人形劇は、造形物体である人形を俳優(人形遣い)が操作し演技表現を行うのが特質で、人間劇、仮面劇とともに、演劇のもっとも基本的な形態における三分野の一つを構成する。
その発生は、万物が霊魂を有すると考えるアニミズム的思考やシャーマニズム的呪術(じゅじゅつ)をもとに、生産的諸行事や祭りのなかでさまざまな人形が舞わされてきたというところに求められよう。それらがやがて人形による演劇として形成されていった。人形劇は、人間劇に比べ「ことば」より「動き」による表現の比重が強く、美術的効果が大きな役割をもち、幻想性に富み、ときに怪奇的でさえあるが、幼児の心理にも容易にしかも強く働きかける特質がある。
[川尻泰司・藤原玄洋]
人形の形体と操作方法および演出技法にさまざまな形式があるが、大別して次のように分類することができる。
[川尻泰司・藤原玄洋]
棒人形は初原的形体の1本の棒自体が人形で、先端を頭とし、その下部を握って操作するもので、東北地方の「おしらさま」はその典型である。古く「杖頭傀儡(じょうとうくぐつ)」とよばれたものもこの形体で、西欧ではマロットmarotteとよばれた。その単純な構造を生かし、現代人形劇において優れた舞台がつくられることで、この形式への再認識がなされた。
[川尻泰司・藤原玄洋]
手遣い人形は、人形の内部に手を差し入れ、指や手首の運動で人形を操る形式で、片手遣い人形と両手遣い人形があり、指の用い方などその形体は多様である。
[川尻泰司・藤原玄洋]
西欧、近東、アジア各地で広く行われる片手遣い人形は手袋式形体で、フランスではギニョールguignol、中国では布袋戯(プータイシー)とよばれる。わが国でも、後水尾(ごみずのお)天皇が愛玩(あいがん)したという「気楽坊(きらくぼう)」や、大分県中津市の古要(こひょう)神社に伝わる「小豆(あずき)童子」などは、人形の首(かしら)に指を差し込む形式である。しかし、日本各地に伝わる「袱紗(ふくさ)人形」「豆人形」「手人形」、また秋田県の「猿倉(さるくら)人形」をはじめとする伝統的手遣い人形は、首の下部の短い棒を人差し指と中指で挟む「はさみ式」の手遣い人形で、日本独自の形式といえる。
[川尻泰司・藤原玄洋]
両手遣い人形は人形の内部に両手を差し込んで操作するが、その構造や操作方法にはいくつかの種類がある。元禄(げんろく)期(1688~1704)にはすでに人形の裾(すそ)または背部から両手を入れる形式があったが、内部の構造は不明で、おそらく今日「野呂間(のろま)人形」で用いられるものに近い形体で、「弓手(ゆんで)式」と考えられる。今日広く行われる人形の首の胴串(どぐし)を左手で操り、人形の両手を右手の指に差して操る形式は1933年(昭和8)以降のものである。近年、操者の片手の親指に人形の首をはめ、残る4本の指ともう一方の手先を衣装から出し人形の両手とする形式は旧チェコスロバキアで創案されたが、独特の効果があり、各国に広まっている。
[川尻泰司・藤原玄洋]
1本または2本の指に小さな人形を差して操るものを指人形という。
[川尻泰司・藤原玄洋]
顔面を布やゴムなど軟質な材料でつくり、内部から手の運動で人形の表情を変化させる形式の表情人形も手遣い人形の部類に考えてよいだろう。またアメリカのJ・ヘンソンにより発展した、口のパクパク動く人形のマペットは短期間のうちに全世界に広まった。
[川尻泰司・藤原玄洋]
棒遣いは人形を細い棒や針金などで操作する形式の総称である。下から操作するもの、後ろまたは上から操作するものなど形態や操作方法は多様。わが国ではこの操作棒を「差し金(さしがね)」とよぶが、竹串(たけぐし)が用いられることもあり、「串人形(くしにんぎょう)」はこの形式に入る。またインドネシア、中国その他の影絵芝居も操法的には棒遣い人形であり、チェコやベルギーには、人形の頭に針金をつけ、上から操る形体もある。後ろからの棒遣いは、新しい舞台表現である「黒の劇場」などにも応用される。近年は棒遣いが舞台、テレビを含め現代人形劇の主流をなす操法である。
[川尻泰司・藤原玄洋]
