改訂新版 世界大百科事典 「身ぶり語」の意味・わかりやすい解説
身ぶり語 (みぶりご)
生のあるかぎり,人間がほとんどたえまなく行う身体運動のうちには,他者へのコミュニケーションを目的とする,伝達的,表現的な動作があるが,これらは一般に〈身ぶり〉とよばれる。身ぶりのなかには,ことばにひとり言があるのと同様に,指折り数える動作のようにむしろ自己伝達的なものもある。しかし,コミュニケーションを主たる機能とする以上,身ぶりは前提として他者の存在を想定するといってよいだろう。逆にまた,他者の存在するところでは,あらゆる動作は身ぶり的になりうるともいえる。
たとえば,歩行のような基本的動作においても,日本の近世の遊女のいわゆる花魁(おいらん)道中の練り歩きや,大名行列の際の奴(やつこ)の行列,あるいは映画の中でマリリン・モンローが見せた〈モンロー・ウォーク〉などでは,周囲の観衆を意識して,歩行の動作は明らかに身ぶり化している。けれども,歩行の様態が表現的,伝達的であるのは,別にこのように高度に様式化された場合にかぎらない。あたふたとした急ぎ足,うつむきかげんの足をひきずるような歩み,背筋をのばしたさっそうとした足どりなど,こうしたさまざまな歩きぶりはそれを見る者に,歩行者についてなんらかの印象をあたえうるという意味では,情報伝達的であって,すでに身ぶり性を帯びていると考えられる。しかしながら,見る者がそこからいかなる意味を読み取るにせよ,歩行があくまである地点に向かう移動を主たる目的とした動作にとどまるかぎり,その表現・伝達機能は副次的に潜在するのみであって,完全に身ぶりになりきることはない。いいかえれば,歩行は一次的であるはずの移動というはたらきを背景にしりぞけ,歩くことそのものを自己目的化したとき,はじめて,コミュニケーション機能が前景にあらわれて,完全な身ぶりとなる条件がととのうのである。上にあげた練り歩きなどの歩容は,そうした身ぶりへの転化の典型的な例である。
以上,歩行を例にとって,動作と身ぶりとのかかわりをみてきたわけだが,このことはもちろん歩行にかぎらず,われわれの日常のほとんどすべての立居振舞(たちいふるまい)についても妥当する。歩行が人体の移動を目的とするように,われわれの日常の挙措動作(きよそどうさ)の多くは,たとえささいなものであれ,なんらかの目的をもって行われる。そのかぎりでは,それらの挙動は身ぶりではない。しかし,人間の動作にはふつういつもなにがしかの〈演技〉の要素がふくまれているのもまた事実である。子どものころからいわゆる〈しつけ〉として,立居振舞の細部にまで有形無形の社会的拘束が課せられる結果,われわれは他者の視線を潜在的にたえず意識してふるまうことになる。ある動作がなされるとき,たんにその動作の目的を遂行することのみならず,いかにそれを遂行するかというその様態の表現するものが配慮されるわけである。したがって,われわれの立居振舞の多くが,いちいち意識されないにしても,身ぶり的な表現・伝達機能をふくむことになるのである。実際,ふだんの社会生活で〈作法〉とよばれるもののかなりの部分は,われわれの起居動作のこうした身ぶり的側面の洗練にほかならない。けれども,日常生活において,それらの挙動がなにかある目的のためになされるものであるかぎり,身ぶりに無限に近づくことはあっても,完全に身ぶり化することはないといえるだろう。
身ぶり語--コミュニケーション機能の顕在化
ところで人間の行動のなかには,こうした実際的な動作のほかに,明らかにコミュニケーションを意図して行う,表現的,伝達的な一群の動作がある。それらはもっぱらメッセージの伝達というコミュニケーション機能をになう動作であり,多くの場合,言語と併用されるという意味から,〈身ぶり語〉とよぶことができよう(なお,それぞれにニュアンスは異にするものの,似たような意味で〈ボディランゲージbody language〉あるいは〈身体言語〉などの呼び方もなされる)。身ぶり語においては,上にみた日常の実際的動作とちがって,他者にメッセージを訴えかけようとする意図は明白であって,それらを見るとき,ひとはちょうどことばを聴くのと同じように,ほとんど反射的にそれが伝える意味の読取りをうながされるのである。身ぶり語には狭義の身ぶりだけでなく顔の表情もふくまれるが,笑いなどは身ぶり語のそのような性質を端的に示すものであり,周囲で笑いがおこると,なにがおかしいのか,なにを笑っているのか,といった〈せんさく〉を,人は思わずはじめることになるのである。
身ぶり語の分類
〈身ぶり語〉についてはさまざまな分類が試みられているが,発生論的には,次の5種類に分けて考えることが可能であろう。
