農夫から身をおこして中国の前漢王朝を創設した劉邦(りゅうほう)が、その遂行過程で危うく難を逃れた事件。秦(しん)朝末期の紀元前207年10月、南から秦の都咸陽(かんよう)に迫る劉邦は、東から進撃してくる項羽(こうう)より約1か月早く都を占領、秦王を虜(とりこ)にし、項羽の到着を待っていた。2人の間には、秦帝国の心臓部である関中に先に入ったほうがこの地の王となるとの約があった。しかし、項羽は討秦軍全体の最高指揮官、劉邦はその一部将、そして率いる軍勢は40万対10万と、劉邦が劣勢であった。項羽には盟約を果たす意志はなく、彼の謀臣范増(はんぞう)は劉邦の恐るべき人物たるを見抜き、劉邦謀殺を進言、項羽の本陣である鴻門(陝西(せんせい)省臨潼(りんどう)県の東)で酒宴を催し、これを機に殺そうとした。范増は、酒席についた劉邦をいまこそ刺すべしとしきりに促すが、項羽はなぜか応じない。范増はなおも項羽の従弟項荘に剣の舞をさせその最中に刺させようとするが、一族でありながら劉邦に脈を通じる項伯が剣を抜いて舞いに加わり劉邦をかばう。そこへ劉邦の腹臣の猛者(もさ)樊噲(はんかい)が主君の危急を聞いて駆けつける。髪は逆立ち目は張り裂けんばかりの闖入(ちんにゅう)者に項羽は驚き剣を抜くが、劉邦の近臣張良がとりなす。樊噲は立ったまま項羽からの大杯を受け、手にする盾の上に肉をのせて食い、懸命に劉邦の異心なきを述べる。その間に劉邦は厠(かわや)に行くと称して席をたち、そのまま自陣に疾駆してようやく虎口(ここう)を脱した。
[春日井明]
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…早くから劉邦(高祖)に従い,挙兵のときには舎人となって従軍し,数々の軍功をたてた。なかでも項羽の主宰した鴻門の会において,宴席に闖入して劉邦の危機を救った話は有名である。漢の天下統一後は左丞相,相国を歴任し,臧荼(ぞうと),韓信,盧綰(ろわん)らの謀反を平定して舞陽侯に封ぜられた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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