野呂間人形(読み)ノロマニンギョウ

デジタル大辞泉 「野呂間人形」の意味・読み・例文・類語

のろま‐にんぎょう〔‐ニンギヤウ〕【野呂間人形/野呂松人形/鈍間人形】

操り人形一種。頭が平たく、顔の青黒い奇怪な風貌ふうぼう道化人形で、人形浄瑠璃あい狂言を演じた。寛文延宝(1661~1681)のころ江戸野呂松勘兵衛という人形遣いが始めたという。現在、佐渡島などに残存。のろま。→曽呂間そろま人形

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「野呂間人形」の意味・わかりやすい解説

野呂間人形
のろまにんぎょう

古浄瑠璃(こじょうるり)時代の道化人形芝居の一つ。新潟県佐渡(さど)市の説経人形の広栄(こうえい)座、宮崎県都城(みやこのじょう)市山之口町の麓文弥(ふもとぶんや)人形で、間狂言(あいきょうげん)として演じられている。石川県白山(はくさん)市の東二口(ひがしふたくち)文弥人形、鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市東郷町の斧淵(おのぶち)文弥人形にも人形だけが遺存する。浄瑠璃操りの成立以前には能操りがあって狂言操りも併演されていたが、明暦(めいれき)・万治(まんじ)(1655~61)ころに歌舞伎(かぶき)の猿若(さるわか)が道化方に変じ、人形芝居に影響して道化人形芝居が成立した。西六(さいろく)、藤六、万六(まんろく)、太郎ま、麦ま、米(よね)ま、五郎まなどいろいろあったが、延宝(えんぽう)(1673~81)ごろに上方(かみがた)に、そろま、江戸に、のろまが現れた。青塗りが愚鈍な容貌(ようぼう)の一人遣いの小人形で、愚直な主人公の展開する滑稽科白(こっけいせりふ)劇である。野呂松勘兵衛、のろま治兵衛らが知られているが、1715年(正徳5)の『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』上演からこれらの人形は除かれ、姿を消していった。佐渡へ伝わったのは享保(きょうほう)(1716~36)ごろという。人形は4体1組。木之助が彫像形式で、手足が紐(ひも)でぶらりとつけられている。芝居の最後に男根を出して放尿するので有名。ほかの下(しも)の長(ちょう)、お花、仏師は肩板付き、左手が弓手(ゆんで)構造、裾(すそ)突っ込み遣いである。なお木之助と下の長の首(かしら)はウナヅキ(頭顔部をうなずかせる機構)がある。演目は『生き地蔵』以下現行5曲。

[西角井正大]


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百科事典マイペディア 「野呂間人形」の意味・わかりやすい解説

野呂間人形【のろまにんぎょう】

人形浄瑠璃の間(あい)狂言として遣(つか)われた道化人形。寛文・延宝年間(1668年―1681年)江戸和泉太夫座の野呂松勘兵衛が創始したという。青黒い顔の人形の一人遣で,せりふは狂言風だったらしい。1715年の《国性爺合戦》上演にはのろま人形の挿入はなく,劇場からは次第に脱落した。現在は郷土芸能として佐渡などに残る。

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世界大百科事典(旧版)内の野呂間人形の言及

【人形浄瑠璃】より

…杉山丹後掾,山本土佐掾,井上播磨掾の芝居に見られる。今日も佐渡の野呂間人形に残っている。(2)人形遣いが上半身を上幕と勾欄(こうらん)(手摺)の間に出している一種の出遣い形式で,土佐少掾,和泉太夫,江戸半太夫,伊勢大掾の舞台に見られる。…

※「野呂間人形」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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