人と人とが出会うとき,言葉や身ぶりのなんらかの儀礼的交換があるのがふつうである。いまデュルケームの宗教社会学の概念を借りて(《宗教生活の原初形態》1912),それらを〈消極的儀礼negative rite〉と〈積極的儀礼positive rite〉に分けることができるであろう。相手にみだりに近づく意図がないことを伝える接触回避のしぐさが前者である。古来中国では,目上の人の前は小走りに通るのが礼とされた。また,西洋人が遠距離からする目礼は,こうした接触回避の意図をいわば積極的に伝えるものであるといえよう。次に後者の積極的儀礼であるが,いわゆる挨拶表現はこれに属する。言葉と身ぶりがともに交わされる場合が多いが,ここではそれらを別に分けて考えてみることにする。
挨拶の言語表現には,〈おはよう〉のように自明な共通の知識を確認するものや,アラブのように平安を祈ったり,西欧人のようによい一日を祈ったり,ギリシア人,古代ローマ人のように健康を祈ったりするものがある。また,ほぼ同じ言葉を交互に交換する場合と,一方が他方に対し相手本人や家族や家畜の健康状態を次々に尋ねるかたち,すなわち挨拶の送り手と受け手の役割が少なくとも一時的には固定している場合とがある。この後者の形式は西アフリカや西アジアの牧畜民のあいだでみられるが,そこではどちらが先に挨拶するかで社会的地位の差異があらわされることが多い。
挨拶の身ぶりはさまざまな分類が可能であろうが,まず,眉を上げたり手をふる身ぶりのように比較的遠距離から行われるものと,近距離でなされるものがある。近距離からの場合,〈接触〉を伴うものと伴わないものとに分けられる。握手や抱擁やキス,あるいはニュージーランドのマオリ族がするような鼻をこすりあわせる動作などは,接触の挨拶の典型例である。ビルマ(現,ミャンマー)やマレーシアやエスキモーには鼻をよせて相手のにおいをかぐ挨拶があるが,それらは接触と非接触の中間形態といえよう。身体的接触を伴わない身ぶりとしては,日本人のするようなおじぎ,インドのヒンドゥー教徒や東南アジアや日本の仏教徒がする合掌(インドでもイスラム教徒は抱擁するのがふつうである),あるいはマオリ族が行う舌を出す挨拶などがあげられる。西洋人も国王に拝謁する際には,男は頭を下げ,女は片足を引いてひざを軽く折って挨拶するのが作法である。女のこの身ぶりはひざまずこうとする意志をあらわし,ヨーロッパの貴族社会の伝統的しぐさを継承するものである。
ところで,挨拶の身ぶりは相手に対する〈攻撃性〉の有無という点からも分類が可能であろう。マオリ族の舌を出す挨拶などは,元来,威嚇的なもので,彼らの集落をおとずれる者があると,首長などが槍を持って出て行き,舌を出しながら相手のまわりをまわった。相手がそれに動じるようすをみせないと歓迎したのである。こうした攻撃的身ぶりに対して,多くの挨拶は友好関係の表現のようにみえる。その代表的例が笑いやほほえみであろう。エスキモーは〈笑う人〉と呼ばれたりするが,来客をとりかこんでただにこにこと笑ったり,互いに笑いころげたりするのである。挨拶の表現は,さらに,〈儀礼化〉の度合でもさまざまな段階に分かれる。ここでいう儀礼化とは,特定の行動の本来もっていたはずの機能が伝達的機能に転化するといったほどの意味であるが,ボルネオのムルット族がその高床式の家の入口に酒壺を置いて,客にいやおうなしに酒をのませたり,ニューギニアのビアミ族が出会うと,握手をしてから,座りこんでタバコをきせるで回しのみしたりするなどの例では,挨拶行動はほとんど儀礼化されておらず,〈実質的〉行為に近い。他方で,おじぎや合掌などは高度に儀礼化された身ぶりといえる。
人に対する挨拶の身ぶりとカミに対する〈祈禱(きとう)〉の身ぶりは似ている場合が多い。人間の世界の作法をカミに向けたものともいわれるが,ちょうど日本で人は死ぬとホトケになるように,人間ひとりひとりが神的なものをすでに身内にひそませているのだとしたら,あるいは,互いに相手のなかのそのカミに向かって挨拶しているのだとも考えうるであろう。
→コミュニケーション →作法
執筆者:野村 雅一
日本
挨拶は〈一挨一拶〉というように,中世の禅僧によって応答,問答するという意味で使用された語がしだいに一般化したものであり,それに相当する古くからの言葉ははっきりしないが,〈いや(礼)〉はそれに近い語であろう。各地の日常語ではジンギ(仁義)が挨拶の同義語として使用されてきたし,また単にモノイイ(物言い)ともいった。日本人の挨拶行為は,他人と身体を接触させることなく,一定の距離をおいて向かいあい,互いに上体を曲げ,頭を下げることを基本にしており,その曲げ方や下げ方は相手や場面によって異なる。しかし,この頭を下げることは挨拶の一要素にすぎず,むしろそのような行為に前後して一定の決まった言葉が交わされることが挨拶であった。〈物言い〉とか〈言葉がけ〉が挨拶の意味に使用されている地方があることはそれを示している。その交わす言葉は,接触する相手の地位,相手との関係あるいは接触する場面によって異なってくるが,その相違は挨拶が両者の位置関係を相互に承認確定し,その後に展開する関係を円滑にするためのものであったことによる。社会における一人前の一つの大きな指標が,他人に対し時や場面に応じて適切な挨拶ができるかどうかにあった。したがって,挨拶は,ムラにおける一人前への教育機関であった若者組での重要な訓練事項であった。伊豆地方の若者組では,加入に際して御条目という心得を言い渡すが,その中には必ずのように挨拶に関する項目があった。
