奥谷は延応元年(一二三九)に時宗の開祖一遍が誕生した所である。一遍は河野通広の第二子で、諸国を行脚して革新的な時宗の基礎を確立した宗教改革家で、世に遊行上人と尊称された。元弘四年(一三三四)に得能通綱がこの地に「一遍上人御誕生旧跡碑」を建立した。もとこの碑は宝厳寺の総門のあった松ヶ枝町入口にあったが、大正一五年(一九二六)に現在の境内に移された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
滋賀県長浜(ながはま)市早崎、竹生島(ちくぶしま)(琵琶(びわ)湖の北端)にあり、真言(しんごん)宗豊山(ぶざん)派に属する寺。山号は巌金山(がんこんざん)。本尊は千手千眼観音菩薩(せんじゅせんげんかんのんぼさつ)と弁才天。弁才天の霊地として知られ、古来、巌島(いつくしま)、江の島とともに日本三弁天の一つに数えられる。また千手観音を安置するため、俗に竹生島観音といわれる。西国三十三所第30番札所。奈良時代、行基(ぎょうき)の開創と伝えられ、第一宝殿に弁才天を、第二宝殿に千手観音を安置した。以来、貴顕庶民の信仰が厚く、繁栄したが、1558年(永禄1)諸堂を焼失、のち豊臣秀頼(とよとみひでより)が発願して再興した。明治維新で神仏分離し、弁才天を祭る本殿を都久夫須麻(つくぶすま)神社と称し、その他をすべて宝厳寺に付属させた。現存する建造物のうち、唐門(からもん)(国宝)と観音堂(国重要文化財)は都久夫須麻神社の本殿(国宝)とともに伏見(ふしみ)桃山城の遺構で、豪華な桃山建築として知られる。寺宝に、弘法大師(こうぼうだいし)空海の『御請来(しょうらい)目録』、絹本着色の十六羅漢(らかん)図、釈迦(しゃか)三尊図、阿弥陀来迎(あみだらいごう)図、如意輪観音図(以上、国重要文化財)、『法華経(ほけきょう)』「序品(じょぼん)」(鎌倉時代、国宝)などがある。寺域の竹生島は、琵琶湖八景の一つに数えられている。
[勝又俊教]
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…それに続く文禄1‐慶長5年(1592‐1600)は,桃山美術の完成期ともいうべき重要な時期である。この時期の建築の遺品は少ないが竹生島にある宝厳寺の唐門と都久夫須麻神社本殿は,1599年(慶長4)造営の豊国廟の一部遺構と推定されている。その内外の建築装飾は鳥獣,草花などをモティーフとし,派手な彩色や牡丹唐草の精巧な透し彫など他の時代に見られぬ生気にあふれた意匠を展開している。…
…弁天のゆかりにより,琵琶にまつわる説話は少なくない。神社に隣接する宝厳寺は現在,真言宗豊山派に属し,山号を巌金山という。伝えによれば,はじめ竹生島寺といい,行基を開基とした。…
…一方,周囲の庇の細部には,室町時代の手法をみせている。この神社に隣接する宝厳寺には桃山時代の観音堂(重要文化財),唐門(国宝)があり,このうち唐門は1602年豊国廟(豊国神社)から移築した向(むかい)唐門で,木柄が太く大虹梁の上に大きな蟇股(かえるまた)をおき,その両側や虹梁の下に花鳥の彫刻をはめ,桟唐戸や小脇羽目(こわきばめ)には牡丹唐草風の彫刻を埋め,豪華な桃山時代の特徴をいかんなく表している。都久夫須麻神社本殿母屋部分は,伏見城の建物の寄進と伝えられるが,宝厳寺唐門と同様に豊国廟の遺構の可能性もある。…
※「宝厳寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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