出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
Sponserd by 
金桜神社
かなざくらじんじや
[現在地名]甲府市御岳町
御岳町南部の山間部にある。祭神は少彦名命・大己貴命・須佐之男命・日本武尊・櫛稲田媛命。旧県社。幕末までは蔵王権現とよばれ、金峰山山頂の本宮(奥宮・山宮)と合せて御岳山と総称された。慶応四年(一八六八)当社が提出した由緒書(社記)では金桜神社を称している。「延喜式」神名帳記載の山梨郡「金桜神社」を当社に比定する説がある。金峰山を信仰する神社で、山頂本宮の神体は五丈岩。前掲由緒書などによれば、この金丸山(金峰山)山頂の甲斐・信濃国境の石には古来より少彦名命が鎮座し、御像石(御影石)とよばれていた。景行天皇四〇年に日本武尊が東征からの帰途金丸山に登って参詣し、ここを一国鎮護の霊場とすることとし、御像石の下に社殿を建立するように国造塩海宿禰に命じた。この時に併せて須佐之男命と大己貴命を合祀したのが当社本宮の草創で、雄略天皇一〇年に神勅によって御岳山(神岳)に社殿を建立し、本宮三柱神を勧請したのが里宮である当社の成立であるという。中宮魂正明神には日本武尊を祀って地主神とし、東宮稲田社には稲田姫命を祀った。大宝二年(七〇二)勅命により大和国金峯山から蔵王大権現と金精大明神を移し、前者を本宮に、後者を中宮に合祀、以後金丸山を金峰山に、神岳を御岳山に改めた。また同時に神領山内に末社一二〇神を勧請したと伝える。
御像石の頂側には甲斐派美という清水が湧く場所があり、旱魃でもかれず、大雨でもあふれることがないといわれた。甲斐国荒川・塩川、武蔵国玉(多摩)川、信濃国の千曲川の水源とも信じられ、耕作守護神として下流域の諸国からの参詣者が絶えなかった。甲斐国司も代々当社に参詣、平安期には空海が自筆の経文を、鎌倉期に入ると日蓮も一部八巻の法華経を一〇〇日参籠して奉納し、また執権北条時頼は大般若経を奉納したとも伝えている(前掲由緒書)。里宮の正殿・拝殿・庁屋は武田義信によって造営され、中宮社殿は甲斐源氏の祖逸見太郎清光によって再建されたと伝える。稲田社には神楽殿・神供所・社人参籠所と神木の金桜があり、神楽殿は浅野長政が建立、神供所と社人参籠所は貞享五年(一六八八)一月に甲府家の徳川綱豊が国中に奉加を募り、自身も米一〇〇俵を寄進して建立したという。「夫木抄」収載の前大僧正隆弁の歌「いにしへのよしのをうつすみたけ山こがねのはなもさこそさくらめ」は当社に奉納されたものという(甲斐国志)。
金桜神社
かなざくらじんじや
[現在地名]山梨市万力
万力集落の西方、落合との境付近にある。金峯権現・大宮権現ともいう。祭神は大己貴命・事代主命。旧村社。「延喜式」神名帳に記載される山梨郡の「金桜神社」とする説がある。金峯権現として尊崇されてきたが、その後落合の白山権現、熊野堂(現春日居町)の熊野権現、下岩下(現同上)の走湯権現、別田(現同上)の箱根権現を配祀したため、五所権現と呼称されるようになった。江戸時代には上万力・上岩下・落合・正徳寺・山根・矢坪・切差、金塚(桑戸の内)・熊野堂・別田・小松(現春日居町)、赤柴・膝立(現牧丘町)の一二ヵ村の総鎮守。
金桜神社
かなざくらじんじや
[現在地名]牧丘町杣口
蔵王権現ともいい、霊山金峰山の里宮として仁寿元年(八五一)秋に創建されたという。かつては大社であったが、しだいに衰微し小社になったと伝える(社記)。「延喜式」神名帳に記載される山梨郡「金桜神社」は当社のことというが、不詳。金峰山頂に祀られた蔵王権現参詣への登山口として御岳道九口があり、そのうちの一つが杣口で、それぞれの口に里宮として金桜神社が置かれていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
金桜神社
山梨県にある神社。金峰山を神体とする。山頂の奥の院に祭神・少彦名命(すくなびこなのみこと)が祀られており、甲府市御岳町に里宮がある。淡黄色の花が咲く「鬱金(うこん)桜」が有名。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
Sponserd by 