道後(読み)どうご

改訂新版 世界大百科事典 「道後」の意味・わかりやすい解説

道後[温泉] (どうご)

愛媛県松山市の東郊にある温泉。日本最古の温泉といわれる。伊予温湯(いよのゆ),熟田津石湯(にぎたつのいわゆ)とよばれ,《伊予国風土記》逸文には宿奈毗古那(少彦名)(すくなびこな)命がこの湯で病を癒したという話や,来湯した聖徳太子が湯岡,すなわち伊社爾波(伊佐爾波)岡(いさにわのおか)に碑(伊予道後温泉碑文)を建てたという話がみえる。《万葉集》にはこの温泉を詠んだ山部赤人の長歌が載り,また《源氏物語》には〈伊予の湯桁〉の語がみえ,古来,著名な温泉であった。近世,松山藩主松平氏は温泉の保護と設備拡充につとめ,利用者の身分階層により浴槽を分かち,牛馬のための〈馬湯〉も設けられた。地震によって何度も湧出がとだえたが,そのつど藩主以下が湯神社,伊佐爾波神社に湧出祈願をしている。温泉の管理には明王院があたり,来湯者は証文を明王院に提出してその指示に従って投宿し,客宿もその管掌下にあった。明治初期,明王院に代わって経営機関として原泉社が組織された。1891年には道後湯之町の町営となり,ついで湯之町中央に木造3階建て入母屋造の道後温泉本館振鷺(しんろ)閣も完成した(現在は松山市の管理)。かつては源泉は1ヵ所しかなく,温泉客はみな本館の浴槽を利用したが,55年ボーリングを実施して源泉が増加周辺旅館に内湯として引湯された。40~54℃の単純泉で,フッ素を含む。旅館約60軒。周辺には権現,奥道後,東道後の温泉もあり,時宗の開祖一遍ゆかりの宝厳寺河野氏湯築城跡など史跡も多い。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の道後の言及

【伊勢国】より

…両度の行幸に関する作歌が《万葉集》にある。 平安時代に入ると,神宮領の拡大が顕著で,897年(寛平9)飯野郡が神郡となり,神三郡が成立,これを道後(みちのしり)とも称した。940年(天慶3)員弁郡,962年(応和2)三重郡,973年(天延1)安濃郡,1017年(寛仁1)朝明郡,1185年(文治1)飯高郡と道前(みちのさき)の5郡が増加して神八郡となった。…

【伊予道後温泉碑文】より

…伊予国(愛媛県)の道後温泉のかたわら,伊佐尓波(いさにわ)の岡にあったという碑の銘文。碑そのものは失われているが,碑文は《伊予国風土記》に載せられていたらしく,その部分を引用した《釈日本紀》《万葉集註釈》などの古書でみることができる。…

【伊予国】より

…また大岡,山背,近井,新居,周敷,越智の6駅が置かれ,駅路が整備された。温泉郡の道後温泉は早くから知られ,多くの皇族や万葉歌人が来浴した。中でも聖徳太子は入湯の際に伊予温湯碑(伊予道後温泉碑文)を建立したと伝えられ,また斉明天皇は,661年,朝鮮半島へ向けて西征の途次ここに立ち寄った。…

【温泉】より

…なお,新第三紀の火山活動に関係ある紀伊半島の白浜,勝浦,兵庫県の有馬などのような温泉も多い。四国道後温泉の熱源となる火成岩体はさらに古く,白亜紀の花コウ岩であるといわれている。このほか火山と関係ない温泉,たとえば石油や天然ガスを求めて掘削された井戸から湧出した最上,新津,松之山,瀬波,焼津などの温泉がある。…

【松山[市]】より

…松山を中心とした鉄道網は現在,伊予鉄道によって3線が開設されており,市内電車も伊予鉄道により運行されている。 市内には松山城(史)をはじめ史跡が多く,日本最古の温泉といわれる道後温泉が中心部から市電で15分のところにあり,四国最大の温泉観光地となっている。松山城は,平野にそびえているため松山平野の交通標識ともなり,とくに夜景が美しい。…

※「道後」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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