朝日日本歴史人物事典 「釧雲泉」の解説
釧雲泉
生年:宝暦9(1759)
江戸後期の南画家。名は就。通称文平。字は仲孚。雲泉,岱就,六石などと号した。肥前島原(長崎県)の人。幼年,父と長崎に遊び,来舶清人について中国語と画を学ぶ。父を亡くしたのち諸国遍歴の生活が始まる。江戸に出,寛政年間(1789~1801)30歳代には備中・備前(岡山県)を中心に中国・四国地方を遊歴。大坂の木村蒹葭堂を訪ねることもあった。その後江戸に居住。海野蠖斎,海保青陵,亀田鵬斎,大窪詩仏など芸文界の人々と交流。文化3(1806)年以降,しばしば越後(新潟県)に遊び,越後出雲崎で客死。「座ニ俗客有レバ則チ睨視シテ言ヲ接セズ」「画人ヲ以テコレヲ呼ベバ白眼視シテ答ヘズ」と伝えられ,文人意識が強かったが,現実には画家として生計を立てていたはずである。作品には様式的な幅があるが,寛政年間の若描きが清新な画風で,推される。代表作は「風竹図」(個人蔵),「秋深江閣図屏風」(長崎県立美術博物館蔵)など。
(武田光一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報