鈴木善幸内閣(読み)すずきぜんこうないかく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鈴木善幸内閣」の意味・わかりやすい解説

鈴木善幸内閣
すずきぜんこうないかく

(1980.7.17~1982.11.27 昭和55~57)
1980年7月成立した自由民主党内閣。「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設置し行政改革を最大の課題とした。1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略に協力していく姿勢を明らかにした。国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やすくに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現した。しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再建」は破綻(はたん)し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国からの批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のなか、1982年10月12日突如退陣を表明した。鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴としていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く受け「角影内閣」との異名をとった。

伊藤 悟]

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百科事典マイペディア 「鈴木善幸内閣」の意味・わかりやすい解説

鈴木善幸内閣【すずきぜんこうないかく】

1980年7月17日〜1982年11月27日。自由民主党単独内閣。1980年6月の衆参同日選挙期間中に急死した大平正芳を継いで発足。当時自民党では〈三角大福中〉の党内闘争が続いていたが,この選挙での自民党の圧勝は〈大平の遺産〉と受けとめられ,大平派に属する鈴木善幸話し合いで党総裁に選出され,総理大臣に就任。鈴木は〈庶民型〉〈調整型〉の政治家の代表的存在で,就任に当たって掲げたキャッチフレーズは〈和(信頼と合意)の政治〉。内政面での最大の課題は財政再建で,1981年3月〈土光臨調〉を発足させ行政改革に取り組んだが,総裁再選阻止の動きが出たため自ら退陣。後継中曾根康弘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鈴木善幸内閣」の解説

鈴木善幸内閣
すずきぜんこうないかく

自民党の鈴木善幸を首班とする内閣(1980.7.17~82.11.27)。1980年(昭和55)6月,衆参同日選挙で自民党大勝の後をうけて成立。党の統一・融和を優先,派閥領袖を閣内にいれ「和の政治」を提唱。外交面では,環太平洋協力や総合安全保障の構想を大平前首相からひきつぎ,経済援助政策を強化し成果をあげた。81年5月,首相の同盟関係への否定的発言から日米関係が一時緊張,伊東正義外相の辞任に発展した。内政面では,第2次臨時行政調査会の答申にもとづき行政改革大綱を発表し,赤字国債の整理をめざし財政再建にとりくんだ。82年11月の総裁選には出馬せず,同27日に辞任。

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