日本歴史地名大系 「高取城跡」の解説
高取城跡
たかとりじようあと
高取山(五八三・九メートル)山頂に所在。東は
越智氏は戦国期には興福寺一乗院方国民となっており、当城とは別に
「続南行雑録」所収の二条寺主家記によれば天文元年(一五三二)七月一〇日には南都の一向一揆が高取城を攻めたが落ちなかった。しかし越智氏はしだいに衰え、「多聞院日記」元亀二年(一五七一)九月二四日条に「タカ鳥ニテ越智民部」、同天正一一年(一五八三)八月二六日条に「越智
」とあり滅亡した。これより先、天正八年には織田信長の破城令により大和では現大和郡山市の郡山城だけが残り、高取城もいちおう破城となったが、新たに郡山城主となった豊臣秀長は平城的な郡山城の詰の城としての高取城を重視し、同一三年八月に脇坂安治が二万石を領して入城し、一〇月には移封(寛政重修諸家譜)、次いで秀長の臣本多氏が入った(断家譜)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報