金子光晴(読み)カネコミツハル

デジタル大辞泉 「金子光晴」の意味・読み・例文・類語

かねこ‐みつはる【金子光晴】

[1895~1975]詩人愛知の生まれ。本名、保(安)和。反権力的な新象徴主義詩人として注目された。詩集こがね虫」「さめ」「落下傘」など。

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精選版 日本国語大辞典 「金子光晴」の意味・読み・例文・類語

かねこ‐みつはる【金子光晴】

  1. 詩人。本名保和。愛知県出身。大正後期、フランス象徴詩の影響を受けた華麗な作風詩壇に登場。戦時中は反戦詩を著し、戦後も旺盛な詩作を続けた。詩集「こがね虫」「鮫」「落下傘」など。明治二八~昭和五〇年(一八九五‐一九七五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金子光晴」の意味・わかりやすい解説

金子光晴
かねこみつはる
(1895―1975)

詩人。明治28年12月25日、愛知県海東郡越治村(津島市)生まれ。父大鹿(おおしか)和吉、母りやうの三男。本名安和(やすかず)。弟の秀三は詩人、小説家の大鹿卓(たく)。1897年(明治30)建築業清水組名古屋出張所主任金子荘太郎の養子となり、京都、東京に移り住む。暁星中学を経て、早稲田(わせだ)大学、東京美術学校、慶応義塾大学をいずれも中退。1916年(大正5)病臥(びょうが)中に初めて詩作を試み、以後60年に及ぶ。19年1月、義父の遺産の残りで、処女詩集『赤土(あかつち)の家』を出版、同年2月、骨董(こっとう)商鈴木幸次郎に伴われ渡欧、ベルギーで詩作に励んだ。その一部が『こがね虫』(1923)で、熱烈な美への憧憬(しょうけい)をうたっている。関東大震災で家を失い、各地を放浪。24年、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の生徒森三千代と結婚。だが、三千代は恋多き女で、27年(昭和2)土方(ひじかた)定一と駆け落ちした。草野心平(しんぺい)の尽力により連れ帰り、日本を脱出、足掛け5年、東南アジアからヨーロッパまで放浪旅行。この苦しい旅で、無国籍者の視座を得、詩人として大きく飛躍した。帰国後にまとめた『鮫(さめ)』(1937)は戦争を批判的に描き、現代を代表する詩集といわれている。第二次世界大戦中に書きためた反戦詩は、戦後『落下傘』『蛾(が)』(ともに1948)、『鬼の児の唄(うた)』(1949)として刊行、注目された。戦後は自伝的な『人間の悲劇』(1953)、『水勢』(1956)、『IL(イル)』(1965)などで、日本人の悲劇を追究し、独得の文体を確立した。晩年は自伝小説どくろ杯』(1971)ほかを書き、柔軟、自在な語り口を示している。昭和50年6月30日没。

[首藤基澄]

『『金子光晴全集』全15巻(1975~77・中央公論社)』『首藤基澄著『金子光晴研究』(1970・審美社)』『嶋岡晨著『金子光晴論』(1973・五月書房)』

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20世紀日本人名事典 「金子光晴」の解説

金子 光晴
カネコ ミツハル

大正・昭和期の詩人



生年
明治28(1895)年12月25日

没年
昭和50(1975)年6月30日

出生地
愛知県海東郡越治村(現・津島市下切町)

本名
森 保和(モリ ヤスカズ)

旧姓(旧名)
大鹿,金子

学歴〔年〕
早稲田大学予科〔大正4年〕中退,東京美術学校〔大正4年〕中退,慶応義塾大学予科〔大正5年〕中退

主な受賞名〔年〕
読売文学賞(第5回・詩歌俳句賞)〔昭和28年〕「人間の悲劇」,歴程賞(第3回)〔昭和40年〕「IL」,芸術選奨文部大臣賞(第22回・文学評論部門)〔昭和46年〕「風流尸解記」

経歴
3歳の時、金子家の養子となり東京に移る。大正4年肺炎カタルを患い、詩作を始める。8年詩集「赤土の家」を出版し、美術商につれられて渡欧。10年帰国。12年フランス象徴詩の影響を受けた「こがね虫」で詩壇にデビューする。以後「水の流浪」「鱶沈む」などを発表。昭和3年から7年にかけて、妻の森三千代と共に東南アジアからヨーロッパを放浪し、12年に「鮫」を、15年に紀行文「マレー蘭印紀行」を刊行。戦時中は主として“抵抗と反戦の詩”を書きつづける。19年山中湖に疎開。戦後は「落下傘」「蛾」「鬼の児の唄」を次々に発表し、28年「人間の悲劇」で読売文学賞を受賞。その一方で、ボードレール「悪の華」やランボオ、アラゴンの詩集を翻訳する。「非情」「水勢」のあと、詩作はしばらく休止して自伝「詩人」などを発表し、40年「IL(イル)」を刊行し藤村記念歴程賞を受賞。その後も「若葉のうた」「愛情69」を発表し、46年小説「風流尸解記」で芸術選奨を受賞するなど幅広く活躍した。他に評論「日本人について」「絶望の精神史」「日本人の悲劇」、自伝小説「どくろ杯」、「金子光晴全集」(全15巻 中央公論社)がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「金子光晴」の意味・わかりやすい解説

