東松浦半島北西部の
島名の由来について馬渡系図は「美濃国馬渡庄の住人本馬八郎義俊は白河上皇院政の頃延暦寺僧兵の強訴を防ぎ、冤罪を受け松浦郡に流され、この島に土着、馬渡と称し、斑島を馬渡島に書き改めた」といい、また大陸より馬が最初に来たので「馬渡る島」といったとも伝える。
「頭陀親王入唐略記」によれば貞観三年(八六一)「九月五日、去向壱岐島、島司并講読師等亦来迎、囲繞親王、弥厭此事□□左右自彼渡著小島、此小島名云斑島(中略)於是白水郎多在、仍不停」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
佐賀県北西端、壱岐(いき)水道(玄界灘(げんかいなだ))に浮かぶ島。東松浦(ひがしまつうら)半島北西端の波戸岬(はどみさき)西方約7キロメートル、唐津市(からつし)に属する。面積4.24平方キロメートル、周囲約12.5キロメートル。佐賀県内では最大の島。玄武岩・粗面岩類の丘陵性台地からなり、最高地点は標高約238メートルの番所ノ辻(つじ)(遠見(とおみ)岳)で、海岸は大部分断崖(だんがい)をなす。南東部の小さな入り江一帯に、馬渡島漁港や通称本村の宮ノ本漁村が立地する。呼子港(よぶここう)から定期船で約45分(名護屋(なごや)港経由)。島名については、斑(まだら)島の書き改め説や、大陸から最初に「馬渡る島」の由来伝説などをもつ。
古来、大陸交通の中継地で、遣唐使や元寇(げんこう)ほか、それにまつわる遺跡や伝承が多い。江戸期には唐津藩のウマやシカの藩営放牧地があった。本村はブリ、イカ、フグ、イワシ、アワビ、サザエ、ウニなど各種の水揚げをもつ漁村で塊村形態をなすが、台地上の新村は畑作主体で散村形態をなす。1981年(昭和56)には、田5ヘクタール、畑48ヘクタール、樹園地40ヘクタール、牧草地18ヘクタールで、いも類や甘夏柑(あまなつかん)などを栽培し、肉牛飼育をみた。『離島統計年報』2005年版によると、2004年(平成16)には、田17ヘクタール、畑73ヘクタール、樹園地5ヘクタール、牧草地2ヘクタールとなっている。近年は、豊富な海産物を生かした加工品製造にも力を入れている。仏教徒の本村に対し、新村はカトリック教徒の集落で、寛政(かんせい)年間(1789~1801)に長崎方面から移住してきた隠れキリシタンの地として知られる。新村地区の馬渡島カトリック教会(御堂天主堂)は、長崎県平戸の旧紐差(ひもさし)教会を移築した木造建築。海外移民の歴史をもつ。玄海国定公園の一角で、釣りなどを楽しむ来島者も多い。国指定天然記念物カラスバトの生息域。人口504(2009)。
[川崎 茂]
玄界灘西部,壱岐水道に浮かぶ島。佐賀県唐津市に属する。東松浦半島北端の波戸(はど)岬西方約7kmに位置し,面積4.13km2,人口479(2010)。玄武岩類などの溶岩台地をなし,最高点は番所ノ辻とも称する遠見(とおみ)岳(238m)。古く大陸交通のルート上にあり,旧石器時代の石器をはじめ多くの考古遺物が出土している。中世には松浦党の斑島(まだらしま)氏が島を支配し,また文永・弘安の役にはモンゴル軍に襲われたと伝える。江戸時代には唐津藩の馬や鹿の放牧場があった。台地上に散村形態をなす新村(しんむら)は農業を主体とするカトリック教徒の集落で,寛政年間(1789-1801)隠れキリシタンが弾圧を逃れて来住したことに始まるという。教会,修道院などがある。これに対し南岸入江の宮ノ本は本村(ほんむら)と称し,漁業主体の仏教徒の集落で,島の表玄関をなす。呼子(よぶこ)港との間に定期船が通い,所要時間は約50分。島は玄海国定公園に含まれ,磯釣りを楽しむ来島客も多い。
執筆者:川崎 茂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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