一般に挨拶は,(1)天候や時候という両者に共通する事象について声をかけて確認すること(たとえば〈よいお天気で〉〈よいおしめりで〉など),(2)相手の健康状態や仕事ぶりを確認し,それに関し喜んだり,感嘆したり,あるいはなぐさめたりすること(たとえば〈お達者でなによりです〉〈精が出ますね〉など),(3)それまでの人間関係を確認し,感謝すること(たとえば〈こないだはお世話さまでした〉〈いつもどうも〉など),の三つの要素で構成される。簡単な挨拶は(1)についてのみ申し述べて用件に入るが,あらたまったていねいな挨拶,特にハレの場の挨拶は(2)および(3)まで含み,決まった口上の言葉を一定の順序で申し述べるのが原則である。そして,別れのときの挨拶は〈またきましょ〉〈おみょうにち〉など,その別離が決して長いものでなく,人間関係は継続することを表現する。このような挨拶の言葉はもとは主語と述語を含む完結した文として申し述べられたが,日常的な場面ではしだいに省略が進み,簡単な単語のみになってきた。この傾向は現在も進行中といってよいであろう。
執筆者:福田 アジオ
中国
〈挨拶〉という語は,本来,〈おしあいへしあいする〉ことを意味し,上記にあるように禅での問答をも意味した。古く中国では,今日の日本語での挨拶にあたるものはすべて儒教の〈礼〉に一括されていた。《儀礼(ぎらい)》には,成人,結婚,会見,宴会など,さまざまな場合の礼の規定がみえ,そこに挨拶のしかたが,所作から受け答えのせりふに至るまで詳細に記されている。どの場合も立場の上下,身分の尊卑を明確にすることが目的であり,下卑なる者が上尊の者に恩愛・尊敬の情を示そうとしたもので,上尊の者はその所作や言葉から,逆に相手の心を見ようとしたのである。身分社会にあっては,尊卑上下を明確にさせることが人と人との結合を強めて秩序を保ち,社会生活を円滑にすると考えられたからである。《儀礼》にみえるものはおおむね公的な場合であるが,日常のことについては《礼記(らいき)》に詳しい。そこには,親子間のこととして,〈昏(ゆうべ)に定め晨(あした)に省(かえり)みる〉,子は夕べには父母の寝床を整え,朝には必ず父母のごきげんをうかがうとあり,師弟間のこととして,〈先生に道に遭えば,趨(はし)りて進み,正立して手を拱(こまぬ)く〉,道で先生に出会ったときには先生のもとへ走り寄り,起立して両手を前に重ねて挨拶する(これは〈拱手(きようしゆ)〉という中国独特の挨拶の所作)とある。また,〈帰省〉という言葉も,もとは故郷を離れて身を立てている子が,両親の安否を気づかって帰るという挨拶をいった。これらは父母や先生に対する親愛・敬意を表そうとするものであり,きわめて厳格に行われた。
ともあれ前近代の社会における中国人の挨拶は〈礼〉の一部であり,したがってそれはもっぱら儒家のあいだのことであった。事実,六朝時代には儒教に反抗する者が多く,彼らはそのような挨拶はいっさい無視しようとした。しかし,儒教の世界で尊卑を分かつために役立った挨拶が,儒教をこえて社会一般の日常のものとなりえたのは,挨拶の所作や言葉が相手を思いやり,その結果,相手に安心感を与える力をもっていたからであろう。
→礼
執筆者:串田 久治
イスラム社会
ムスリム(イスラム教徒)同士の挨拶は,アッサラーム・アライクムal-salām `alaykum(あなたの上に平安を!)に対して,ワ・アライクム・アッサラームwa-`alaykum al-salām(そしてあなたの上にこそ平安を!)とコーランによって決められている(10:10,51:25)。この際に敬意を表するため,右手の手のひらを相手に向けて開き,頭の位置に上げて挨拶することもある(これがヨーロッパや日本の軍隊の敬礼の風習として伝わったともいわれる)。相手が挨拶をしたら少なくとも上記の返事をするか,もしくはもっと立派でていねいな挨拶を返すことが礼儀とされている(4:86)。
