大学事典 「非常勤講師問題」の解説
非常勤講師問題
ひじょうきんこうしもんだい
非常勤講師は,広義には大学の講義を担当するために非正規で雇われる教員全般を指す。講義を担当する非正規の教員として,ほかに客員教授・客員准教授もいるが,狭義には非常勤講師と区別される。狭義の非常勤講師は,大学において非常勤講師ないしは兼任講師と呼ばれる教員のみをいう。狭義の非常勤講師はさらに二つに分類される。一つは本務校(ないしは,ほかの本業)のある非常勤講師である。主たる仕事を別に持ち,大学で非常勤講師を務める者をいう。他の一つは本務校のない非常勤講師である。本務校のない非常勤講師には退職後の再雇用者もいるが,大学の非常勤職を主たる生計としている者は多い。本項目では,非常勤講師職を主たる生計とする,いわゆる「専業非常勤講師」の労働・研究環境の状況を記述する。
[非常勤講師の実態]
非常勤講師は一般的に各自の専門研究を持ち,その評価によって採用されるため,学歴は大学院卒が基本である。したがって非常勤講師問題は院卒者の処遇の問題でもある。院卒研究者の雇用先は専門分野・年代により異なるが,文系と呼ばれる人文科学・社会科学系においては,一般企業の採用は少ない。そこで,多くの文系院卒者が就職先として期待するのが大学であり,大学教員という職種である。非常勤であっても,自らの専門分野に近い講義を受け持つ限り,研究を続けながら収入を得られる。また講師の肩書によって何らかの専門性を持つとみなされ,研究を志す者にとっては非常勤講師職の人気は高い。理系の院卒研究者の場合,かつては企業への就職は困難ではなかったが,2004年(平成16)の国立大学法人化後,産学連携の強化により企業側のコストダウンとしての研究所縮小が行われ,急速に雇用事情が悪化した。国会では院卒者の就職難が1985年(昭和60)ごろからすでに質疑されていたが,理系の就職難により,以後メディアや国会の注目が集まるようになった。
本務校を持たない専業非常勤講師の数は,全国で約2万9000人と推測される。文部科学省の「学校教員統計調査」(平成25年度)によれば,大学の専業非常勤講師総数は延べ8万9290人であり,前述の非常勤講師数は,非常勤講師組合のアンケートで一人平3.1校を掛け持ちしている結果から割り出した。そして首都圏の私立大学では授業の6割近くを非常勤講師が担当するのが普通になっている。週1回の90分講義を1コマと呼ぶが,非常勤講師給は1コマあたり月2万から3万円の間で,この額は全国の大学で少なくとも1980年代以降,ほとんど変動がない。非常勤講師組合のアンケートによれば,専業非常勤講師の平年収は306万円で,250万円以下の者は44%となっている。大半の大学では一時金や退職金,研究費が支払われず,社会保険や雇用保険にも加入できない。大学経営上のコストとして考えると,同じコマ数の講義を非常勤と専任で比較した場合,賃金では7倍,社会保険や退職金,研究費などを含めると十数倍の差があるとされる。
多くが1年契約の不安定雇用のため,非常勤講師組合のアンケートによれば雇止めの経験者は50%にも達する。雇止めの理由はリストラ(短期大学の廃止,学部の統廃合など),カリキュラム変更(第2外国語の廃止,必修科目の選択制導入など)のほか,専任教員の選好に基づく入替え,高齢化や長期勤続,専任教員の労働強化,直接雇用ではない講師の委託・外注化などとされている。また専任教員採用の際に女性差別があるため,専任教員に比較して非常勤講師の女性比率は高く,実際に非常勤講師の組合活動を支えているのは多くが女性である。
[非常勤講師職の問題点]
