高取城跡(読み)たかとりじようあと

日本歴史地名大系 「高取城跡」の解説

高取城跡
たかとりじようあと

[現在地名]高取町大字高取

高取山(五八三・九メートル)山頂に所在。東は多武峯とうのみねから宇陀地方、西は壺阪つぼさか山から芦原あしはら峠を経て金剛山麓に至り、南に吉野山を控えて北方大和平野を見下ろす天険の地にある。南北朝以来、越智・本多・植村各氏の居城。元弘二年(一三三二)に越智邦澄が築城し、家澄・通頼が拠って南朝に属し、大和永享の乱に維通が小倉宮に応じたと伝える。

越智氏は戦国期には興福寺一乗院方国民となっており、当城とは別に越智本おちほん城をもっているが、「続南行雑録」所収の「祐園記抄」永正八年(一五一一)七月一四日条に「筒井箸尾十市牢人、此子細ハ、河内守陣ヤブレ、則遊(ママ)河内守、十三日初夜ノ時分、筒井迄落畢、仍越智方ハツボ坂并タカトリ山ノ城ヘ入、布施楢原伴堂等同ゝ」とみえ、越智家教が越智本城を捨てて高取城に一時入っている。また同一五年の「興福寺旧記」には「高取城ヲ越智ヨリ攻取、城主子嶋掃部没落ス」とあり、この頃同じく一乗院方国民であった子嶋氏を追って高取城を確保したようである。

「続南行雑録」所収の二条寺主家記によれば天文元年(一五三二)七月一〇日には南都の一向一揆が高取城を攻めたが落ちなかった。しかし越智氏はしだいに衰え、「多聞院日記」元亀二年(一五七一)九月二四日条に「タカ鳥ニテ越智民部少輔(家高)生害了、女房・男子・女子悉以殺了、一ノ尾ノ深介ノ所行ト云」、同天正一一年(一五八三)八月二六日条に「越智玄番(頼秀)今朝生害云」とあり滅亡した。これより先、天正八年には織田信長の破城令により大和では現大和郡山市の郡山城だけが残り、高取城もいちおう破城となったが、新たに郡山城主となった豊臣秀長は平城的な郡山城の詰の城としての高取城を重視し、同一三年八月に脇坂安治が二万石を領して入城し、一〇月には移封(寛政重修諸家譜)、次いで秀長の臣本多氏が入った(断家譜)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「高取城跡」の解説

たかとりじょうあと【高取城跡】


奈良県高市郡高取町高取にある城跡。大和平野の南隅にそびえる標高約584mの高取山上に築かれ、西には金剛、葛城(かつらぎ)、南には吉野の山々、脚下には大和平野と吉野川沿岸を望む景勝の地にある。往時には山上に白漆喰(しろしっくい)塗りの天守や櫓(やぐら)が29棟並び、曲輪(くるわ)が連なった連郭式の山城で、城郭全域の総面積約6ha、周囲約30kmにおよぶ国内最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。南北朝時代、南朝方であった越智邦澄(おちくにずみ)が1332年(元弘2・正慶1)に築城したと伝えられ、元亀・天正年間(1570~92年)には高取城が越智氏の本城となったが、豊臣秀吉の異父弟・秀長による大和国支配で本多利久に与えられた。秀吉没後、本多利久の子俊政は関ヶ原の戦いを経て、高取藩2万5000石の初代藩主となった。本多氏廃絶の後、桑山一玄(かずはる)、小出吉親(こいでよしちか)が城番となったが、1640年(寛永17)に植村家政が取り立てられてからは、明治維新まで植村氏が14代にわたって城主となった。標高の高い山城に、石垣、天守、櫓、門、殿舎などが近世に築かれた例は少なく、また小天守まである山城は例がなく、天守台、門、櫓などの遺構は学術上価値があるとして、1953年(昭和28)に国の史跡に指定された。近畿日本鉄道吉野線壺阪山駅から車で約16分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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