中世に大将軍のもとにあって,軍勢の着到をつけ,実戦を指揮し,味方の手負い・死人を実検し,合戦の記録を作成し,軍功の判定にあたるなど,おもに合戦の実務面をつかさどる重職。臨時の職。〈《吾妻鏡》〉文治元年(1185)4月21日条に,源頼朝が平家追討のことによって義経・範頼を西海に派遣したとき,〈軍士等のことを奉行せしめんがため〉侍所の別当の和田義盛を範頼に,同所司(次官)の梶原景時を義経につけたとあるのが,実例としては早いほうであろう。以後軍奉行は職務の内容上,幕府侍所の高級職員をもってあてるのを慣例とした。そして執権北条氏が侍所別当を独占し,得宗(北条氏嫡流)の譜代の家人中有力者が事実上の侍所長官たる所司の地位につくようになると,後者が軍奉行を務めるようになった。元弘の乱のときには六波羅検断(関東の侍所にあたる)の隅田(すだ)・高橋両氏が,千早城攻めのときには長崎高貞・工藤高景・安東円光らが,これに任ぜられている。
室町幕府も鎌倉幕府にならい,おおむね侍所所司が軍奉行を務めているが,応仁の乱以後は武田・富樫氏ら所司以外の例もある。戦国大名諸家も軍政・軍略に長じた者をこの職に任じた。竹中重治が羽柴(豊臣)秀吉の軍奉行となったのはその例である。
軍奉行に類似の存在としては侍大将がある。これは平安末から江戸初期まで存在した武士の職名で,大将軍を補佐する部将を指す。臨時の職で侍大将軍と呼ばれることもあり,のちには多く〈士大将〉と書かれた。もともと諸家に仕える五位・六位の侍の家筋のものが任じられ,1183年(寿永2)木曾義仲追討の平氏軍の侍大将には越中前司盛俊,上総大夫判官忠綱,飛驒大夫判官景高,越中次郎兵衛盛嗣,悪七兵衛景清らがいた(《平家物語》)。戦国時代には諸大名が侍大将を設けたが,これは一組の侍を預かる部将の意で,足軽を預かる足軽大将の上位にあった。近世には番頭(ばんがしら)と呼ばれた。
執筆者:高橋 昌明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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鎌倉・室町幕府,戦国大名諸家の職名。大将のもとで軍略・着到など軍事全般をつかさどる。鎌倉幕府では侍所の高級職員が勤め,室町幕府でも前代にならって侍所所司があたったが,応仁期以降は所司以外からも任命された。戦国大名家でも多くがこれをおいた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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