旅客が汽車,電車,乗合自動車,汽船および航空機を利用した際に受ける質の高いサービスに着目して,国が旅客に対して課する税で,消費税の一種。日本では1905年の〈非常特別税法〉において日露戦争の戦費調達を目的とした非常特別税の一部として創設され,10年の改正で独立の税となったが,26年にいったん廃止された。38年に復活した後,40年に現行の通行税法が制定された。通行税は,ある空間的距離を移動するにあたって消費する運輸サービスのうち,質の高いサービスの消費に担税力を見いだして負担を求めるものである。したがって,歴史的にいう通行税,すなわちある地域を通行することを認めてもらうために支払うといった関所税的なものとは性格を異にする。また,同一の地点間において提供される運輸サービスに等級の区分のある場合の最下等の区分サービス,および等級の区分のない場合のサービスには課税されない。現在,JRのグリーン料金・A寝台料金,汽船の特等の運賃・各種料金,航空機の運賃(ジェット料金を含む)等が課税対象となっている。税率は運賃・料金の10%であるが,離島相互間または離島~本土間の航空運賃については5%とされている。運輸業者等が運賃・料金の領収の際に特別徴収を行い,納付してきたが,消費税の導入に伴い廃止された。
執筆者:浜本 英輔
人や物資がある地域や都市を通過する際等に一定の金額等を徴収することは,古くから世界各地で行われていた。その方式・対象はさまざまであるが,ここでは中国とヨーロッパについて言及する。なお日本については,〈関銭〉〈勝載料〉〈山手〉〈河手〉等の項目で個別に説明してあるので参照されたい。
儒教の経典《周礼(しゆらい)》には関市(かんし)の賦(ふ)として入市税と関津通行税をあげるが,その具体的事例は先秦では証明できない。前漢武帝の時代,関所,辺境の要所で通過者から通行税を徴収した記録があるが,それはむしろ臨時的処置と解されている。後漢以降に入ると,関津通行の物資への課税史料は少しずつ増え,東晋以後の南朝では建康東西の石頭津や方山津で通過物品に対し1割の通行税を徴収していた。しかし商品流通が相対的に未発達であった当時,通行税は商業を抑圧するものとみなされていた。交通路の要衝で物貨通行税徴収が恒常化するのは唐から後,とくに宋に入ってからである。全国的に商税徴収機構が整備され,その一環として通行税=過税は100分の2と決められ,商品の通過に際し,各州で少なくとも1回ずつ徴収された。また渡津の際の人間や通過船舶それ自体も通行税支払いを義務づけられた。明・清もほぼ同様だが,船舶通行税は鈔関税,竹や木材のそれは工関税などと別称された。
執筆者:梅原 郁
中世の遠隔地商人は,遠方の市場を訪れるために多くの異なった支配の領地や都市を通過しなければならず,その際,領内や都市内の通行について規制を受けたり,通行税を徴収されたりした。この通行税の総称が関税(ツォルZoll,古くはマウトゲルダーMautgelder,ウンゲルトUngeldともいう)で,国境を出入・通過する貨物に課せられる今日の関税よりはるかに広く,道路や水路の通行Strassen-,Kanalzoll,広場や港の使用Markt-,Hafenzoll,橋や市門の通過Brücken-,Torzollに際して徴収された。そのほか,領内を通行する旅行者とその所持品を略奪から守るための護衛料Geleitgelder,旅行中馬車が故障したり転覆したりした場合,土地に触れたものはすべて領主に帰属するという接地物占取権Grundruhrrecht,指定された道路以外の通行を禁止する道路強制Strassenzwangもこれに関連した制度である。これらの通行税を設け,これを徴収する権限が関税特権Zollregalで,これは皇帝や国王の権力が弱体化するにつれて諸侯や都市の手に移り,領邦高権Landeshoheitや都市の特権となった。その結果,諸侯の領地や都市ごとにおびただしい数の税関が設けられ,この通行税(内部関税)の障壁が商品の値段をつり上げ,劣悪で危険な道路と並んで商業を妨げていた。このような状態は中世ヨーロッパ全域にみられたが,なかでも約300の領邦に分裂していたドイツが最もはなはだしかった。14世紀末にライン川には64ヵ所,エルベ川には35ヵ所,ドナウ川には低地オーストリア内だけで77ヵ所の税関があり,ビンゲン~コブレンツ間のライン川関税は商品価格の53~67%に達していた。
これらの通行規制や通行税を回避するために商人は領内の通行と取引の自由,つまり通行税免除の特権を諸侯から獲得し,また諸都市は互いに関税免除の特権を提供し合った。中世の遠隔地間商業が特権の集合からなる商業システムだといわれるのはこの意味である。ある都市の商業の発達の度合は,その市民が通行税免除の特権をどれほどの領域について獲得していたか,相互の特恵をどれほどの都市と与え合っていたか,という点に表れている。たとえばニュルンベルク市民は1332年に72の都市で関税免除の特権をもっていた。商業が発達し都市市場での取引が恒常化すると,都市は外来商人の法Gastrechtを制定して彼らの営業からさまざまな手数料を徴収し(市場,秤量所,倉庫,埠頭,クレーン,旅宿,店舗,引舟などの使用料や取引の仲介手数料など),食料品の搬入に際して入市税Oktroiを課した。とくに,商業を都市に集中して取引と収益の機会を増やそうとしたやり方が互市強制権Stapelrechtの制定で,これには,都市を通過する商人に対して一定期間都市内に滞在して商品を販売させる留置・販売強制Niederlagsrechtと,商品を積み替えてその都市の運送業者に輸送させる積替強制Umschlagsrechtがあった。1790年にドイツには1800の関税障壁が存在したといわれるように,こうした通行税(内部関税)はドイツでは19世紀まで存続し,その徴収の一部は民間の個人や団体が請け負っていたが,ドイツ関税同盟のような形で内部関税の撤廃,国境関税の設定が進むなかで整理された。
→関税
執筆者:諸田 實
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
汽車、電車、乗合自動車、汽船および航空機の乗客に対して通行税法(昭和15年法律43号)に基づいて課された国税。1989年(平成1)4月に消費税が導入されたことにより廃止された。通行税は、課税標準である旅客運賃、特別急行料金、急行料金、準急行料金、寝台料金に対して100分の10の税率で課税された。ただし、汽車、電車、乗合自動車の二等ならびに汽船の一等・二等の乗客は課税されなかった。国鉄(現JR)の汽車には等級の区別がないから税法上は二等とみなされ、Aクラスの寝台料金およびグリーン料金に対してのみ課税された。通行税は、汽車等により運輸業を営む者が、課税対象料金を領収の際に徴収することになっていた。
通行税の前身は、日露戦争当時の1905年(明治38)1月の非常特別税の改正によって創設されたものである。1910年には非常特別税が廃止され、独立の通行税法が制定されたが、近距離の三等乗客にまで課税したため非難が強かったので、1926年(大正15)3月の税制改正の際にこれを廃止した。しかし、日中戦争の軍事費の財源として1938年(昭和13)には通行税が復活され、さらに40年には独立の通行税法が制定された。その後、数次の改正を経て、89年の廃止まで続いた。
[林 正寿]
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