糸操り人形は通常、関節をもった人形の各部に糸をつけ、上から吊(つ)り下げて操作するもので、操者は吊り手(操作器)を操作しつつ、その吊り手に取り付けた何本かの糸さばきによって人形を動かす。糸の数は1本のものから20本を超えるものまである。吊り手は「手板」または「コントローラー」ともいわれ、トンボ型水平式や垂直型階層式のものなど多様にある。中国では古く懸糸傀儡(けんしかいらい)、提線傀儡(ていせんかいらい)などとよばれた。西欧ではマリオネットmarionetteといわれるが、同時にこれは人形劇の総称としても使われる。日本では江戸時代「南京操り(なんきんあやつり)」とよばれたが、南京玉、南京あやめなどきれいでかわいらしいものに南京のことばが使われる風習があり、この呼称から、中国からの渡来と断定することはできない。
[川尻泰司・藤原玄洋]
抱え遣いは手遣い人形の項で述べた元禄期から行われただろう両手遣いの構造がさらに発展し、棒遣いや糸によるからくりとも複合したもので、比較的大きな人形を抱えるように保持して操作する形式の総称である。一体の人形を3人で操作する人形浄瑠璃(じょうるり)(文楽(ぶんらく)式)の三人遣いの形式のほか、1人で遣うもの、2人で遣うもの、またその構造もさまざまなものがある。三人遣いは「主(おも)遣い」の操者が左手で人形の首を遣い、右手で人形の右手を遣い、他の1人が人形の左手を、もう1人が人形の両足を遣う。この形式は1734年(享保19)、当時の人形遣いの名人吉田文三郎(ぶんざぶろう)が創案したといわれている。これより先、他の方式による江戸式三人遣いが江戸孫四郎によって行われていた。
また、幕末から明治にかけて、それまで座敷芸としてあった「碁盤(ごばん)人形」を発展させ、轆轤(ろくろ)車に腰掛けて操者が人形を抱えながら操る方式が、「車人形(くるまにんぎょう)」として初代西川古柳(こりゅう)により創案された。同じころと思われるが、大分県中津市では、中腰で遣う「碁盤遣い」または「はさみ遣い」とよばれる方式の「北原(きたばる)人形」が生まれた。昭和に入って大阪では、操者が立ったままで、人形の首と自分の頭を糸で連動させ、自分の両手で人形の両手を操り、両膝(ひざ)に人形の両足を取り付けて遣う「乙女文楽(おとめぶんらく)」式一人遣いが生まれたが、腕金式(林二木(にぼく)創案)と胴金式(桐竹(きりたけ)門造創案)の2種がある。文楽の端役のツメ人形も1人で遣う抱え遣いで、西欧で腹話術に使われる人形もほぼ同形体。近年は、乙女文楽と車人形を複合した「肩金式車人形」(川尻泰司(かわじりたいじ)創案)などもある。これらの方式はヨーロッパでもとり入れられ、多様な形に変化して使われている。
[川尻泰司・藤原玄洋]
人形の内部に機械仕掛けの装置を仕組み、ねじやおもり、水、砂などの動力、あるいは人力で糸や棒を使って操作する「からくり人形」にもさまざまな形式がある。また、団扇(うちわ)形の平面な人形の両面に絵を描いて操作する「立絵(たちえ)式人形」(ペープサートともよばれる)、卓上に人形を置いて直接手で持って操作する「テーブル人形劇」、劇場の大型化に伴い2メートル以上もある巨大人形の内部に操者が入ってからくりを応用して操作する「からくり遣い」、コンピュータを応用して操作する人形など、今日ますます多様化の傾向にある。
[川尻泰司・藤原玄洋]
前述したのは、人形の形体とその操作方法を主とした分類であるが、以下は、それらに加えての演出技法上の特殊な形式である。
[川尻泰司・藤原玄洋]
影絵人形劇は、スクリーンを張り後方に光源を置き、獣皮や厚紙でつくった透(すかし)彫りの平面的人形を棒遣いで演じ、その影をスクリーンに投影して見せる方式で、インドネシアに伝承する「ワヤン・クリ」が有名である。西欧ではシャドーパペットshadow puppetとよばれる。この様式は古くからインド、中国はじめアジア各地で行われたが、17世紀に中国からフランスに伝わり、ヨーロッパに広がった。日本では影絵はあまり発達せず、そのかわり「ふろ」とよばれる幻灯機数台を使い一つの画面に複合した映像を動かして見せる「写し絵」が発達した。近年、日本の影絵人形劇はこの手法を応用し、大型スクリーンに極彩色の影絵人形劇を上演する。
[川尻泰司・藤原玄洋]
