中国,五代の政治家。字は可道。瀛州(えいしゆう)景城(河北省献県)の人。五代後梁の時期に,太原の監軍使であった宦官の張承業が,才能を認めて晋王李存勗(りそんきよく)に推挙し,重要書類の起草を担当させ,後唐王朝の成立に伴い翰林学士となった。明宗が即位するや,宰相に抜擢され,それ以後,後周の世宗にいたる5王朝,8姓,11人の天子に高位高官として30年間も仕え,宰相の栄職に20余年もつとめたので,後世になると無節操の代表とみなされた。しかし彼は自叙伝《長楽老自叙》の中で一生を回顧し,〈家で孝であり,国に忠であった〉と書き残しており,事実,一般民衆のために尽力したのであって,乱世に生きた同時代人からは〈寛厚の長者〉と称されていた。932年(長興3)に彼の提唱によって始められ,21年かかって完成した儒教の九経の木版印刷事業は,文化史上に特筆されている。
執筆者:礪波 護
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中国、五代の政治家。「ひょうどう」とも読む。瀛(えい)州景城(河北省献県)の人。字(あざな)は可道。唐末に燕(えん)の劉守光(りゅうしゅこう)に仕え、守光が後晋(こうしん)に敗れたのちは李存勗(りそんきょく)(後唐(こうとう)の荘宗)に仕えて翰林(かんりん)学士になる。次の明宗の代には博識多才と他人と競うことのない人柄を買われて宰相に抜擢(ばってき)された。以後、五つの王朝(後唐、後晋、遼(りょう)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう))11人の天子に高位高官として仕えること30年、宰相を20余年務めた。クーデターに明け暮れた乱世にあって、同時代の人々から「寛厚の長者」と称された馮道は、後世になって無節操、恥知らず者の代表と目される。それは、君に忠といわず国に忠といい、虚名に誤られることなく何事にも現実を重視せよ、と主張した彼の人生哲学を誤解した見解であろう。932年に彼の首唱によって始められ21年かかって完成した儒教の九経の出版は、経書の木版印刷の最初とされ、グーテンベルクの業績に対比されるほど文化史的意義が深い。
[礪波 護]
『礪波護著『馮道』(1966・人物往来社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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[中国における黄金時代]
907年に唐は滅び,〈五代〉の分裂時代を迎えた。この〈五代〉の時代に,後唐から後周まで4王朝10人の皇帝の下で宰相となった馮道(ふうどう)は,唐末の混乱期に主として四川を中心として盛んに行われた印刷術の仕事を受けつぎ,儒教の経典を校訂し印刷することをはじめて行った。4王朝に仕えた馮道は無節操な人物として後世から非難されるが,中国の印刷術史上きわめて注目される人物である。…
…また武人政治が優越した時代ではありながら,新興の庶人層出身の文官も各政権下で無視しえぬ役割を果たしている。5朝8姓11君に仕えた馮道(ふうどう)はこの時期の最も著名な新興の文臣で,宋学の名分論的立場からは無節操な日和見主義者と非難されるが,争乱の続くこの時期にあってたくましく生き抜いた文臣の典型といえる。とくに地方行政面では,長官級のポストはやはり多くは武人が任ぜられたものの,行政実務に無知なものがほとんどで,実質的な担い手は地方の中・下級ポストにある新興層出身の文臣であることが多かった。…
…唐末から五代時代にかけては出版の中心地は唐末の都であった四川省(蜀(しよく))の成都に移り,多くの書肆があった。 932年(長興3)五代十国の一つ後唐の宰相馮道(ふうどう)が皇帝の明宗に上奏をして勅許を得,《九経》(易経,詩経,礼記などの儒家の経典)全277巻の大出版事業を行った。馮道は後唐以後も11人の皇帝に仕えながら,21年後の953年に完成した。…
※「馮道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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