日本大百科全書(ニッポニカ) 「香月牛山」の意味・わかりやすい解説
香月牛山
かつきぎゅうざん
(1656―1740)
医師、江戸中期の後世(ごせい)派(李朱医学)の第一人者。筑前(ちくぜん)国(福岡県)の人。名は則実(則真とも)、字(あざな)は啓益、号は牛山・貞庵・被髪翁。儒学を貝原益軒(えきけん)に、医学を藩医鶴原玄益に学び、30歳で豊前(ぶぜん)中津藩小笠原(おがさわら)氏の侍医となる。1699年(元禄12)職を辞し京都で医業を開くが、1716年(享保1)招かれて小倉(こくら)藩小笠原氏に仕え、元文(げんぶん)5年、85歳で没した。墓碑・寿塔が北九州市八幡西(やはたにし)区香月吉祥寺に現存する。牛山は李東垣(りとうえん)・朱丹渓(しゅたんけい)(朱震亨(しんこう))の医説を信奉、また貝原益軒の実証的研究方法の影響を受け、自らの医療経験に基づいて医説を唱え、治療においては温補の方剤を主とした。『薬籠本草(やくろうほんぞう)』『牛山方考』『婦人寿草』ほか多くの著書がある。
[矢数道明]