明宗(読み)めいそう(英語表記)Míng zōng

改訂新版 世界大百科事典 「明宗」の意味・わかりやすい解説

明宗 (めいそう)
Míng zōng
生没年:867-933

中国,五代後第2代の皇帝在位926-933年。北方胡人で,李克用義児となり李嗣源の名を得た。荘宗のとき,蕃漢馬歩総管として全軍指揮に当たり,後梁を滅ぼして後唐建国に活躍したが,荘宗に遠ざけられ一時失脚した。荘宗が兵乱で殺されると,かわって擁立され帝位についた。明宗は禁軍の中核たる侍衛親軍を強化し,全国的な検田を行って均税と財政基盤を固めるなど,五代における一時期を画した。
五代十国
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明宗」の意味・わかりやすい解説

明宗[元]
めいそう[げん]
Ming-zong; Ming-tsung

[生]大徳4(1300)
[没]天暦2(1329)
中国,元の第8代皇帝 (在位 1328~29) 。諱はホシラ。諡は翼献景孝皇帝。武宗長子。彼は武宗とその弟仁宗の約束で仁宗即位後皇太子になるはずであったが,謀略によって周王として雲南に封じられた。延祐3 (16) 年延安に戻ったが,政争により北辺に逃れた。天暦1 (28) 年北方領主派の推戴した泰定帝が死んだので,宮廷官僚派エル・テムル (燕鉄木児)らが彼を皇帝に擁立しようとしたとき,北辺にあったため弟の文宗が擁立された。翌年宮廷派勝利後文宗の譲位を受けカラコルムで即位し,大都に向う途中急死。明宗の近臣権勢を恐れてエル・テムルが毒殺したといわれる。

明宗[後唐]
めいそう[こうとう]
Ming-zong; Ming-tsung

[生]咸通8(867).9.9. 代北
[没]長興4(933).11.26. 洛陽
中国,五代後唐の第2代皇帝 (在位 926~933) 。諡は聖徳和武欽孝皇帝。胡人で旧名を 邈佶烈 (ばくきつれつ) といったが,李克用養子となり,李嗣源と改名。李克用およびその子李存きょく (そんきょく) に従って武功を立て,竜徳3 (923) 年後梁に代って存きょくに後唐の国を興させた。これが後唐の荘宗である。荘宗が驕慢のため同光4 (926) 年殺されると,洛陽で即位した。善政が多く,穀物もよく実り,五代のうちやや小康を得た時代であった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「明宗」の解説

明宗 みょうしゅう

大綱明宗(だいこう-みょうしゅう)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「明宗」の解説

明宗(後唐) (めいそう)

生年月日:867年9月9日
中国,五代後唐の第2代皇帝(在位926〜933)
933年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の明宗の言及

【本福寺跡書】より

…同寺には天文年間(1532‐55)に相ついで書かれた4種の記録がある。5世明宗の《本福寺明宗跡書》,6世明誓の《本福寺由来記》《本福寺門徒記》と,この跡書である。跡書は,日記・由来記をもとに加筆・補充してつくられた。…

【唐】より

…彼は朱全忠(後太祖)と激しく覇を争ったが,その子李存勗(りそんきよく)(荘宗)はついに後梁を滅ぼし,洛陽を都として後唐を樹立した。ついで明宗がたつと,禁軍を改編強化し,財政基盤を整備するなど,五代で皇帝権が強化された時期の一つに数えられる。第4代末帝期に兵乱が続発し,石敬瑭(後の高祖)にとって代わられた。…

※「明宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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