日本歴史地名大系 「高森城跡」の解説
高森城跡
たかもりじようあと
高森の北西部、
高森城跡
たかもりじようあと
高森城跡
たかもりじようあと
「注進案」に「城墟三段、上の段凡四畝、中・下二畝ばかり、麓より登り七丁」とあり、また「大内家臣岐志四郎左衛門通明、此地に居住し、戦国に臨て城を築き、高森之城と称す、其孫甲斐守、芸州折敷畑に討死後、坂新五左衛門元祐、五ケを領し、当地へ入城之由申伝へ候」とある。弘治元年(一五五五)一二月四日、毛利隆元が林右馬允にあてた書状(「閥閲録」所収)に「態申遣候、仍今度高森要害普請申付候、別而其方遂馳走之由、新五左衛門尉申候、(中略)新五左衛門尉妻子共在番之儀候間、弥入魂可為忠節候」とあり、また同日、隆元が三分一主殿允ほか二人へあてた書状(「閥閲録」所収)にも「今度高森要害普請付而、一入遂馳走之由、新五左衛門尉申候」とあって、戦国末期の城地であることを証する。
高森城跡
たかもりじようあと
高森城跡
たかもりじようあと
高森集落の東約一・四キロ、標高約九一六メートルの所に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報