非常勤講師職にある研究者の不安は,大きく過去・現在・未来の三つに分けられる。過去については奨学金返済である。研究を志す者の多くは,研究成果を出すまでの生活費用を維持する必要から,日本育英会(現,日本学生支援機構)の奨学金制度を利用していた。かつては大学院卒業後5年以内に指定の教育機関に正規雇用されれば返済免除という返還特別免除制度があり,多くが免除を目標に研究を続けたが,正規雇用されなければ返済に困ることになり,また日本育英会法の廃止により2004年4月以降はその制度もなくなった。
現在の不安とは,低賃金,予測不能な雇止めリスクのある仕事に依存しているため,生活・研究の安定的な維持が困難ということである。合理的な理由を提示せずに雇止めをする大学は多い。2012年に改正された労働契約法により,短期契約を継続更新しているすべての非正規労働者は,5年後に契約期間のない雇用に転換することが可能という制度が導入されたが,逆に継続更新は5年までと宣言する大学や,クーリング期間と称する空白期間を設け継続を分断する大学が出てきた。将来についての不安には,年金や健康保険の問題がある。非常勤講師は短時間パート労働者とみなされ,専任教員との勤務時間の差が大きいため,厚生年金に加入できない。
大学に対する非常勤講師の不満の第1は,賃金が低いことである。賃金は講義時間単位で支払われるが,膨大な講義時間外の課題・問題作成,採点,学生指導,成績評価等の時間は賃金対象外である。また大学の講義はその専門性ゆえに,1大学当りの担当コマ数が1~2しかない場合がある。生活可能な収入を得るために複数大学の講義を掛け持ちすれば通勤時間が増え,労働形態の効率が悪く研究時間をとりにくい。さらに講義の内容と責任において同一の権限を持つ専任教員と比較して,根拠の不明な賃金格差がある。不満の第2は,雇用の不安定さである。アンケートでは,せめて雇止めの理由を教えて欲しいとの声もあり,突然雇止めを通告されるなど,将来に対する精神的苦痛と不安は大きい。また講義準備のための施設が不十分,クラスの人数が多い(採点に時間がかかる),産休・育休・病欠の保障が不十分等という声もある。第3は,雇用されている大学の研究紀要への論文掲載が認められないなど,研究者として扱われないことがあることである。文部科学省は科学研究費助成事業への応募を非常勤講師にも認めているが,申請の可否は所属機関に任せられているため,多くの大学では非常勤講師は科研費を申請できないのが実情である。
これらの問題を軽減するためには衡処遇,また日本型雇用と大学院制度の改善が不可欠である。非常勤講師の劣悪な労働環境は新しいものではない。そもそも日本の労働環境は学歴(学位の取得)に連動していないともいえる。院卒が国策として飛躍的に増加している今日,ポスドクだけでなく非常勤講師もまた,研究者の育成という高等教育機関の使命の範疇にある存在だということを国と大学が自覚するならば,これらの問題は改善されていくはずである。
著者: 松村比奈子
参考文献: 首都圏大学非常勤講師組合編著『大学教師はパートでいいのか―非常勤講師は訴える』こうち書房,1997.
参考文献: 大学非常勤講師問題会議編『大学危機と非常勤講師運動』こうち書房,2000.
参考文献: 水月昭道『高学歴ワーキングプア―「フリーター生産工場」としての大学院』光文社,2007.
参考文献: 関西圏大学非常勤講師組合・首都圏大学非常勤講師組合ほか「大学非常勤講師の実態と声2007」:http://www. hijokin. org/en2007/index. html
参考文献: 文部科学省科学技術政策研究所第1調査研究グループ『日本の大学教員の女性比率に関する分析』,2012.
参考文献: 大理奈穂子・栗田隆子・大野左紀子著,水月昭道監修『高学歴女子の貧困―女子は学歴で「幸せ」になれるか?』光文社,2014.
参考文献: マックス・ウェーバー著,尾高邦雄訳『職業としての学問』岩波書店,1980.
参考文献: 文部科学省「学校教員統計調査」(平成25年度)
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報