浦上玉堂(読み)ウラガミギョクドウ

デジタル大辞泉 「浦上玉堂」の意味・読み・例文・類語

うらがみ‐ぎょくどう〔‐ギヨクダウ〕【浦上玉堂】

[1745~1820]江戸中期の南画家。姓は紀、名はたすくあざなは君輔。備前池田家の支藩鴨方かもがた家に仕えたが、江戸に出て、詩や琴、絵を学ぶ。のちに脱藩して、各地を遊歴した。画は深い自然観をたたえ、濃淡交えた繊細な渇筆を駆使した山水画に独自の境地を開いた。

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精選版 日本国語大辞典 「浦上玉堂」の意味・読み・例文・類語

うらがみ‐ぎょくどう【浦上玉堂】

  1. 江戸後期の南画家。姓は紀。諱は弼(ひつ)。通称、兵右衛門。備中鴨方池田藩を脱藩後、諸国を放浪した。儒学に通じ、詩、書画に優れ、琴の名手でもあった。山水の水墨画に作品を残す。代表作は「東雲篩雪図」「山紅於染図」「煙霞帖」「鼓琴余事帖」。延享二~文政三年(一七四五‐一八二〇

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改訂新版 世界大百科事典 「浦上玉堂」の意味・わかりやすい解説

浦上玉堂 (うらがみぎょくどう)
生没年:1745-1820(延享2-文政3)

江戸時代の文人画家。姓は紀,諱(いみな)は弼,字は君輔。玉堂は号。岡山池田藩の支藩鴨方藩士の家に生まれる。自ら〈玉堂琴士,幼にして孤〉というように,7歳のとき父をなくし,母一人子一人の孤独な境涯にあった。9歳で《小学》を読み,10歳で藩学へ入学,16歳の年には藩学において大生となり,この年藩主政香の御側詰となる。主君政香は玉堂より1歳年上で,当時の人々に水魚の交わりといわれたが,1768年(明和5)玉堂24歳の年に政香が没した。玉堂は政香の抱いた政治の理想を継承しつつ,37歳の年には大目付の地位につく。しかし43歳の年には大目付を罷免され,さらに49歳でいっさいの官職を退く。仕官の間,しだいに書画や作詩,琴などにふけるあまり,藩務をおろそかにするようになったのである。こうした心の変化は政香の死去とともに進んでいたものと思われ,俗吏俗官の世界は玉堂が燃やし続けた理想にはほど遠いものであったのかもしれない。翌50歳の年に彼は春琴,秋琴の2人の息子を連れて出奔し,旅先から脱藩を届け出,以後自由人として各地を遊歴し,漂泊の人となる。

 玉堂は仕官の間,江戸在勤となり,たびたび岡山と江戸を往来している。江戸では公務のかたわら琴や詩を学び,谷文晁などと結社して絵を学んだ。とくに35歳の年,明の顧元昭作の古琴を得た。これに〈玉堂清韻〉の銘があり,自らを〈玉堂琴士〉と称するほどに琴の音楽に耽溺していく。脱藩後の漂泊の足跡は九州から奥羽にまで及んだ。この間詩集《玉堂琴士集》を刊行し,詩人,琴人としての名声を得た。彼の絵は1811年(文化8)ころから多く生みだされたようである。渇筆と擦筆がまじり合った独特の様式はこのころ完成したと思われ,現存する著名な作品もこれ以降,没年までの間に制作されている。音楽,詩,絵という三つの世界は玉堂の物心両面を支え,それらは互いに微妙に絡まりあって玉堂芸術の全体像を作り上げているといえる。

 玉堂の画家としての才能を受け継ぐのは長男の浦上春琴(1779-1846)である。名は選。幼少のころより画を父に学ぶが,父の脱藩後共に遊歴し,やがて京都に来往。頼山陽などと親交を結ぶ。山水花鳥を最も得意としたが,その精彩巧緻の画風は,父玉堂神韻縹渺(ひようびよう)なるそれと大きく異なる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浦上玉堂」の意味・わかりやすい解説

浦上玉堂
うらかみぎょくどう
(1745―1820)

