酒谷村(読み)さかたにむら

日本歴史地名大系 「酒谷村」の解説

酒谷村
さかたにむら

[現在地名]日南市酒谷甲さかたにこう酒谷乙さかたにおつ

塚田つかだ村・大窪おおくぼ村の北に位置し、村の中央を酒谷川(西川)が流れる。四方を山に囲まれて平地は少なく、運輸の便も悪かったが、水害・干害は少なかった(日向地誌)。東方楠原くすばる村から当村に入り、新開発地である新村しんむらを経てうしの峠を越えて諸県もろかた寺柱てらばしら(現三股町)から都城に至る道(都城往還)や地内坂元さかもと(坂本)から樺山かばやま(現三股町)に至る道(樺山往還)が通じていた。「日向地誌」によれば樺山往還が古道という。ほかに地内秋山あきやまからとくノ嶺を経て吉野方よしのかた村に入り、飫肥おび城下へ至る間道もあった(六鄰荘日誌)。地内には一五世紀半ば以前の築城と考えられる酒谷城跡があり、また塚田越の頂上字隈陣くまじんには巡り尾めぐりお砦跡がある。天文一七年(一五四八)伊東祐国が飫肥城を攻略した時、同城主新納忠続は肥後球磨くまの相良氏の援軍を同砦に配置、土地の人はこの砦を久摩くま陣ともよんだという(日向地誌)。天正八年(一五八〇)二月には井黒主殿助に飫肥のうち「坂谷をしの方」の二反などが宛行われている(「本田親貞署判知行坪付」旧記雑録)。同一八年伊東祐兵に謀反を企てる者があり、祐兵は田爪民部丞を当地で討取るなど、首謀者七人を誅伐している(日向記)

近世の郷村帳類では酒谷村の一村で高付されていたが、飫肥藩の郷村支配では村の北西部、酒谷川の上流域を占める上酒谷村(酒谷甲に該当)とその下流、村南東部を占める下酒谷村(酒谷乙に該当)の二村として扱われ、庄屋もそれぞれに置かれていた。下酒谷村は単に酒谷村ともいい、上酒谷村は飫肥城下を軸として西方にある川内という意から西川内にしがわち(西河内)ともよばれた(「論山万覚書」松浦家文書など)。また当村は藩政時代の初めは酒谷城代、元和元年(一六一五)の一国一城令以降は酒谷地頭の管轄下に置かれていた。検地古今目録(日向国史)によると慶長一〇年(一六〇五)には高一千四六〇石余・田畑屋敷一六七町六反余、寛保二年(一七四二)には高二千九五石余・田畑屋敷一一九町五反余。文化七年(一八一〇)の書上(同書)では戸数二九九、内訳は本村が一五三、下酒谷の栗嶺くりみね二三・永野ながの二二、上酒谷の秋山三八・陣之尾じんのお四二・白木俣しらきまた二一。正徳四年(一七一四)頃の飫肥藩人給帳によると、庄屋は上酒谷村が仁木茂兵衛(一〇石取)、下酒谷村が田代平右衛門(一〇石取)


酒谷村
さけだにむら

[現在地名]邑智町酒谷

沢谷さわだに川の上流地域に位置し、銀山街道筋にある。石見と出雲との国境にあたり、当村から南下する銀山街道は御門および酒谷口番所を経て出雲国飯石いいし郡の広瀬藩領赤名あかな宿(現赤来町)に至る。中世には佐波さわ郷に含まれた。永和三年(一三七七)三月二三日の佐波賢義譲状(閥閲録)によると、賢義(実連)は子息常連に佐波郷内の所領を譲っており、同譲状に「上ハさけたにかわをかきる」とある。現在の沢谷川の上流部が酒谷川とよばれて所領の境界とされ、その南面が譲与の対象とされている。酒谷川を境とした所領は、応永一三年(一四〇六)八月一一日に常連から清連へ(「佐波常連譲状」同書)、大永七年(一五二七)八月二四日には三善(赤穴)光清から才法師(詮清)へと譲与されている(「三善光清譲状」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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