江戸時代の文人画家。姓は紀,諱(いみな)は弼,字は君輔。玉堂は号。岡山池田藩の支藩鴨方藩士の家に生まれる。自ら〈玉堂琴士,幼にして孤〉というように,7歳のとき父をなくし,母一人子一人の孤独な境涯にあった。9歳で《小学》を読み,10歳で藩学へ入学,16歳の年には藩学において大生となり,この年藩主政香の御側詰となる。主君政香は玉堂より1歳年上で,当時の人々に水魚の交わりといわれたが,1768年(明和5)玉堂24歳の年に政香が没した。玉堂は政香の抱いた政治の理想を継承しつつ,37歳の年には大目付の地位につく。しかし43歳の年には大目付を罷免され,さらに49歳でいっさいの官職を退く。仕官の間,しだいに書画や作詩,琴などにふけるあまり,藩務をおろそかにするようになったのである。こうした心の変化は政香の死去とともに進んでいたものと思われ,俗吏俗官の世界は玉堂が燃やし続けた理想にはほど遠いものであったのかもしれない。翌50歳の年に彼は春琴,秋琴の2人の息子を連れて出奔し,旅先から脱藩を届け出,以後自由人として各地を遊歴し,漂泊の人となる。
玉堂は仕官の間,江戸在勤となり,たびたび岡山と江戸を往来している。江戸では公務のかたわら琴や詩を学び,谷文晁などと結社して絵を学んだ。とくに35歳の年,明の顧元昭作の古琴を得た。これに〈玉堂清韻〉の銘があり,自らを〈玉堂琴士〉と称するほどに琴の音楽に耽溺していく。脱藩後の漂泊の足跡は九州から奥羽にまで及んだ。この間詩集《玉堂琴士集》を刊行し,詩人,琴人としての名声を得た。彼の絵は1811年(文化8)ころから多く生みだされたようである。渇筆と擦筆がまじり合った独特の様式はこのころ完成したと思われ,現存する著名な作品もこれ以降,没年までの間に制作されている。音楽,詩,絵という三つの世界は玉堂の物心両面を支え,それらは互いに微妙に絡まりあって玉堂芸術の全体像を作り上げているといえる。
玉堂の画家としての才能を受け継ぐのは長男の浦上春琴(1779-1846)である。名は選。幼少のころより画を父に学ぶが,父の脱藩後共に遊歴し,やがて京都に来往。頼山陽などと親交を結ぶ。山水花鳥を最も得意としたが,その精彩巧緻の画風は,父玉堂神韻縹渺(ひようびよう)なるそれと大きく異なる。
執筆者:佐々木 丞平
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江戸後期の南画家。名は考弼(こうひつ)、字(あざな)は君輔、通称を兵右衛門といい、穆斎(ぼくさい)、玉堂と号した。岡山藩の支藩鴨方(かもがた)池田藩士の家に生まれ、7歳で父を亡くし跡目を相続。玉堂は主君池田政香(まさか)を敬愛し、その夭折(ようせつ)(1768、25歳)に際しては大きな打撃を受けたといわれる。武士としては大目付にまで上ったが、43歳のときには罷免され閑職についた。学問は初め藩校で儒学を学び、江戸詰(1774~1775)の際には崎門(きもん)学派の玉田黙翁(たまだもくおう)に師事して朱子学を修めたが、のちには古学や陽明学に接近する。一方、10代のころから七絃琴を学び、江戸詰めに際しては多紀藍渓(たきらんけい)についているが、琴は玉堂のもっとも愛するところであった。1779年(安永8)明(みん)の顧元昭作の琴を手に入れ、のちその銘「玉堂清韻」によって号を玉堂とした。このころより文人墨客との交遊が多くなり、画(え)を描き始めるなど自身の生活の中心も琴や詩文に傾いてゆく。1794年(寛政6)、2児春琴、秋琴を伴い、旅先で突然脱藩。その動機は不明であるが、寛政(かんせい)異学の禁の身に及ぶのを避けたためともいわれる。以後、画筆と愛用の琴を携えて諸国を放浪。晩年は京に住んだ。玉堂の画はおもに独学であり、作品のほとんどが脱藩以後、60、70代に集中している。50代の様式模索期を経て、60代には独自の水墨山水画様式をつくりだした。冬の山中を微妙な墨の諧調(かいちょう)と繊細な筆致で憂愁を込めて描き出した『東雲篩雪図(とううんしせつず)』(国宝)、秋の明るく澄んだ山中をわずかな色彩を添えることによって表現した『山紅於染図(さんこうおせんず)』、また『煙霞帖(えんかじょう)』『鼓琴余事帖』(いずれも重要文化財)など、揺れ動く自らの心象を鋭い詩的感性をもってうたい上げた画面は、近年とみに高い評価を得ている。
[星野 鈴]
『吉澤忠著『水墨美術大系13 玉堂・木米』(1975・講談社)』▽『脇田秀太郎著『日本美術絵画全集20 浦上玉堂』(1978・集英社)』
(星野鈴)
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1745~1820.9.4
江戸後期の南画家。姓は紀,名は弼,字は君輔。玉堂琴士の号は,中国伝来の琴の銘からつけたもので,画とともに七弦琴も得意とした。備前国岡山藩支藩岡山新田(鴨方)藩士として37歳のときに大目付にまで進むが,1794年(寛政6)旅先で2子をつれて脱藩。以後,琴を背負って各地を放浪し晩年は京都に住んだ。画は独学だったらしい。画作は脱藩後,とくに60~70歳代に集中する。作品は「東(凍)雲篩雪(とううんしせつ)図」や「煙霞帖(えんかじょう)」のような憂愁感漂うものや,「山紅於染(さんこうおせん)図」や「高下数家(こうかすうか)図」のように澄んだ境地をみせるものなどがある。内面の揺れをそのまま筆墨に託す表現は,南画史上にも類をみない個性的な世界をつくっている。
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