里越はちじゆうりごえの道と六十里越ろくじゆうりごえの会津道に結ばれる。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に飯沼弾正左衛門尉分高波たかなみ保のなかに「京家被官 金沢五郎次郎代官」の給地として「赤谷」がみえる。同検地帳では文明一七年の検地で本田三千一〇〇苅、増分として三千九四五束苅、同一九年の再検地増分で四千苅となり、合計七千八五束苅である。延徳三年(一四九一)三月二三日の益斎書状(同文書)によると、この日益斎(姓を欠く)は上洛に際し長尾孝景を通じて大和守(姓を欠く)に知行分の「赤谷」の年貢収納を言づけている。


赤谷村
あかだにむら

[現在地名]新発田市上赤谷かみあかだに

中山なかやま村の南、加治かじ川の上流飯豊いいで川の左岸に位置し、川沿いに南下してきた会津街道(赤谷街道)は当地を経て山中を綱木つなぎ(現東蒲原郡三川村)に向かう。街道の傍らに現在も一里塚が残る。宝永七年(一七一〇)当村の旧家片野氏が龍泉りゆうせん寺前に建立した聿修碑には、昔、都の兵乱を避けて当地に至った平(赤谷)保正が六戸の草分の人々とともに赤谷村を開き、戦国の兵火、明暦年中(一六五五―五八)の水難を被りつつ、万治元年(一六五八)大檀原おおたんばらに民居を移したと記されている。

「吾妻鏡」に、城長茂が「小河庄赤谷」に築いたと記される城は、川を挟んで東方、滝谷たきだに新田の要害ようがい山にあったという。赤谷集落の西北、せきヶ峰(二〇三メートル)には天正一五年(一五八七)新発田重家を支援する会津の蘆名氏の被官小田切三河守が築城したが、上杉景勝軍の攻撃を受け、落城した。


赤谷村
あかだにむら

[現在地名]関川村南赤谷みなみあかだに

東方をあら川支流の赤谷川が流れ、北東は対岸の勝蔵しようぞう村、南は内須川うちすがわ村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「垂水分あか谷村」とみえ、本納二石六斗四升・縄高三一石七斗八升九合、家二軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、享保九年(一七二四)上野館林藩預所、同一三年出羽鶴岡藩預所、寛保二年(一七四二)陸奥白河藩領、文化八年(一八一一)以降幕府領。正保国絵図では七七石余。万治二年(一六五九)の検地帳(新野家文書)によれば高一三一石八斗余・田畑一三町七反余。


赤谷村
あかんたにむら

[現在地名]西伯町上中谷かみなかたに

早田わさだ村の南、法勝寺ほつしようじ川支流赤谷川の上・中流域に位置する。拝領高は一四八石余、本免は五ツ九分。鉄山柄役銀二二匁五分・大炭運上銀三匁五分が課され(西伯町誌)、米子荒尾氏の給所であった(給人所付帳)。元和四年(一六一八)の検地帳写(赤谷区有文書)には「法勝寺之内赤谷村」とみえ、反別は一四町三反余。名請人数二二・屋敷筆数一五、家数一八(うち上六・中六・下六)、牛一三・馬一、名請人を所持反別によってみると二町以上二・二町未満―一町三・一町未満―五反三・五反未満―三反四・一反未満七・無高三となっている。


赤谷村
あかだにむら

[現在地名]岩国市大字天尾てんのお 赤谷

天尾四ヵ村のうちで、赤谷村のみにしき川南岸にあり、西は萩藩領。寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に「天尾の内 赤谷村」とみえる。

この折の村高八六石余。それが享保一一年(一七二六)の推定で高七六石余に減少し、人口二七二人、牛一五頭という状態であった(享保増補村記)。田畑の不足を製紙業と広大な山林より切り出す薪や柴の販売で補っていた。そのためひらだ一三艘をつないでいた。


赤谷村
あかだにむら

[現在地名]八幡町島谷しまだに

吉田よしだ川左岸の東殿とうど山北麓にあたり、ほぼ乙姫おとひめ川以東に位置する。東は田尻たじり村、西は島方しまかた村。正保郷帳に東谷村とみえ(岩瀬文庫本には赤谷村)、田方一五石余・畑方八四石余。寛文四年(一六六四)の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)には新中間として赤谷角吉・赤谷村与三兵衛・赤谷孫七郎、年明新中間として赤谷町与三郎がみえる。


赤谷村
あかだにむら

[現在地名]荘川村赤谷

しよう川上流右岸段丘に開けた村で、南は岩瀬いわぜ村、西は同川を隔てて中野なかの村。枝村に落部おちべ和田わだがある。村内大倉おおくら山から出る谷川が赤く濁っていたので赤谷村とよんだといい、赤濁の原因は上流の落部で金を掘っていたためともいう(斐太後風土記)。金森氏時代の高は三八石余(飛騨国中案内)。元禄飛騨国検地反歩帳では高三六石余、田四町余・畑九町一反余。元禄一〇年(一六九七)再び高山別院照蓮しようれん(現高山市)領となり、のち幕府領一四石余が加わった(「岐阜県史」など)


赤谷村
あかだにむら

[現在地名]黒川村下赤谷しもあかだに

胎内たいない川の狭隘地左岸、鳥坂とつさか山東麓に位置する。東は太田野原おおたのはら新田、北は川を隔てて樫谷かしだに村に接する。正保国絵図に村名がみえ、高四八石余。初め村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領、享保九年(一七二四)以降黒川藩領。万治二年(一六五九)の検地帳(伝広明氏蔵)によれば高三一石七斗余・田畑三町四反。享保一〇年の家数五(うち本百姓四)、人数二四(「村明細帳」高橋哲也氏蔵)


赤谷村
あかたにむら

[現在地名]山北町北赤谷きたあかたに

烏帽子えぼし(四八八・九メートル)の北麓、西流する立島たてしま(現勝木川)左岸にあり、対岸は下大鳥しもおおとり村。西は板屋沢いたやさわ村、南東は田中たなか村に接し、南は赤谷峠を経て越沢こえさわ村へ至る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大河分板屋沢之は あか谷村 下」とみえ、縄高七石一斗、「本納なく候」とある。


赤谷村
あかたにむら

[現在地名]今立町赤谷

印内いんない大谷おおたに両村の東にあり、水間みずま谷の中央部に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では水間村に含まれるが、元禄郷帳で分村、村高一八四・七八石。天保一四年(一八四三)の赤谷村高反別小前帳(山崎家文書)によると田方三町五反余に対し畠方が九町六反余を占める。戸口は、明治二年(一八六九)の赤谷村切支丹宗門御改帳(同文書)では本百姓三五軒・水呑四軒、人数は男八四人・女八七人であった。


赤谷村
あかだにむら

[現在地名]杷木町赤谷

筑後川支流赤谷川上流の山間部に位置し、東部を大肥おおひ川が流れる。南は松末ますえ村、東は福井ふくい(現宝珠山村)。「続風土記」によると福井村の枝村。元禄五年(一六九二)には高二六三石余・反別畠三七町二反余、家数二一・社一、人数二四三(田圃志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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