造士館(読み)ゾウシカン

デジタル大辞泉 「造士館」の意味・読み・例文・類語

ぞうし‐かん〔ザウシクワン〕【造士館】

薩摩さつま藩の藩校。藩主島津重豪しまづしげひで安永2年(1773)に開設和学漢学筆道の3科を課し、武芸鍛練も行った。

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精選版 日本国語大辞典 「造士館」の意味・読み・例文・類語

ぞうし‐かんザウシクヮン【造士館】

  1. 薩摩藩の藩校。安永二年(一七七三)、藩主島津重豪(しげひで)が創立。廃藩とともに廃校名称は明治一四年(一八八一)、第七高等学校造士館として引き継がれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「造士館」の意味・わかりやすい解説

造士館
ぞうしかん

薩摩(さつま)藩島津氏の藩学。1773年(安永2)藩主島津重豪(しげひで)が士風刷新を図り、幕府の昌平黌(しょうへいこう)に倣い創立。曽孫(そうそん)斉彬(なりあきら)の代に整備された。藩士はおよそ8歳より21、2歳の子弟を就学させ、和学、漢学(朱子学)、筆道を学ばせた。藩費で維持され、寄宿生は自費であった。聖廟(せいびょう)宣成殿、講堂、学寮、文庫を備え、春秋の丁日に家老以下諸役人が参列して釈奠(せきてん)を行った。同じ敷地内に1774年医学院(漢医学)、演武館を、後年開成所(英学)を設立。造士館は1870年(明治3)本学校と改称。別に小学校を設け、和漢洋学、習字、筆算を授けた。翌71年廃校。名称は、のちに第七高等学校(国立旧制)に継承された。同名の藩学が、三田(さんだ)(摂津(せっつ))、郡山(こおりやま)(大和(やまと))、安中(あんなか)(上野(こうずけ))の各藩にもあった。

[木槻哲夫]

『文部省編・刊『日本教育史資料三 巻八』(1889)』『笠井助治著『近世藩校の綜合的研究』(1960・吉川弘文館)』『宇野哲人編『藩学史談』(1943・文松堂書店)』

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百科事典マイペディア 「造士館」の意味・わかりやすい解説

造士館【ぞうしかん】

薩摩藩の藩校。島津重豪(しげひで)が1773年昌平黌にならって設立,1786年造士館と命名,漢学を中心に和学・習字を授けた。のち島津斉彬(なりあきら)が再興,洋学も尊重。1871年本学校と改め,小学校も設立。のち第七高等学校造士館等に名を残した。上州安中藩,摂津(せっつ)三田(さんだ)藩等に同名のものがあった。
→関連項目島津国史

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「造士館」の解説

造士館
ぞうしかん

薩摩国鹿児島藩の藩校。1773年(安永2)城内二の丸門前に開校。聖堂・講堂・学寮・文庫・演武場を設置し,翌年医学院,79年吉野村に薬園,天文研究の明時館を増設。学科は和学・漢学・習字・諸武芸。付随して嘉永・安政年間に集成館および艦船造船所,1860年(万延元)には中国語研究の達士館,64年(元治元)には軍事技術・英学の開成所を設置。70年(明治3)以後は和学・漢学・洋学をまとめて本学校とし,別に小学校を新設した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「造士館」の解説

造士館
ぞうしかん

江戸時代,薩摩藩の藩校
1773年藩主島津重豪 (しげひで) が演武館とともに創設,藩士に朱子学を教えた。その後一時衰えたが,1855年島津斉彬 (なりあきら) が洋学などを導入して学風を再興した。旧制第七高等学校造士館(のち鹿児島大学)はその後身。同名の藩校が安中藩と三田 (さんだ) 藩にもあった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「造士館」の意味・わかりやすい解説

造士館
ぞうしかん

この名称の藩校はいくつか設けられているが,特に著名なものは安永2 (1773) 年島津重豪の創設した薩摩藩の藩校。明治維新後は廃藩とともに廃止されたが,第七高等学校造士館としてその名を残した。

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