釧雲泉(読み)くしろうんせん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「釧雲泉」の意味・わかりやすい解説

釧雲泉
くしろうんせん
(1759―1811)

江戸後期の南画家。名は就、字(あざな)は仲孚(ちゅうふ)、号は雲泉のほか六石、岱岳、磊々生。通称は文平。肥前長崎県)島原の武士の家に生まれる。幼時、父とともに長崎に行き、中国人に教えを受けたため、中国語に通じていた。画(え)は清(しん)人より学んだといわれるが不明。父の没後、1792、93年(寛政4、5)ころには、三備地方、讃岐(さぬき)(香川県)の間を渉歴、98年ころには京都、1803年(享和3)ころには江戸に至っている。この間、長町竹石海野蠖斎(かくさい)、皆川淇園(きえん)、亀田鵬斎(ほうさい)、大窪詩仏(おおくぼしぶつ)らと交流。06年(文化3)には詩仏とともに信濃(しなの)(長野県)を経て越後(えちご)(新潟県)に遊歴。文化(ぶんか)8年11月16日越後出雲崎(いずもざき)で客死。53歳。同地の浄法寺に葬る。画は正統的な南宗画スタイルを志向したものが多いが、若年のころの瀟洒(しょうしゃ)な作品に特徴がある。

[星野 鈴]


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改訂新版 世界大百科事典 「釧雲泉」の意味・わかりやすい解説

釧雲泉 (くしろうんせん)
生没年:1759-1811(宝暦9-文化8)

江戸後期の南画家。名を就,字を仲孚,通称を文平といった。肥前島原の人で,長崎に遊学して来朝した清国人から画法を学び,中国の南宗文人画風の山水画をよくした。中国,四国,京都を遊歴したのち,江戸に住んだ。木村蒹葭堂浦上玉堂,頼山陽谷文晁など,当時の各地の文人や画家と親交があったが,晩年越後国に転居して同国の出雲崎で没した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「釧雲泉」の意味・わかりやすい解説

釧雲泉
くしろうんぜん

[生]宝暦9(1759).肥前,島原
[没]文化8(1811).11.16. 越後,出雲崎
江戸時代後期の南画家。名は就,字は仲孚。通称は文平。号は雲泉,岱岳 (たいがく) など。幼い頃父とともに長崎へ出て,清人に師事して学を修め,同時に明,清の文人画を研究し山水画を得意とする。諸国を遊歴し木村蒹葭堂,十時梅崖 (とときばいがい) ,頼山陽,谷文晁ら多くの文人,南画家と交遊,文政~天保期の南画の盛運に資した。主要作品『渓山 閒居図』 (1795) ,『金碧山水図』など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「釧雲泉」の解説

釧雲泉 くしろ-うんせん

1759-1811 江戸時代中期-後期の画家。
宝暦9年生まれ。肥前(ひぜん)島原(長崎県)の人。長崎で中国人にまなぶ。中国の元(げん)・明(みん)の画風を研究し,山水画を得意とする。諸国をめぐって木村蒹葭堂(けんかどう),大窪詩仏(おおくぼ-しぶつ)らの文人とまじわった。文化8年11月16日死去。53歳。名は就。字(あざな)は仲孚(ちゅうふ)。通称は文平。作品に「風竹図」「秋深江閣図」など。

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世界大百科事典(旧版)内の釧雲泉の言及

【煎茶道】より

…その地域もほぼ全国に広がったが,なかでも長崎,熊本,福岡などの九州を起点として,瀬戸内航路の沿岸諸地域に広く流行した。長崎では木下逸雲や釧雲泉(くしろうんせん)らの画家が煎茶愛好家としてよく知られているが,とくに雲泉は煎茶具を担っての漂泊の旅にその生涯を終えた。江戸の文人たちに煎茶の楽しさを教えた最初の人物とも考えられる。…

※「釧雲泉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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