青島村
あおしまむら
[現在地名]庄川町青島・天正、井波町高屋
五ヶ村の南、庄川左岸にあり、南は金屋岩黒村。元禄一四年(一七〇一)の村名由来書(川合家文書)によれば、元和七年(一六二一)庄川の中島の青島という野の新開が命じられて青島新村となり、万治元年(一六五八)より青島村と称したという。正保郷帳では青島新村とあり高四〇石余、田方二町四反余・畑方二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では青島村とあり、草高二五五石、ほかに明暦二年(一六五六)・同三年の新田高四三石があり、免はともに二ツ八歩。その後延宝六年(一六七八)に新開高四八石余、元禄一三年に畑直高三石などが加わった(三箇国高物成帳)。延宝四年の役家数二〇(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。文政八年(一八二五)には般若組、天保一〇年(一八三九)以後は山見組に属した。嘉永六年(一八五三)の村鑑帳(菊池家文書)によれば草高七三〇石・免三ツ五歩。そのほかに組高帳不入の安永七年(一七七八)新開の青島村・金屋岩黒村領三七石(定免二ツ五歩)と文化一三年(一八一六)新開の当村領七四石余(定免二ツ一歩)がある。
青島村
あおしまむら
[現在地名]小出町青島
魚野川左岸にある。西は山地で現堀之内町と境し、北は大石村(現堀之内町)、南は五箇村(現南魚沼郡大和町)。「新編会津風土記」によると、元禄年中(一六八八―一七〇四)に魚野川の東に移り、享保年中(一七一六―三六)にもとに移るとあるが、「北魚沼郡志」では、集落はもともと川の東にあり、鎮守の諏訪社も字屋敷割にあったが、集落の移動とともに川西の字水沢に移ったとある。
青島村
あおしまむら
[現在地名]入善町青島
黒部川扇状地の扇央部にあり、北と東は椚山村、南は小杉新村・神林新村、西は入膳村。寛永一六年(一六三九)から万治三年(一六六〇)まで富山藩領、以後加賀藩領。正保郷帳では高三五三石余、田方二二町三反余・畑方一町二反余、新田高一五二石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四〇二石、免四ツ四歩、小物成は野役四四匁・鮎川役二匁八分(三箇国高物成帳)。
青島村
あおしまむら
[現在地名]長岡市青島町
北は前島村、東は古志郡前島村、南は同郡牛池村に各各往来路が開け、西の信濃川対岸の三島郡浦村・当村枝郷中島村新田・篠花村(現三島郡越路町)への船渡があった。三島郡に属した。文禄元年(一五九二)一二月、上杉家直領の御蔵入となった村の石高記載文書(高梨大平家蔵)に二一一石余の「青岐」とあるのが当村。
青島村
あおじまむら
[現在地名]魚津市青島
片貝川扇状地の末端部にあり、南は北中村・北鬼江村、西は富山湾に臨む。文化七年(一八一〇)の新川郡郷庄附村名書上申帳(加越能文庫)は「アヲシマ」と読む。片貝川の洪水の折、当地のみが青い島をなして残り、鎌倉後期の花園天皇の時代に開かれたという(下新川郡史稿)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高八九石・免三ツ、明暦二年(一六五六)の新田高三三石(三箇国高物成帳)。
青島村
あおしまむら
[現在地名]婦中町青島
神通川中流左岸に隣接し、北西は萩島村、西は為成新村。享和年間(一八〇一―〇四)に神通川辺の地を開拓した際、青草の茂った島状の地であったので名付けられたという(婦負郡志)。幕末では畑作古高一七二石余・免一ツ七歩(古高免小物成銀等書上)。灌漑は享保年間(一七一六―三六)に住人小松三代の祖先が付近一帯を開拓し、用水を神通川に求めた青島用水を利用(婦中町史)。
青島村
あおしまむら
[現在地名]松本市島内 青島
奈良井川と梓川のつくる河成段丘の平坦地にある。天正検地の頃犬飼村一千五〇〇石余。寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳に一八二石四斗四升とある。「信府統記」に「御朱印高百九拾八石二斗四升三合」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は二四五石二斗八升二合四勺である。
青島村
あおしまむら
[現在地名]伊那市大字美篶 青島
三峰川の右岸の村。西隣の川手村の枝村で、元禄一五年(一七〇二)の信濃国郷帳に「一、高 五拾七石八斗八升九合 青島村」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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