江戸後期の南画家。名は考弼(こうひつ)、字(あざな)は君輔、通称を兵右衛門といい、穆斎(ぼくさい)、玉堂と号した。岡山藩の支藩鴨方(かもがた)池田藩士の家に生まれ、7歳で父を亡くし跡目を相続。玉堂は主君池田政香(まさか)を敬愛し、その夭折(ようせつ)(1768、25歳)に際しては大きな打撃を受けたといわれる。武士としては大目付にまで上ったが、43歳のときには罷免され閑職についた。学問は初め藩校で儒学を学び、江戸詰(1774~1775)の際には崎門(きもん)学派の玉田黙翁(たまだもくおう)に師事して朱子学を修めたが、のちには古学や陽明学に接近する。一方、10代のころから七絃琴を学び、江戸詰めに際しては多紀藍渓(たきらんけい)についているが、琴は玉堂のもっとも愛するところであった。1779年(安永8)明(みん)の顧元昭作の琴を手に入れ、のちその銘「玉堂清韻」によって号を玉堂とした。このころより文人墨客との交遊が多くなり、画(え)を描き始めるなど自身の生活の中心も琴や詩文に傾いてゆく。1794年(寛政6)、2児春琴、秋琴を伴い、旅先で突然脱藩。その動機は不明であるが、寛政(かんせい)異学の禁の身に及ぶのを避けたためともいわれる。以後、画筆と愛用の琴を携えて諸国を放浪。晩年は京に住んだ。玉堂の画はおもに独学であり、作品のほとんどが脱藩以後、60、70代に集中している。50代の様式模索期を経て、60代には独自の水墨山水画様式をつくりだした。冬の山中を微妙な墨の諧調(かいちょう)と繊細な筆致で憂愁を込めて描き出した『東雲篩雪図(とううんしせつず)』(国宝)、秋の明るく澄んだ山中をわずかな色彩を添えることによって表現した『山紅於染図(さんこうおせんず)』、また『煙霞帖(えんかじょう)』『鼓琴余事帖』(いずれも重要文化財)など、揺れ動く自らの心象を鋭い詩的感性をもってうたい上げた画面は、近年とみに高い評価を得ている。

[星野 鈴]

『吉澤忠著『水墨美術大系13 玉堂・木米』(1975・講談社)』『脇田秀太郎著『日本美術絵画全集20 浦上玉堂』(1978・集英社)』


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朝日日本歴史人物事典 「浦上玉堂」の解説

浦上玉堂

没年:文政3.9.4(1820.10.10)
生年:延享2(1745)
江戸後期の南画家。姓を紀,名は孝弼,字は君輔,通称を兵右衛門といった。35歳のとき「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七弦琴を得てから,玉堂琴士と号した。別に白髯琴士などの号がある。備前岡山藩の支藩鴨方藩士の家に生まれ,7歳で家督を嗣ぐ。青年のころには1歳年上の藩主池田政香を敬慕し,その側近として仕えたが,政香は25歳で没した。その後大目付にまで進んだが,43歳のときには大取次御小姓支配役へと左遷されている。この間,江戸詰の折には,多紀藍渓について琴を学び,また自宅を訪れた司馬江漢や春木南湖,海量ら文人墨客と交流,『玉堂琴譜』を出版するなどしていたが,同輩からは次第に好事に走る者とみなされるようになっていったらしい。寛政6(1794)年50歳のとき春琴,秋琴の2子をつれて旅先の城崎温泉から突然脱藩届けを出し,以後,愛用の琴を携えて各地を放浪,書画と琴を中心とする自由な生活に入り,晩年は京都に住した。脱藩については,寛政異学の禁の身におよぶのを避けたためとも,娘之の不義事件のためともいわれるが判明していない。ただし,岡山藩は陽明学の本拠地であり,玉堂の周辺には,河本一阿,立軒などの陽明学の徒があり,玉堂自身も陽明学に関心を持っていたこと,また,48歳のときに妻を亡くしたことがわかっている。 玉堂の画は独学といってよいもので,脱藩以前から絵を描いていたが,そのほとんどは60,70歳代の制作にかかる。「東雲篩雪図」(川端康成記念館蔵),「煙霞帖」(梅沢記念館蔵)のように,深い憂愁感にみちたもの,また「山紅於染図」「高下数家図」(いずれも個人蔵)のように落ち着いた澄明感のあるもの,「鼓琴余事帖」(個人蔵)のような動きのある作品など,いずれも山水だけを対象にして,鋭い神経をはりめぐらし,擦り込むような筆致は,詩情溢れる美しい世界を表出している。長男の春琴も山水花鳥画を得意として高い評価を得ていた画家である。<参考文献>矢田三千男『(稿本)浦上玉堂の研究』,森銑三「浦上玉堂伝の研究」(『森銑三著作集』3巻),『浦上玉堂画譜』