黒の劇場という手法は、1950年代末期に旧チェコスロバキアで開発された演出技法で、もっとも新しい舞台表現の技法として盛んに使われる。ブラック・シアターblack theatreともよばれる。これは近年発達した舞台照明技術を応用して行われるもので、黒バックの前で制御された光の空間に人形または物体のみを浮かび上がらせて操作する方法と、紫外線の不可視光線で蛍光塗(染)料による人形を光らせて見せる手法と2種類あり、いずれも操者は黒衣(くろご)を着用し観客には見えない。人形は舞台空間を現滅自在に動き、そのみごとな幻想的表現は他の舞台芸術全般にも広まりつつある。
[川尻泰司・藤原玄洋]
文楽では操者が黒い頭巾(ずきん)をとり、顔を見せて操ることを出遣いというが、現代人形劇においては、近年になって新しい演出技法として行われるようになった。従来の人形劇では、操者が衝立(ついたて)の陰に隠れるなど、なるべく姿を見せない人形だけの世界を目ざしていたが、現在では積極的に舞台空間に操者と人形が同時に存在することによる、さまざまな可能性が試されている。
[川尻泰司・藤原玄洋]
世界の諸民族はどのような形であれ、人形劇をもっているといっても過言ではない。インド、中国、エジプト、ギリシアには古代から人形劇に関する文献がある。近代に入っては、R・ピシェルの『人形芝居の故郷』(1900)、C・マニアンの『ヨーロッパにおける人形劇の歴史』(1852)などの著書もあり、またG・バティ、R・シャバンス共著の『人形劇の歴史』(1959)、南江二郎(治郎)の『世界偶人劇史』(1933)などもあるが、いずれもいまだ人形劇の歴史について定説といいうるものはない。その発生起源を特定の地域や民族についてのみ求めるよりは、むしろ人類文化の発展過程で多元的に発生したものが、それぞれの生産的、生活的諸行事や宗教との関係のなかでしだいに発達し、諸民族間の交易やときには侵略をも通じて伝播(でんぱ)し融合しあうなかで、各民族の特質をもった人形劇が形成されてきたものと考えるのが至当であろう。
[川尻泰司・藤原玄洋]
中国においては漢の時代に西域(せいいき)から傀儡(かいらい)が伝わったといわれるが、宋(そう)の時代にはすでに人形劇が盛んに行われ、杖頭傀儡、懸糸傀儡、薬発傀儡、水傀儡、肉傀儡など各種のものがあったという記述がある。明(みん)や清(しん)の時代に入ると手遣いの布袋戯(プータイシー)や棒遣いの形式が現れ、布袋戯は清朝に福建から台湾に伝わり独自の発展をみた。
また中国で皮影戯(ひえいぎ)とよばれた影絵人形劇は、インド、インドネシア、タイ、マレーシア、ビルマ(ミャンマー)など東南アジア一帯に古くから行われ、インド神話の『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』などが多く上演される。とくに、インドネシアのジャワとバリの「ワヤン・クリ」はガムラン音楽と相まって優れた舞台効果をあげている。人形は国によってロバ、ウシ、スイギュウなどの皮でつくられる。トルコの影絵の「カラギョーズ」はラクダの皮でつくられ、エジプトから伝わったといわれるが、現在ではギリシアでも「カラギョーシス」として行われている。
[川尻泰司・藤原玄洋]
ヨーロッパの人形劇については紀元1世紀ごろすでにギリシア全土に普及していたともいわれ、ソクラテスやアリストテレスの人形劇に関する記述もあるが、詳細はわからない。キリスト教の強い支配を受けた中世には、大道芸人たちと修道院における禁令を犯す上演によって人形劇は命脈を保ち、ルネサンスを迎えて、ようやくその本来の活力ある姿を現す。16世紀イタリアで急速な発展をみせたコメディア・デラルテ(即興仮面喜劇)の登場人物の1人であるプルチネッラは、フランスではポリシネールとなって活躍、イギリスに渡ってはパンチネロとなり、やがてパンチ劇を生む。同じくルネサンスにはイタリアに手遣い人形のブラッチーノが生まれ、イタリアの人形劇芸人たちはヨーロッパ全土に活躍したと思われ、その影響は強い。今日もイタリアのシチリア島で上演される、頭を太い針金で吊(つ)り下げた古い型のマリオネットの形式は、ベルギーのブリュッセルやリエージュでも行われている。
