金石城跡(読み)かねいしじようあと

日本歴史地名大系 「金石城跡」の解説

金石城跡
かねいしじようあと

[現在地名]厳原町今屋敷 金石

対馬島主宗氏が府中ふちゆうに築いた居館の跡。国指定史跡清水しみず南麓にあり、府城または金石の屋形ともいう。享禄元年(一五二八)一〇月、宗盛治軍勢を率いて府城の攻略に成功、宗家一五代の宗将盛(盛賢)村里に逃れた。これに対して宗盛廉は同月府城を攻めて盛治を敗死させ、将盛の復活がなるが(宗氏家譜)、このとき池の屋形も焼亡したので、同二年金石に邸を移し、「金石屋形」と称したという(「宗氏世系私記」対馬古文書)。一族や家臣に背かれた盛賢は追われるように引退し、後を晴康に譲っている。


金石城跡
かねいしじようあと

[現在地名]都城市庄内町 内城

安永やすなが城を構成する四つの曲輪の一つで、本丸(内城)の西側に位置する。周辺の低位水田面と比高約三〇メートルを測る、標高一九〇メートルほどの独立丘陵を利用して構築されている。城の縄張りは南北約一五〇メートル、東西約一二〇メートルに及び、三つの小曲輪に分割された山頂部の平坦面を中心としながら、東側に一つ、南側に二つの腰曲輪・帯曲輪が配されている。民間開発に伴い、平成三年(一九九一)に山頂部の平坦面(第一・第二曲輪)の発掘調査が実施された。調査の結果、城の南裾から帯曲輪を経て枡形状に城内へ至る幅五メートル、曲輪面との比高差約三メートルの堀状道路や、軽石積みの階段状遺構、数十棟の掘立柱建物跡、溝状遺構などが検出されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「金石城跡」の解説

かねいしじょうあと【金石城跡】


長崎県対馬市厳原(いずはら)町にある城跡。清水山の南麓の平地を利用して築かれ、城の南側に金石川が流れている。城跡の遺構は東門(大手櫓門(やぐらもん)を含む)の桝形、西門の桝形および周辺の石垣、金石川沿いの石垣、西門に近接して心字池の庭園遺構が残っている。1981年(昭和56)と翌年に行われた発掘調査では、文化年間(1804~18年)の金石城を描いた絵図と合致する位置に建物・排水溝などの遺構が検出され、朝鮮系瓦のような特色ある遺物出土。『宗(そう)家家譜』によると、1528年(享禄1)に築城され、1679年(延宝6)に居を移すまで、150年間宗家の居城であった。城の構造は比較的簡素であり、複雑な縄張りをもつ堅固な城ではないが、外交に生きた宗氏の城にふさわしい壮麗な構えをしており、重要な歴史的意義をもち、遺構も良好に残っていることなどから、1995年(平成7)に国の史跡に指定された。金石城の詰めの城として機能した可能性も考えられる清水山城跡は、文禄・慶長の役(1592~98年)の際の陣城跡、隣接する万松院(ばんしょういん)は宗家の菩提寺である。厳原港から徒歩約16分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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