高柳賢三(読み)たかやなぎけんぞう

改訂新版 世界大百科事典 「高柳賢三」の意味・わかりやすい解説

高柳賢三 (たかやなぎけんぞう)
生没年:1887-1967(明治20-昭和42)

英米法学者。埼玉県熊谷生れ。1912年東京帝国大学法科大学卒業。13年同大学助教授,21-48年同教授としてイギリス法講座を担任した。英米法をその歴史的・社会的・思想的背景に深く留意しつつ研究し,フランス法における杉山直治郎(1878-1966)とともに,それまでは法準則の単なる紹介に終始していた日本における外国法研究に新風を吹きこんだ。法哲学にも関心をもち,33-34年,35-37年に東京帝国大学の法理学講座を担当したこともある。また,昭和初期から第2次大戦中まで存在した法典英訳委員会の中心的メンバーとして,日本の民法典商法典の英訳に従事した。

 東京大学退官後,成蹊大学教授(1949-67),同学長・成蹊学園総長(1949-57)となったほか,57-65年,憲法調査会会長を務め,1950年代後半の憲法問題の論議が政治的な色彩をあまりにも強く帯びていたことを戒め,学問的にアプローチすべきことを強調し,そのような角度から日本国憲法の制定過程についても資料を収集,それに基づいて実証的な研究を行った。著書・論文は多いが,おもなものとして,《英米法源理論》(1938,全訂版1956),《司法権の優位》(1948,全訂版1958),《極東裁判と国際法》(1948),《日本国憲法制定の過程》(共編著。1972)があり,また,《英米法辞典》(1952)の共編者の一人でもあった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高柳賢三」の意味・わかりやすい解説

高柳賢三
たかやなぎけんぞう
(1887―1967)

法学者。明治20年5月11日埼玉県熊谷(くまがや)に生まれる。1912年(大正1)東京帝国大学法科大学卒業後、13年同大学助教授となる。15年から5年間欧米に留学し、帰国後教授となり、英米法を教え、学内行政にも力を尽くした。49年(昭和24)成蹊(せいけい)大学学長となり、57年までその職にあった。57年から65年までの8年間、憲法調査会会長として憲法の改正問題の調査、研究に没頭した。67年(昭和42)6月11日香港(ホンコン)で没した。

 彼の学問的生活におけるアメリカの法学者パウンド、ウィグモアらとの親交、交流は有名である。英米法研究の分野では、その判例主義にとらわれることなく、英米法を、成文法主義をとる大陸法との比較において理解しようとした。また、イギリスのダイシーによる法の優位、法の支配の思想を学んで、1930年代の中ごろ、わが国において軍部の政治的圧力による独裁的傾向が高まっているなかで、司法的憲法保障制度としての司法権の優位を跡づけた。これは彼の外国法研究が、法制度の規範的要因分析、解明に終始することなく、その思想的背景を明らかにすることが必要であるとするその方法論的主張に裏づけられていた証左であろう。なお、極東国際軍事裁判のときにはA級戦犯の弁護人を務め、国際的には常設仲裁裁判所の裁判官を務めた。主著に『英米法の基礎』『英米法源理論』『司法権の優位』などがある。

[水田義雄]

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20世紀日本人名事典 「高柳賢三」の解説

高柳 賢三
タカヤナギ ケンゾウ

大正・昭和期の法学者 東京大学名誉教授;成蹊大学学長。



生年
明治20(1887)年5月11日

没年
昭和42(1967)年6月11日

出生地
埼玉県熊谷市

学歴〔年〕
東京帝国大学法学部〔明治45年〕卒

経歴
東大助教授となり、大正4年欧米に留学、11年教授。昭和13年学士院会員。アメリカの違憲審査制度を研究し、司法権の優位を確立、戦後の新憲法の擁護が評価される。東京裁判では日本側弁護団のリーダー格で活躍。23年退官、24年成蹊大学長。32年憲法調査会会長として制定の経過、運用の実態など詳細な報告書をまとめ、改憲論の委員多数の中で、改憲ムードに歯止めをかけた。著書に「法源理論」「米英法の基礎」など。

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百科事典マイペディア 「高柳賢三」の意味・わかりやすい解説

高柳賢三【たかやなぎけんぞう】

英米法学者。埼玉県生れ。1912年東京帝国大学法科大学卒業。1913年より同大学でイギリス法講座を担当,日本の英米法研究を本格的な比較法学として確立した。また日本の民法典・商法典の英訳に尽力。第2次世界大戦後,極東国際軍事裁判の弁護人となる。成蹊大学学長・成蹊学園総長,憲法調査会会長を務め,1950年代後半の憲法問題の論議では日本国憲法の制定過程や運用について調査を行った。著書は《英米法源理論》《司法権の優位》など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高柳賢三」の解説

高柳賢三 たかやなぎ-けんぞう

1887-1967 大正-昭和時代の法学者。
明治20年5月11日生まれ。英米法を研究,大正10年母校東京帝大の教授となる。昭和21年貴族院議員として憲法草案の審議に参加,東京裁判の弁護活動などをおこなう。成蹊大学長,憲法調査会会長などをつとめた。昭和42年6月11日死去。80歳。埼玉県出身。著作に「英米法源理論」「司法権の優位」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高柳賢三」の意味・わかりやすい解説

高柳賢三
たかやなぎけんぞう

[生]1887.5.11. 熊谷
[没]1967.6.11. ホンコン
法学者。 1912年,東京大学法科大学を卒業,21年以来同大学で英米法,法哲学などを講じた。特にイギリス公法の精緻な研究で知られる。 57年憲法調査会長に任じられた。主著『法律哲学原理』 (1929) ,『英国公法の理論』 (59) など。

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367日誕生日大事典 「高柳賢三」の解説

高柳 賢三 (たかやなぎ けんぞう)

生年月日:1887年5月11日
大正時代;昭和時代の法学者。成蹊大学学長
1967年没

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