ドイツも人形劇の伝統は豊かで、ゲーテの代表作『ファウスト』は、彼が幼少のころ見たファウスト伝説の人形劇の印象をもとにしたことは有名な話である。ファウスト劇は今日もヨーロッパ人形劇の古典で、その劇中に登場する道化人形ハンスウルストやカスペルは当時の民衆を代表するキャラクターとして大きな意味をもち、ことに後者は今日もドイツ、オーストリアで子供たちのよき友である。フランスの人形劇の人気者であったポリシネールは、大革命後ギニョールにその王座を奪われ、ギニョールは国際的に手遣い人形の代名詞ともなった。パンチは今日もなおイギリスで活躍しているだけでなく、移民とともに新大陸アメリカに渡って活躍した。中南米ではスペイン、ポルトガルの影響も考えられるが、ブラジルのマムレンゴは民族的特質をもった独自のおもしろさをもっている。
[川尻泰司・藤原玄洋]
12世紀初期の文献『傀儡子記(かいらいしき)』で大江匡房(まさふさ)が大陸から渡来したと記している人形は、棒状の杖頭傀儡と思われる。しかし、同じような形体のおしらさま的人形はそれ以前からもわが国に存在しえたであろうし、福岡県築上(ちくじょう)郡吉富(よしとみ)町の八幡古表(はちまんこひょう)神社、大分県中津市の古要(こひょう)神社に伝わる古表舞とよばれる棒人形構造の「傀儡子(くぐつ)」による大漁祈願の祭祀(さいし)は、本来「あまべの民」の海洋信仰の行事であり、当然古くから行われたものと思われる。同じ大漁・豊作を祈願する「えびす舞」または「えびすかき(夷舁)」とよばれる人形戯(にんぎょうぎ)は民衆の生活のなかで古くから行われ、その人形遣いたちのもっとも大きな集団は、西の宮の傀儡子といわれた。彼らはいまの兵庫県西宮(にしのみや)市の広田八幡宮に属する産所(さんじょ)(散所、算所)に住む祝詞(のりと)職であった。甲府(山梨県)の「天津司舞(てんづしまい)」、美濃(みの)(岐阜県)の「ひんここ人形」など各地で行われる人形による祭祀は、人形による演劇、つまり人形劇が形成される以前の人形戯である。ほかに福岡県の久留米(くるめ)市田主丸(たぬしまる)町の虫追いに使われる「実盛(さねもり)人形」などもある。
日本で人形劇が成立するのは16世紀の室町期で、百太夫(ひゃくだゆう)ともよばれた西の宮の人形遣いたちが『十二段草子』(別名『浄瑠璃姫(じょうるりひめ)物語』)などの語物を、そのころ琉球(りゅうきゅう)から伝わった三味線による音曲と結び、人形浄瑠璃という音楽劇を創造したころからと考えるのが至当であろう。しかしその後も門付(かどづけ)や大道の人形芸がなくなったわけではなく、夷(えびす)や三番叟(さんばそう)、大黒(だいこく)の人形を舞わす門付や、首にかけた小箱を舞台に人形を舞わす「箱回し」、座敷芸の「碁盤(ごばん)人形」、花火を仕掛けた「綱火(つなび)」式からくり人形などが各地で行われた。人形浄瑠璃も大坂や江戸のみでなく、淡路島、阿波(あわ)(徳島県)のものはとくに有名で多くの人形座があり、三重県の「安乗(あのり)人形」や長野県の「黒田人形」「早稲田(わせだ)人形」、神奈川県の「相模(さがみ)人形」はじめ各地に人形座があった。新潟県の佐渡には今日も、古浄瑠璃による演目や、その間(あい)狂言である「野呂間(のろま)人形」を上演する座があり、ほかに「文弥(ぶんや)人形」の座もある。九州では、大分県の「北原(きたばる)人形」がかつては大きな力をもっていたが、いまはその流れをくむ「伊加利(いかり)人形」「千綿(ちわた)人形」などがある。
京都府亀岡市の「佐伯灯籠人形(さえきとうろうにんぎょう)」、埼玉県の「尻高(しったか)人形」「白久串(しろくくし)人形」などは1人または2人で遣う串人形で、今日も上演されている。独特なからくり的操法をもつものとしては、福岡県八女(やめ)市の「八女福島灯籠人形」は多数の棒と糸のからくりで操られ、群馬県安中(あんなか)市には糸操り的からくりの「龕灯(がんどう)人形」があり、茨城県つくばみらい市の小張(おばり)と高岡に伝わる「綱火」は、花火を使用する独特の遠隔操作によるもので、からくり的人形も多様である。「車(くるま)人形」は東京都八王子市の西川古柳(こりゅう)一座などで行われ、秋田県の「猿倉(さるくら)人形」、青森県の「津軽(つがる)人形」、山形県の「山辺(やまのべ)人形」などはいずれも手遣い人形で、高知県の「西畑(さいばた)人形」は独自の鋼鉄線による棒遣い人形を編み出した。このほか、鳥取県の「益田(ますだ)人形」はかつての江戸系の糸操りを伝えるなど、日本の人形劇の伝統は実に多様豊富で、他の諸民族に比べ大きな文化的特質をもつものと考えられる。