(星野鈴)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浦上玉堂」の意味・わかりやすい解説

浦上玉堂
うらがみぎょくどう

[生]延享2(1745).備前
[没]文政3(1820).9.4. 京都
江戸時代後期の文人,画家。姓は紀,氏は浦上,名は弼,字は君輔,通称,兵右衛門。備前池田藩の支藩,鴨方の藩主政香の側近として仕えた。藩校で儒学を,江戸在勤中は玉田黙翁に朱子学を学び,陽明学も修める。生前は琴の名手として有名で,画名はむしろ長子春琴 (1779~1846) のほうが高かった。穆斎 (ぼくさい) の号を玉堂琴士と改号 (1779) したのも,その年「玉堂清韻」銘の中国伝来の七弦琴を入手したことに由来。 30歳代後半までは模範的な藩士であったと思われるが,次第に好事の世界へ傾斜,天明7 (87) 年大目付役を罷免され,寛政6 (94) 年ついに春琴,秋琴の2児を連れて脱藩した。以後,琴を持って全国を遊歴しながら多くの絵を制作したが,彼は池大雅や与謝蕪村とは異なり,職業画家ではなく,絵は琴と同じく若年から学んでいたが,おそらく独学であったと思われる。独自の擦筆とリズミカルな筆致を駆使して詩情豊かな山水図を描いた。画面のところどころに点じた朱や代赭のさわやかな色感も特徴の一つ。 60歳を過ぎて多くの傑作を生み,小品にみるべきものが多い。晩年は京都に定住。著書『玉堂琴譜』『玉堂詩集』など。主要作品『山雨染衣図』『凍 (東) 雲篩雪図』『煙霞帖』『野橋可立図』『山紅於染図』。

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百科事典マイペディア 「浦上玉堂」の意味・わかりやすい解説

浦上玉堂【うらがみぎょくどう】

江戸時代の南画家。岡山池田藩の支藩鴨方藩士の家に生まれる。姓は紀,名は弼,字は君輔。七弦琴の名手で,生涯手離さず,自ら玉堂琴士と称した。自由な文人生活にあこがれ,1794年2子を抱いて脱藩,諸国を放浪して自然の観照を深め,奔放ともみえる独自の山水画風を確立。代表作《東雲篩雪図》《煙霞帖》,著書に《玉堂琴譜》がある。
→関連項目岡田米山人岡山県立美術館万鉄五郎

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「浦上玉堂」の解説

浦上玉堂
うらかみぎょくどう

1745~1820.9.4

江戸後期の南画家。姓は紀,名は弼,字は君輔。玉堂琴士の号は,中国伝来の琴の銘からつけたもので,画とともに七弦琴も得意とした。備前国岡山藩支藩岡山新田(鴨方)藩士として37歳のときに大目付にまで進むが,1794年(寛政6)旅先で2子をつれて脱藩。以後,琴を背負って各地を放浪し晩年は京都に住んだ。画は独学だったらしい。画作は脱藩後,とくに60~70歳代に集中する。作品は「東(凍)雲篩雪(とううんしせつ)図」や「煙霞帖(えんかじょう)」のような憂愁感漂うものや,「山紅於染(さんこうおせん)図」や「高下数家(こうかすうか)図」のように澄んだ境地をみせるものなどがある。内面の揺れをそのまま筆墨に託す表現は,南画史上にも類をみない個性的な世界をつくっている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浦上玉堂」の解説

浦上玉堂 うらがみ-ぎょくどう

1745-1820 江戸時代中期-後期の文人画家。
延享2年生まれ。備中(びっちゅう)岡山新田藩士。寛政6年50歳のとき,春琴,秋琴の2人の子供をつれ脱藩。以後60代半ばに京都におちつくまで,琴をたずさえ各地を放浪した。独学で独自の山水画の世界をきずいた。詩人としての評価もたかい。文政3年9月4日死去。76歳。名は孝弼。字(あざな)は君輔。通称は兵右衛門。別号に穆斎。作品に「東雲篩雪(しせつ)図」(国宝),「煙霞帖」「山紅於染図」など。詩集に「玉堂琴士集」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「浦上玉堂」の解説

浦上玉堂
うらがみぎょくどう

1745〜1820
江戸後期の南画家
備前岡山藩の支藩鴨方藩士。1794年2子をつれて脱藩し,放浪後,京都で趣味的生活を送った。琴をよくし,独学で文人画を描いた。画風は奔放な構図の中に激しい気迫を感じさせる。代表作に『東雲篩雪 (とううんしせつ) 図』『煙霞帖 (えんかちよう) 』など。

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