上記のムスリムの挨拶は,季節や一日の朝夕の時間にまったく関係なく用いられる。自分の家に入るとき〈ただいま〉の意味で上記の挨拶を唱える人もいる。またこの挨拶は子どもに対しても女性に対しても用いられる。しかし相手が明らかにユダヤ教徒やキリスト教徒などの異教徒の場合には,こちらからアッサラーム(平安を!)と言うべきではないとされている。ただし,彼らのほうから挨拶をされたら,ワ・アライクム(そしてあなたたちにも!)と言うべきであると規定されている。もし,異教徒の集団の中に,少しでもムスリムが混じっている場合には,正式なムスリムの挨拶をせよと命じている。
ひと昔前は女性の間では朝はサバーフ・アルハイルṣabāḥ al-khayr(おはよう),晩はマサー・アルハイルmasā'al-khayr(こんばんは)という挨拶が交わされたが,今日ではこの挨拶が一般の男性の間に普及するようになった。握手は預言者時代にすでに行われていて大いに奨励されているが,腰を曲げて挨拶することは禁じられている。旅から無事に戻ってきた者を迎えるときには,首と首とを合わせて抱擁しあって首にキスをしてもよいことになっている。また子どもにキスをすることはかまわないが,婦人の手を取ってキスをするという習慣はない。ただし相手が男性で聖人や高名なウラマーの場合は,手を取ってキスをすることが許されている。
執筆者:飯森 嘉助
動物の挨拶行動
配偶時の雌雄,育児期の親子,あるいは集団生活を営む種など,動物が同じ種の仲間と出会う際,相手の攻撃を避け友好的関係を形成・維持するためにとる行動。種類に応じてさまざまな方法が見られるが,その基本は友好的態度を表すか,攻撃性を隠すかのいずれかである。挨拶行動はいくつかのもとになる行動がしだいに儀式化することによって挨拶としての機能をもつようになり,種社会の中に定着したと考えられている。例えば鳥類,哺乳類でよく見られるくちばしや唇の触れ合いは育児のときの給餌行動から派生したものと考えられている。ボタンインコの雌雄は配偶の前に互いにくちばしの縁をかみ合うキスをする。この行為は近縁の種間で少しずつ異なり,実際に雌雄で食物の受渡しをする種から,食物には関係なく,雄がただ雌のくちばしに触れるだけの種までさまざまである。これは実際の給餌によって相手を慰撫することから,相手の確認へと儀式的に変わってきた挨拶行為とみることができる。同様に,セグロジャッカルは出会った相手の口角部を押すようにして挨拶するが,これは幼獣が自分の鼻面で親を押し食物を吐き出させていた行為から出たものである。すでに食物を吐き出す習性をなくしているある種のアザラシでも,鼻面の押合いが親子または成獣間の挨拶になっている。チンパンジーも互いに唇を触れて挨拶するが,これなども相手に食物を与える行為から出たものではないかと考える説がある。
実際に食物を与える求愛給餌は前述のインコのほか,ワタリガラス,モズ,カワセミなど鳥類でよく見られるが,一般に求愛時の雌雄のふるまいは,興奮している相手をなだめる意味の挨拶と見ることができる。ガラパゴスのウは巣に戻るとき,相手に海藻のような贈物を持って来る。相手は荒々しくこれをひったくる。この場合,興奮の対象がものに向けられるため配偶がスムーズに行われるのである。途中でこの贈物をとってしまうと,巣から追い出されてしまうこともある。昆虫のオドリバエも,配偶時に雄が雌にしかるべき獲物を贈呈する。興奮している雌に襲われることを防ぐ行為と考えられているが,贈物は実際に小さな昆虫であったり,雄自身の分泌物を丸めたものであったり種によって異なるが,相互の確認と配偶をスムーズに行う点で一種の挨拶と見てよいだろう。
求愛時の挨拶が威嚇の姿勢の対極である服従的ジェスチャーによって示される場合も多い。コウノトリは配偶の相手に対し,自分の頭を自身の背にのせるようにしてくちばしを鳴らす。威嚇するときにはくちばしを相手にまっすぐに向けるから,この行為は武器を納めたことを示す挨拶と考えられる。またユリカモメの類は求愛時に顔をそむけるが,これも同じく攻撃の武器であるくちばしを隠す行為である。
体をすり合わせる行為も社会的接触の準備ができていることを示すもので,サルをはじめ多くの動物に見られる毛づくろいgrooming(羽づくろい)はその一つである。ネコは頭を相手にあずけることで挨拶する。チンパンジーは劣位の個体が手のひらを上に向けてさし出し,優位の個体がこれに触れる握手のような挨拶をする。また雌が雄の前でしりを向け,雄に性器をさわらせる行為(プレゼンティング)も実際の性行動から転じて象徴的な挨拶に変わったものである。雄が雌の顔に触れ雌がおじぎをしたような形になると,毛づくろいに移行して実際の性行為には至らない。イヌ,ネズミなどが互いの性器に近い部分をかぎ合うのも相手を確認する一種の挨拶と見てよいだろう。ときには相手を威嚇し,互いにけん制しながら相手の興奮を制御するような場合もみられる。カモメやサギは,配偶時にしばしば首をのばしたり,両性が並んで体を前方にのばすなどの威嚇的な挨拶をする。
執筆者:奥井 一満