デジタル大辞泉
「小林一茶」の意味・読み・例文・類語
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こばやし‐いっさ【小林一茶】
- 江戸後期の俳人。通称、彌太郎。本名、信之。信濃柏原の人。三歳で実母に死別し、八歳以後継母の下に育てられる。一四歳の時、江戸に出る。のち二六庵竹阿(ちくあ)の門に入り、俳諧を学ぶ。全国各地に俳諧行脚の生活を送ったが、晩年は故郷に帰り、俳諧宗匠として安定した地位を得た。しかし、ようやくにして持った家庭生活は妻子に死なれるなど不幸であった。その作風は鄙語、俗語を駆使したもので、日常の生活感情を平明に表現する独自の様式を開いた。著に「おらが春」「父の終焉日記」など。宝暦一三~文政一〇年(一七六三‐一八二七)
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小林一茶
こばやしいっさ
[生]宝暦13(1763).5.5. 信濃,柏原
[没]文政10(1827).11.19. 柏原
江戸時代後期の俳人。通称,弥太郎,名,信之。別号,菊明,俳諧寺,蘇生坊,俳諧寺入道。農民の子。3歳で母を失い,8歳のとき迎えた継母と不和で,15歳の頃江戸へ奉公に出,いつしか俳諧をたしなみ,竹阿,素丸に師事。享和1 (1801) 年,父の没後継母子と遺産を争い,文化 10 (13) 年帰郷し,遺産を2分することで解決する。 52歳で妻帯,子をもうけたが妻子ともに死去,後妻を迎えたが離別,3度目の妻を迎えるなど,家庭的に恵まれず,文政 10 (27) 年類焼の厄にあい,土蔵に起臥するうち中風を発して死亡。数奇な生涯,強靭な農民的性格,率直,飄逸な性格が,作品に独特の人間臭さを与えている。編著『旅拾遺』 (1795) ,『父の終焉日記』 (1801) ,『三韓人』 (14) ,『七番日記』 (10~18) ,『おらが春』など。
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小林一茶 こばやし-いっさ
1763-1828* 江戸時代後期の俳人。
宝暦13年5月5日生まれ。15歳で信濃(しなの)(長野県)から江戸にでて流浪,二六庵竹阿(ちくあ)に師事。39歳で父と死別,継母らと遺産をあらそう。幼時から逆境にあり,俗語や方言まじりの生活感情に根ざす句をおおくのこした。文政10年11月19日死去。65歳。名は信之。通称は弥太郎。別号に俳諧寺など。句文集に「おらが春」など。
【格言など】めでたさも中くらいなりおらが春(「おらが春」)
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小林一茶
こばやしいっさ
1763〜1827
江戸中・後期の俳人
本名信之 (のぶゆき) 。信濃(長野県)柏原の生まれ。不運な境遇から,その句には強者への反感,弱者への同情が示され,俗言や方言をとり入れて独自の俳風を樹立した。主著に『おらが春』『七番日記』『父の終焉日記』など。
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小林一茶
井上ひさしの戯曲。1979年11月、五月舎の制作、木村光一の演出により、新宿紀伊國屋ホールにて初演。同年5月初演の「しみじみ日本・乃木大将」とあわせ、第31回読売文学賞(戯曲部門)受賞。
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小林一茶 (こばやしいっさ)
生年月日:1763年5月5日
江戸時代中期;後期の俳人
1828年没
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世界大百科事典(旧版)内の小林一茶の言及
【一茶】より
…江戸後期の俳人。姓は小林,名は弥太郎。圯橋,菊明,雲外などの号がある。信濃国水内郡柏原村の農業弥五兵衛・妻くにの長男として生まれる。3歳で母を失い,8歳の時から継母に育てられたが折合いが悪く,内向的で孤独な性質が養われた。〈我と来て遊べや親のない雀〉は,そのころを追想した吟である。14歳のおり,江戸へ奉公に出る。俳諧は,初め[葛飾派]二六庵竹阿に学び,1787年(天明7)25歳の時,秘書《白砂人(はくさじん)集》を書写。…
【亀井文夫】より
…《戦ふ兵隊》は公開禁止になり,亀井は逮捕,投獄された。日本の文化映画の古典的名作とみなされるに至る短編(記録映画というよりは小林一茶の句と貧しい日本の農民の生活風景をからみ合わせ,ときには対位法的にモンタージュした作品)《小林一茶》(1941)にその戦闘的姿勢を一時〈後退〉させたあと,日本帝国主義と天皇制の侵略史をあばいた記録映画《日本の悲劇》(1946)を完成させるが,アメリカ占領軍に没収された。以後は山本薩夫と共同監督の《戦争と平和》を契機に劇映画に転向(《女の一生》1949,《女ひとり大地を行く》1953,等々),1953年の《基地の子たち》から,また記録映画に戻り,《生きていてよかった》(1956),《流血の記録・砂川》(1956)等々を撮ることになる。…
※「小林一茶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」