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馮道 ふうどうFeng Dao; Fêng Tao

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

馮道
ふうどう
Feng Dao; Fêng Tao

[生]中和2(882)
[没]顕徳1(954).4.17.
中国,五代後唐後晋後漢後周および遼の宰相。「ひょうどう」とも読む。瀛州景城 (河北省) の人。字は可道。後唐の荘宗に仕え,翰林学士,中書舎人戸部侍郎となり,明宗のときには兵部侍郎を経て,中書侍郎同中書門下平章事となった。後晋が後唐を滅ぼすと後晋の高祖 (→石敬 瑭 ) に仕えて同中書門下平章事,契丹が後晋を滅ぼすと契丹に仕えて太傅 (たいふ) ,契丹が北に帰り,後漢の高祖 (→劉知遠 ) が立つと太師,さらに後漢を滅ぼした後周に仕えて太師兼中書令となった。五代の混乱時代に次々に各朝に仕えたため,後世無節操の代表者のように批判されたが,仁義を説き,民政に気を配るなど,時人は嘆賞したという。

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デジタル大辞泉の解説

ひょう‐どう〔‐ダウ〕【馮道】

[882~954]中国、五代政治家。景城(河北省)の人。字(あざな)は可道。五代の乱れた世に5朝11人の君主に仕え、20年にわたって宰相を務め、民政に尽くした。ふうどう。

ふう‐どう〔‐ダウ〕【馮道】

ひょうどう(馮道)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふうどう【馮道 Féng Dào】

882‐954
中国,五代の政治家。字は可道。瀛州(えいしゆう)景城(河北省献県)の人。五代後梁の時期に,太原の監軍使であった宦官張承業が,才能を認めて晋王李存勗(りそんきよく)に推挙し,重要書類の起草を担当させ,後王朝の成立に伴い翰林学士となった。明宗が即位するや,宰相に抜擢され,それ以後,後周の世宗にいたる5王朝,8姓,11人の天子に高位高官として30年間も仕え,宰相の栄職に20余年もつとめたので,後世になると無節操の代表とみなされた。

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世界大百科事典内の馮道の言及

【印刷】より


[中国における黄金時代]
 907年に唐は滅び,〈五代〉の分裂時代を迎えた。この〈五代〉の時代に,後唐から後周まで4王朝10人の皇帝の下で宰相となった馮道(ふうどう)は,唐末の混乱期に主として四川を中心として盛んに行われた印刷術の仕事を受けつぎ,儒教の経典を校訂し印刷することをはじめて行った。4王朝に仕えた馮道は無節操な人物として後世から非難されるが,中国の印刷術史上きわめて注目される人物である。…

【五代十国】より

…また武人政治が優越した時代ではありながら,新興の庶人層出身の文官も各政権下で無視しえぬ役割を果たしている。5朝8姓11君に仕えた馮道(ふうどう)はこの時期の最も著名な新興の文臣で,宋学の名分論的立場からは無節操な日和見主義者と非難されるが,争乱の続くこの時期にあってたくましく生き抜いた文臣の典型といえる。とくに地方行政面では,長官級のポストはやはり多くは武人が任ぜられたものの,行政実務に無知なものがほとんどで,実質的な担い手は地方の中・下級ポストにある新興層出身の文臣であることが多かった。…

【本】より

…唐末から五代時代にかけては出版の中心地は唐末の都であった四川省(蜀(しよく))の成都に移り,多くの書肆があった。 932年(長興3)五代十国の一つ後唐の宰相馮道(ふうどう)が皇帝の明宗に上奏をして勅許を得,《九経》(易経,詩経,礼記などの儒家の経典)全277巻の大出版事業を行った。馮道は後唐以後も11人の皇帝に仕えながら,21年後の953年に完成した。…

※「馮道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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