日本歴史地名大系 「長野郷」の解説
長野郷
ながのごう
「和名抄」にみえるが、諸本ともに訓はない。志紀地方の長野は古代では比較的著名な地名である。「日本書紀」神功皇后二年一一月条では仲哀天皇を長野陵に、同書允恭天皇四二年条では允恭天皇を長野原陵に葬ったとある。「延喜式」(諸陵寮)では、前者を
長野郷
ながのごう
長野郷
ながのごう
愛知川東岸、現長野一帯に比定される。「和名抄」に記され、中世まで続く郷。保安三年(一一二二)三月二五日付近江国司庁宣写(書陵部本医心方小児部二五裏文書)にみえる愛知郡司成行は中原姓で、「江州中原氏系図」には「愛智大領」と号し、堀河院の頃長野郷に住したと記す。成行は日吉社神人でもあった。鎌倉後期には
長野郷
ながのごう
長野郷
ながのごう
長野郷
ながのごう
長野郷
ながのごう
長野郷
ながのごう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報