[川尻泰司・藤原玄洋]
社会の近代化に伴い、洋の東西を問わず滅びゆく芸術とみられた人形劇が、第一次世界大戦前後から新たな高まりをみせた。ゴードン・クレイグの新演劇理論をはじめ、作家や美術家も積極的関心を示し、オーストリアのR・テシュナー、ロシアのエフィモフ夫妻は優れた美術的人形劇をつくった。ことにドイツでは戦前のパパシュミット人形劇場、P・ブラウンのミュンヘン美術家人形劇場、戦後のH・ジーゲルほかの糸操り、M・ヤコブの手遣い人形ほか多くの人形劇人の活躍があった。チェコにおいても、ボヘミア時代のM・コペツキー以来の伝統が民族独立の国民的人気をもった人形「カシュパーレク」を育て、やがてチェコ現代人形劇の父とよばれるJ・スクーパによりナチス占領下でも人形劇は活動を続け、第二次大戦後はその活力が世界の人形劇運動再建に大きな力となった。
戦後第1回の国際人形劇フェスティバルがルーマニアのブクレシュティ(ブカレスト)で1958年に開催された。旧ソ連および東欧圏の諸国で、それぞれ多くの国立人形劇場が創立されたのをはじめ、欧米各国の人形劇も急速な活況を呈し、植民地から解放されて民族独立を成し遂げたアジアをはじめ多くの国ではそれぞれの民族的伝統人形劇が復活し、現代人形劇への胎動がみられ、世界的に人形劇はかつてみない新たな発展期を迎えている。近年では物体劇としての人形へのアプローチが盛んに行われている。命のない物体としての側面と、命を感じる人形の関係(交錯)を追求するさまざまな舞台が試みられている。
日本においては戦前の1920年代末期に、伊藤熹朔(きさく)、千田是也(これや)らの「人形座」、川尻東次らの「人形クラブ」(現人形劇団プーク)をはじめとする多くの人形劇団が生まれ、現代人形劇の開花期を呈したが、当時の社会体制と第二次大戦により大きな圧迫を受け、一時は大政翼賛人形劇一色に追い込まれた。敗戦とともに情況は一変し、沸き上がる勢いで人形劇は活発化した。プークの再建、日本マリオネット結城(ゆうき)座、青旗(せいき)舞台、おんどり座、慶応大学児童文化部、胡桃(くるみ)座など20以上の人形劇団と研究家により、1946年(昭和21)には日本で初めての人形劇の運動組織として日本人形劇協議会が設立された。以来、戦後の社会的変遷による変化を伴いつつも急速な勢いで全国的普及は進み、1949年には今日職業的専門劇団として活動する京都市の人形劇団「京芸」、神奈川県の「ひとみ座」、大阪府の「人形劇団クラルテ」が相次いで活動を開始した。また、結城孫太郎が竹田三之助と改名し「竹田人形座」をおこし、ここに結城系糸操りは結城孫三郎の「結城座」と2座になった。このほか影絵人形劇では「ジュヌ・パントル」「角笛」「みんわ座」「かかし座」などがある。現在、全国で活動する職業人形劇団は140を超え、一方2000を超えるアマチュア人形劇団があり、地域協議体をもって活動するものもある。1967年には日本人形劇人協会が結成され、同年ウニマ(国際人形劇連盟)の日本センターとして日本ウニマが発足した。
ウニマは1929年にチェコのプラハで創立され、第二次大戦で活動が中断したが、戦後再建され、1957年にはユネスコに正式参加した。現在は世界に約80か国の加盟国をもち、活発な国際活動を展開している。テレビの普及も伴って現代人形劇は演劇芸術としてのみにとどまらず、児童の教育にも大きな役割を果たし、また人形劇のもつ特質が心理学的見地から見直され、今日では神経症および精神病の診療、療法(セラピー)にも応用されるなど、その効用性が広がりつつある。
[川尻泰司・藤原玄洋]
