幕末、中岡慎太郎(しんたろう)が組織した討幕のための土佐藩の遊軍。1867年(慶応3)土佐藩は倒幕のため活動中の坂本龍馬(りょうま)と中岡慎太郎の脱藩の罪を赦(ゆる)し、4月、長崎で福岡藤次(とうじ)(孝弟(たかちか))、後藤象二郎(しょうじろう)から両人に藩の遊軍としての海援隊・陸援隊の隊長任命を伝えた。龍馬の海援隊には亀山(かめやま)社中という実体があったが、陸援隊は遅れて7月、慎太郎が京都白川の土佐藩屋敷を本拠に、土佐を中心とする浪士を組織して発足。十津川郷士(とつかわごうし)も加え、薩摩(さつま)藩から洋式銃隊訓練を受けるなど、討幕戦に備えた。慎太郎は大政奉還後の11月17日横死したが、隊は田中顕助(けんすけ)(光顕(みつあき))ら幹部が引き継ぎ、12月8日討幕の内勅を奉じた侍従鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)を擁して高野山(こうやさん)に拠(よ)り、延べ1000余の兵を集めて、紀伊・大和(やまと)の諸方を鎮撫(ちんぶ)し、佐幕勢力を牽制(けんせい)。翌68年(慶応4)1月、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いののち、下山して帰洛(きらく)、解隊したが、陸援隊士は親兵に編入され、討幕戦争に加わった。
[関田英里]
『平尾道雄著『陸援隊始末記』(中公文庫)』
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1867年(慶応3)京都で土佐藩の中岡慎太郎によって編成された討幕組織。中岡慎太郎が坂本竜馬とともに脱藩の罪を許されたのは67年2月で,土佐藩は4月に竜馬を海援隊長に任ずるとともに,慎太郎を陸援隊長とし在京官に属せしめるとした。このことは,ようやく討幕戦争のありうることを考えはじめた土佐藩主流が,2人を通じて討幕勢力と連絡をとり,慎太郎とその周辺の勢力を藩の正式の機関ではないが連絡のとれる組織に編成して利用することを考えたためである。彼が実際に陸援隊を組織したのは7月29日佐々木高行の許可を得て京都白川の藩邸に寄宿してからで,彼は土佐藩の援助を得て諸藩出身の浪士を集め,討幕の挙兵にむけて組織的訓練をはじめた。集まる者約50名,副隊長格は田中顕助(光顕)で,香川敬三,中島信行,大江卓らも参加。11月の中岡暗殺により中心を失うが,12月に入って鷲尾隆聚を擁して高野山に屯集。相ついで兵が集まり翌年1月帰京したときは1300名をこえていた。しかしそれぞれ自藩に戻り,あるいは親兵に改編されて,陸援隊は解散する。
執筆者:池田 敬正
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幕末期の浪士隊。土佐国高知藩には直属せずに出京官の管轄のもと,行動力のある独自組織として中岡慎太郎が志士を組織した。坂本竜馬を中心とする海援隊とともに,高知藩参政後藤象二郎らの合意をえ,1867年(慶応3)7月に結成。隊員70人。隊長中岡のほか幹部には土佐の田中光顕らがいた。11月に中岡が暗殺されてからは田中が隊を率い,12月には鷲尾隆聚(たかあつ)を奉じ,十津川(とつかわ)郷士とともに大和・紀伊方面を押さえた。翌年,御親兵に編入された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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