金子光晴 (かねこみつはる)
生没年:1895-1975(明治28-昭和50)

詩人。愛知県生れ。本名安和。父大鹿和吉は酒商だが,興業や鉱山に手を出していた。1897年,金子荘太郎・須美の養子となり,荘太郎の転勤で,京都,東京と移り住む。小林清親(きよちか)に日本画を学び,後の放浪旅行中には,絵で糊口をしのいだこともある。早大予科,東京美術学校,慶大予科に入学したが,いずれも中退。1915年,肺尖カタルで病臥(びようが)し,詩作を始めた。16年,義父の死で,遺産20万円を義母と折半したが,短期間に散財,残った金で,19年から2年間,ヨーロッパへ留学,ベルギーのブリュッセル郊外に滞在して,初めて向日的な日々を送り,西欧文化への目を開かれた。高踏的・耽美的な詩集《こがね虫》(1923)はその所産。24年,森三千代と結婚したが,定職につかず生活は困窮した。三千代が土方定一と恋愛し,面目を失ったため,28年,三千代と日本を脱出,東南アジアからヨーロッパまで,5年間放浪した。この苦しい旅によって,東西両文明を客体視できるようになり,詩人として大きく飛躍した。《(さめ)》(1937),《落下傘》(1948)等は,抵抗詩集として最も高い位置をしめ,戦後創作の《人間の悲劇》(1952),《IL(イル)》(1965)は,人間の実存の痛みを,詩と散文を混交した独特の文体で表出した傑作である。晩年は自伝小説《どくろ杯》(1971)ほかを発表,自在な語り口と,とらわれない生き方で注目された。《野蛮人》《谷中村事件》の作家大鹿卓(おおしかたく)は実弟。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金子光晴」の意味・わかりやすい解説

金子光晴
かねこみつはる

[生]1895.12.25. 愛知,津島
[没]1975.6.30. 東京
詩人。本名,保和。早稲田大学,慶應義塾大学,東京美術学校などを中退。 W.ホイットマン,E.カーペンターなどの影響による民衆詩派的色彩の濃い詩集『赤土の家』 (1919) を出版して渡欧。 E.ベルハーレン,C.ボードレールの作品に親しみ,帰国してフランスの象徴派や高踏派の影響を消化した華麗な作風の詩集『こがね虫』 (23) ,『水の流浪』 (26) を出した。その後,妻森三千代との共著『鱶 (ふか) 沈む』 (27) 発行後,1929年再び妻とともに約6年に及ぶ渡欧の途についた。 34年帰国後,日本の風俗や家族制度,天皇中心の権力支配,戦争を痛烈に否定した抵抗詩集『鮫』 (37) を出したあと沈黙を守り,第2次世界大戦後は『落下傘』 (48) ,『蛾』 (53) ほか旺盛な詩活動を続けて詩壇に重きをなした。

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百科事典マイペディア 「金子光晴」の意味・わかりやすい解説

金子光晴【かねこみつはる】

詩人。本名保和(やすかず)。愛知県生れ。早大・慶大・東京美術学校いずれも中退。1919年から2年間,ヨーロッパへ留学,帰国後,1923年詩集《こがね虫》で詩壇に登場。1928年,妻とともに日本脱出,5年間の放浪を経て帰国。旅の中で得た〈世界人〉的な眼をもって日本の文明と社会を相対化する詩集《鮫》(1937年)は当時の軍国主義への抵抗詩として注目された。《人間の悲劇》《非情》等の詩集,自伝小説《どくろ杯》がある。
→関連項目山之口貘吉田一穂

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「金子光晴」の解説

金子光晴 かねこ-みつはる

1895-1975 大正-昭和時代の詩人。
明治28年12月25日生まれ。森三千代の夫。大正8年初の詩集「赤土の家」を出版後,渡欧。帰国後「こがね虫」を刊行。昭和12年日本の現実を風刺した「鮫(さめ)」を発表。戦後,反戦詩集「落下傘」「蛾(が)」などを刊行。29年「人間の悲劇」で読売文学賞。昭和50年6月30日死去。79歳。愛知県出身。早大,東京美術学校(現東京芸大),慶大中退。旧姓は大鹿。本名は保和。
【格言など】二十五歳の懶惰(らんだ)は,金色に眠っている(「こがね虫」)

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367日誕生日大事典 「金子光晴」の解説

金子 光晴 (かねこ みつはる)

生年月日:1895年12月25日
明治時代-昭和時代の詩人
1975年没

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世界大百科事典(旧版)内の金子光晴の言及

【鮫】より

金子光晴の詩集。1937年人民社刊。…

【詩】より

…一方,草野心平,逸見猶吉,高橋新吉,菱山修三,中原中也,山之口貘,伊藤信吉らは《歴程》(1935創刊)に拠り,それぞれの個性的な詩風を展開すると同時に,宮沢賢治,八木重吉ら物故詩人の仕事の顕彰につとめた。《歴程》には高村光太郎や金子光晴も寄稿した。戦争の激化とともに多くの詩人が軍事国家体制下の戦争詩の書き手に変貌していったが,金子光晴は近代的自我意識に根ざす反骨と批判精神を保った抵抗の詩をひそかに書きつづけ,戦後《落下傘》(1948),《女たちへのエレジー》(1949)その他の詩集としてこれらを発表,反響をよんだ。…

※「金子光晴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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