『小沢愛圀著『世界各国の人形劇』(1943・慶応出版社)』▽『小沢愛圀著『大東亜共栄圏の人形劇』(1944・三田文学出版部)』▽『永田衡吉著『日本の人形芝居』(1949・錦正社)』▽『G・バティ、L・シャヴァンス著、二宮フサ訳『人形劇の歴史』(1960・白水社・文庫クセジュ)』▽『角田一郎著『人形劇成立に関する研究』(1963・旭屋書店)』▽『日本ウニマ編『日本の人形劇 人形劇年鑑』(1975・日本ウニマ)』▽『冨田博之著『日本児童演劇史』(1976・東京書籍)』▽『宮尾慈良著『アジアの人形劇』(1984・三一書房)』▽『川尻泰司編著『現代人形劇創造の半世紀――人形劇団プーク55年の歩み』(1984・未来社)』▽『南江治郎著『世界の人形劇』(1968・三彩社)』▽『伝統芸術の会編『人形芝居』(1969・学芸書林)』▽『川尻泰司著『日本人形劇発達史・考』(1986・晩成書房)』▽『E・コーレンベルク著、大井数雄訳『新人形劇選書3 人形劇の歴史』(1990・晩成書房)』▽『日本ウニマ編『'97・'98日本の人形劇 人形劇年鑑』(1999・日本ウニマ)』
人形を操って演じる劇。人形芝居ともいう。英語ではpuppet-playまたはpuppet-theaterという。人形劇は本来宗教的な儀式のなかに採り入れられていたものであるが,のちには漂泊芸能となって各地へ散って広がり,祭礼と結びついた。各国の風俗,自然が人形製作の材料に特色を与えたのはいうまでもない。現代では人形劇は舞台でだけ上演されるものでなく,映画やテレビジョンによる作品も生むに至っている。
俳優でなく人形が劇を演じるということは,第1に人物のタイプ(役柄)が固定し,第2に操作術により非現実的なものを現実化させうるという特色を示すことになる。その結果,人形劇にストーリーがつくようになった15世紀ころには,茶番劇で道化人形が主人公になり,ウイットと風刺のきく芝居があらわれた。17世紀になると,ヨーロッパでは人形劇にパトロンがつくようになり,道化人形が劇の重要なパートを占めるようになった。その代表的なものは現代まで生命を保っている。イギリスのパンチPunch,フランスのポリシネルPolichinelle,ドイツのカスペルKasperl,イタリアのプルチネラPulcinellaなどは幼児から老人までに愛される道化人形である。カスペルは王様とも対話するし,客席の見物衆とも対話する。道化人形は顔,形が固定する。たとえば,パンチはまだら色のジャケットを着,赤と黄の縞(しま)の半ズボンをはき,ふちの反り返った帽子をかぶり,太い棒を手にして登場する。こういう道化のスタイルは古い道徳劇に由来したものだといわれる。
史料によるかぎりでは人形遣いの最古のものは前422年古代ギリシアにあったといわれる。日本では8世紀ころに傀儡(傀儡子)(くぐつ)が現れたといわれる。この傀儡子は中国や朝鮮を経て渡来したものとも,また日本古来の神人形の発展ともいわれるが,確かではない。
人形を操るといっても,操作形式は多様である。最もポピュラーなマリオネット(糸操り)から,指人形,棒人形,手遣い人形,影絵,また映画・テレビなどによる撮影手法,それに地方のローカル人形芝居のそれぞれの手法などがある。人形製作に用いられる材料は,木,皮,布,紙,ゴムなどで,軽くて固く柔軟性も要求される。
そのうちマリオネットmarionetteは東洋,西洋とも最古のもので,人形を20~30本の糸でつるし,その糸を手板につなぎ,人形遣いは舞台上部にいて手板を操り,人形を生きもののようにつかう。マリオネットはもともと南ドイツに起こったものともいわれ,ミュンヘンにはビンター・マリオネット座,シュミット座などの小劇場が現存している。なお日本へは明治時代にイギリス人ダークが35本の糸で操るマリオネットを持ってきて,影響を与えた。マリオネットは18世紀以降ロマンティックな宮廷劇を描くようになったが,以前は茶番劇が多く,ドイツではマリオネットから道化人形ハンス・ブルストHans Wurstが生まれた。
だれにでもできるポピュラーな指人形はイギリス,フランスが最も盛んで,ふつうギニョルguignolという。人形を右手で操るので,右手人差指に人形の首を差し込み,親指と小指で表情を操る。したがって人形に脚はない。日本では袱紗(ふくさ)人形という。動きは手首と指だけに限定されるので,身辺の生活にそくした短い風刺劇に多く利用される。道化人形は突然,暴れん坊に変わって,悪者をなぐりつけたりする。先にあげたイギリスのパンチ,ドイツのカスペルなどはその典型である。