(1)〈言語的身ぶり〉 ふつう発話に随伴し,ことばを反復したり,増幅したり,例示したりする動作である。人差指を立てたり,振ったりして演説の要所を強調したり,拍子をとったりする身ぶりなどがこれにあたるわけだが,これらは言語の発生とともに生まれたとみてまちがいないだろう。
(2)〈相互交渉的身ぶり〉 社会的相互交渉において,相手を手招きしたり,肩をたたいたり,ウィンクしたりする動作がこれである。笑う,ほほえむ,泣く,といった顔の表情も,人と人との交渉のなかで生じる情感の表示を本来的な機能とすると考えられ,このカテゴリーに入れることができる。
(3)〈儀式的身ぶり〉 相互交渉的身ぶりの一部ではあるが,とくに,元来が拮抗する個人間の関係を制御し,また調整する実質的行動であったものが,記号化して,もっぱら儀礼的に行われるようになったと考えられるたぐいのものである。握手や接吻やおじぎなどの挨拶の身ぶりの多くがこれに属するが,それらは動物行動学でいう〈儀式化〉の延長線上に置いて考えることもできよう。
(4)〈模写的身ぶり〉 指で丸をつくり金をあらわすといった比較的単純な身ぶりから,両手で八の字をつくり富士山をかたどるというような芸能のあてぶりまで,さまざまな模写の段階がある。日本人の身ぶりにはこうした模写が多く,もっぱら手と腕が用いられるのは特徴的である。また,模写といえども実は高度に慣習的で,異文化では通用しないのがむしろふつうであることは注意すべきであろう。
(5)〈神話的身ぶり〉 イタリア人には,退屈な話を聞かされてうんざりしたというとき,あごをさすったり,両手を腰のあたりでひろげてなにかを支えるようにする身ぶりがある。これは日本人などにはまったく不可解な身ぶりであろう。しかし,イタリアでは〈退屈すると髭(ひげ)がのびる〉という一種の“神話”があることを知ると,その身ぶりの意味は一挙に了解される。上の身ぶりは,のびた髭をなでたり,髭が腰のあたりまでものびたことを示しているのである。この種の身ぶりはいずれの社会にもかなり多い。これも模写的身ぶりの一種にはちがいないが,その模写はある“神話”,信条に基づいているのである。カトリック教徒の祈禱の身ぶりなどにもこれに属する身ぶりが少なくない。
身ぶり語と言語
さて,(1)の言語的身ぶりにかぎらず,これらの身ぶり語は,すでに述べたように話しことばと並行して用いられるのが一般である。けれども,そのことは身ぶり語が言語体系に依存して成立していることを意味するものではない。壬生(みぶ)狂言のようなパントマイム(無言劇)の例をもちだすまでもなく,交差点に立つ交通警官の一連の動作を見れば,身ぶり語が言語に頼ることなくひとつの〈ディスコースdiscourse〉(“談話”)を成しうることは容易に理解できるだろう。はじめにとりあげた広義の身ぶりはいうまでもなく,身ぶり語も言語からは相対的に独立した,独自のコミュニケーション系に属しているのである。だからこそ,言語と同時に用いられながら,身ぶり語は言語メッセージを補強したり,それに同調したりするばかりではなく,しばしばそれに背反するメッセージを伝えるのである。話の最中に,かたわらにいる者に目配せして〈冗談だ,真にうけるな〉と伝える身ぶりなどは,その最たる例だろうが,子細に見れば言語メッセージと身ぶりメッセージの間には,多かれ少なかれつねに,ずれやくいちがいや矛盾が認められるであろう。口から出ることばを顔の表情が裏切る,手や足の動作が裏切るというのは日常茶飯事であって,ここにわざわざ例をあげるまでもあるまい。要するに,身ぶりはたんにことばの伴奏をするものではないのである。
豊かな“情報の闇市場”
このことは,身ぶり語がしばしば隠語的であることともかかわりをもっている。とくに上の分類の(4)の模写的身ぶりや(5)の神話的身ぶりには,口に出していうことがはばかられる事柄をあらわすものが多々あるが,そのほかの身ぶりについても,上に述べたように言語メッセージと身ぶりメッセージの間に齟齬(そご)が認められた場合に,少なくとも近代社会では言語メッセージが公式なものとされるという意味で,非公式で,隠語的であるといえるだろう。近代の法は物とことばの世界であって,身ぶりが法的証拠とされないことはそのことをよく示している。社会学的には,身ぶりコミュニケーションは非公式の隠語的世界のコミュニケーションであり,言語が社会の〈公式通貨〉であるとすれば,身ぶり語は〈闇市場の通貨〉であるといえよう。ただし,この“情報の闇市場”は,円滑なコミュニケーションのためにだれもが必要とし,また利用してもいるものなのである。
→ジェスチャー
執筆者:野村 雅一
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