棒人形はドイツ,ロシア,中国などで盛んで,ストックプッペという。人形の体を棒で支え,手も下から棒で操る。上下の動き,回転の速度が速くなる。ロシアの有名な人形劇演出家オブラスツォフは独特の棒人形を発明した。
手遣いは日本で独自の発達を遂げて,人形浄瑠璃(文楽)の三人遣いの人形が18世紀にできた。竹本義太夫が近松門左衛門に依頼して浄瑠璃《出世景清》の完成をみたのは1685年(貞享2)だから,そのあと50年ほどで三人遣いは完成した。三人遣いの人形劇は日本独特のものである(詳しくは〈人形浄瑠璃〉の項を参照)。
影絵芝居はインド,中国,ミャンマー,ジャワなどできわめて精巧なものに進み,神話や英雄物語を上演する。薄い皮と厚紙を使って平板な人形をつくり,頭,手,胴,脚などを糸でつないである。中心を棒または針金で支え,後方から照明をあてて影絵を浮きださせる。とくにワヤン・クリット(ワヤン)と呼ばれるジャワの影絵芝居は世界中によく知られている。
地方の祭礼と結びついてアマチュアが発達させた人形芝居も多く,日本では東京都八王子に残る車人形(くるまにんぎよう)などが有名である。車人形は車台に載って,人形遣いは腰を車台にしばったまま,人形を抱いて移動する。ミュンヘンには紙人形劇といって,彩色した紙人形を小さな箱型の装置の中に立て,切ったレールの中を左右に移動する仕掛のものがある。
18世紀後半から20世紀初めへかけて,多くの芸術家が人形劇を愛した。最も有名なのは,J.W.ゲーテの戯曲《ファウスト》が古い人形劇の《ドクトル・ファウスト》から生まれたことだ。ゲーテは祖母からマリオネットを贈られ,4歳のとき《ダビデと巨人ゴリアテ》を見た。そのあとで《ドクトル・ファウスト》を見て生涯忘れることができなかった。神と悪魔の間に立たされて苦しむファウスト博士の姿が目にやきついたのである。またJ.ミルトンは《失楽園》で,少年のころに人形劇で《アダムとイブ》を見た印象が強烈で,永く彼の心中に映像を残したことをうたっている。G.サンドは自分の人形劇場をもっていて120本に及ぶ脚本を書いた。またドイツの伯爵フランツ・ポッチは,ミュンヘンに1858年創立されたシュミット人形劇場のために40本もの脚本を書き残している。
20世紀初めになると,演劇改革者であるイギリスの演出家G.クレーグは,舞台装置,照明に革新的な成果をあげたが,《マリオネット》(1918)という本を著した。俳優を人形の状態に還元するという理論で,それによって従来の名優本位の舞台芸術を,演出家を主体にしたものに発展させなければならないと考えた。ドイツではこの理論を〈超人形劇論〉として受けとめ,演出家中心の舞台をつくるようになった。クレーグが《マリオネット》の中で説いた〈人形の状態に還元する〉ということは,俳優が演出家の全体的な立案どおりに動くことをいう。そうなるためには,俳優が芝居を立案できる能力をもち,エゴイズムを捨てなければならない。俳優が人形の状態に還元できれば,演出家は,デザイン,装置,シーンなどを総括することが自由になり,音楽もそれにふさわしい部分を書いて効果をあげることができるというのである。クレーグは人形劇研究に没頭すると同時に,イタリアの仮面劇(コメディア・デラルテ)からヒントを得て,この理論を打ち出したのであった。日本の小山内薫(おさないかおる)もその影響を受けた演出家だった。
日本では文楽がながく興行資本の下におかれていたため,マリオネットの実験的な試みは1920年代にやっと起こった。21年(大正10)に土方与志(ひじかたよし)舞台装置研究所で装置家伊藤熹朔(きさく)が弟の演出家千田是也と協力して人形劇に手をそめ,29年には川尻東次が人形クラブを創立した。この劇団は川尻泰司が受けついで,人形劇団プークとして今日にいたっている。日本の糸操りは結城(ゆうき)人形座や竹田人形座が発展させてきた。現在の結城孫三郎(まござぶろう)は11代目で,初代は寛永年間(1624-44)に江戸で結城座の座元であった。10代目の孫三郎は芥川竜之介の《杜子春》を脚色上演して注目されたことがある。竹田人形座(竹田座)は1660年(万治3)ころに竹田出雲(いずも)が大坂につくり,糸操り,からくり,手遣い人形などで興行したが,8代目でつぶれたのを,竹田三之助が1955年に復興し,《雪ん子》を発表して注目され,海外へも進出した。
人形劇の国際的な連盟組織として,ウニマUNIMA(Union internationale de la marionnetteの略)が結成されたのは1929年チェコのプラハにおいてだった。88年現在,60ヵ国の組織や個人が参加していて,日本ウニマは67年に組織され,連盟に加わった。ウニマの活動によりスウェーデン,ドイツ,チェコなどの人形劇が続々来日するようになり,中国も近年上海,揚州などの人形劇団を派遣してきている。
人形劇は,サーカス,ミュージックホール,オペラ,バレエ,芝居にも,機知,ユーモア,幻想の一手段としてとりいれられていたが,映画,テレビジョンの普及につれて新しい発展がみられるようになった。人形劇映画はポーランドやチェコなどで発達し,中国も1949年の解放後,力を入れて製作している。妖精物語,コメディ,ドラマなどに分けられるが,ポーランドのW.ハウペ,チェコのJ.トルンカらは人形劇映画の創始者で,トルンカは《兵士シュベイクの冒険》をつくった。またシェークスピアの《真夏の夜の夢》にゴム製人形を用い,長編カラー映画がチェコで製作された。日本ではNHKテレビが少年少女向け人形劇番組をつくり,《里見八犬伝》《真田十勇士》では辻村ジュサブロー製作の人形が人気を博し,続いて《三国志》も長期放映された。
執筆者:尾崎 宏次
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…1918年から92年まで続いた中欧の共和国。国名通称はチェコ語,スロバキア語ともČeskoslovensko。1920‐38年,1945‐60年の正式国名は〈チェコスロバキア共和国Českoslovká republika〉。1948年以後は社会主義体制をとり,60年からの正式国名は〈チェコスロバキア社会主義共和国Československá Socialistická republika〉。1969年よりチェコ社会主義共和国とスロバキア社会主義共和国の連邦制に移行したが,89年の〈東欧革命〉の進行過程で両共和国で連邦制の見直しが図られ,正式国名を〈チェコおよびスロバキア連邦共和国Česká a Slovenská Federativní Republika〉に変更した。…
…子どものためのメルヘン,おとなのための風刺劇,静謐(せいひつ)な詩的世界,壮大な史劇,不気味なSF,中世艶笑譚など,20年間に及ぶ映画活動期間に幅広く奥深い作品群を残した。 本来優秀な挿絵画家であり,人形作家であったトルンカは,まず〈セル・アニメ〉に取り組み,世界に類例のないグラフィック・アートを用いた《贈り物》(1946)をつくって注目を集め,アメリカのスティーブン・ボサストウやユーゴのドゥーシャン・ブコチッチなどに大きな影響を与えたが,トルンカ自身は〈セル・アニメ〉の表現の可能性に疑問を抱くと同時に,動画の作画工程で自分の絵の味わいが損なわれる点に不満をもち,人形劇の体験を生かして,前人未踏の人形アニメーションの世界をつくりあげた。人形のデザインから,製作,原案,シナリオ,絵コンテ,セットや小道具のデザイン,照明や撮影の指示,そしてみずから演技を示してアニメーターに演出意図を伝えるというところに至るまで,完ぺきな〈個人芸〉に徹したアニメづくりで,その個性と才気,美意識は,アンデルセン童話に託して自由へのあこがれと生命の輝きを歌いあげた《支那の皇帝の鶯》(1948),独特の抵抗精神をこめたチェコ国民風刺文学の映画化《シュベイク二等兵》シリーズ(1951‐55),華麗な美学と新解釈でシェークスピアに挑んだ《真夏の夜の夢》(1959),芸術の自由と圧政との戦いの中に苦渋に満ちた深いなぞを含む遺作《手》(1965)等々,すべての作品にうかがえる。…
※「人形劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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