高森城跡(読み)たかもりじようあと

日本歴史地名大系 「高森城跡」の解説

高森城跡
たかもりじようあと

[現在地名]宇佐市高森 本丸・三ノ丸

高森の北西部、駅館やつかん川下流の東岸崖上にある平城で、黒田利高の居城といわれる。城跡のある台地は同川にやや突き出して将棋の駒状を呈し、同所からは宇佐平野・国東くにさき半島・周防灘が一望できる。宝森城(「両豊記」など)とも記される。城の縄張りは突出部の基部を二本の空堀と三本の土塁で分断され、これらを含む西側の小字は本丸ほんまる、東側は三の丸さんのまるである。空堀と土塁の規模は南北二五〇メートル・東西七〇メートル、西側の堀の中にはさらに削り出しの小さい土塁状遺構(畝堀)が並行して造られている。堀は底から土塁の上面までの高さは約九メートル。西側土塁の中央部付近には幅二五メートル・長さ一五メートルの枡形状をなし、ここに矢倉などの軍事施設が構築されていたと推定される。同様の枡形状遺構は北側にも一ヵ所で認められる。堀は土塁と並行して折れ曲がっている。土塁のすぐ西側中央部には郭があり、ここだけは南・北・西の三方に空堀がめぐり、中から瓦片が多く出土した。


高森城跡
たかもりじようあと

[現在地名]三間町兼近

三間町の東端兼近かねちか広見ひろみ沢松さわまつの境の山(三七九メートル)上にある。延宝九年(一六八一)の「吉田古記」には「但実は衣笠城と云よし、城山峰より少し下りて大石あり是を則衣笠と云て、古は諸人此石の辺へ立寄れば死難の為病苦を受、依之彼石におそれしと也」とある。

同書によると、城主は河野新蔵人越智通賢とその子通氏で、沢松村・兼近村・大内おうち村・古藤田ことうだ村・田川たがわ村・金銅かなどう村・川之内かわのうち村・小沢川こそうがわ村・土居垣内どいかきうち村・波岡なみおか村・中野中なかのなか村・元宗もとむね村・告森こつもり村の一三ヵ村を領有し、中野殿と称され、この地域を中野とも称した。


高森城跡
たかもりじようあと

[現在地名]美和町大字北中山 牛ヶ田和

中山なかやま南方生見いきみとの境のうし田和たわにあり、城山とよぶ。

「注進案」に「城墟三段、上の段凡四畝、中・下二畝ばかり、麓より登り七丁」とあり、また「大内家臣岐志四郎左衛門通明、此地に居住し、戦国に臨て城を築き、高森之城と称す、其孫甲斐守、芸州折敷畑に討死後、坂新五左衛門元祐、五ケを領し、当地へ入城之由申伝へ候」とある。弘治元年(一五五五)一二月四日、毛利隆元が林右馬允にあてた書状(「閥閲録」所収)に「態申遣候、仍今度高森要害普請申付候、別其方遂馳走之由、新五左衛門尉申候、(中略)新五左衛門尉妻子共在番之儀候間、弥入魂可忠節候」とあり、また同日、隆元が三分一主殿允ほか二人へあてた書状(「閥閲録」所収)にも「今度高森要害普請付、一入遂馳走之由、新五左衛門尉申候」とあって、戦国末期の城地であることを証する。


高森城跡
たかもりじようあと

[現在地名]大洲市平野町平地

平地ひらじ川北岸、標高一九〇メートルの高森山頂にある戦国期の山城。規模は東西三五メートル、南北四三メートル。鍛冶谷かじや城ともいう。天文年間(一五三二―五五)大津おおつ城主宇都宮豊綱の弟房綱がいた萩森はぎもり(現八幡浜市)支城で、老臣梶谷伊豆守景則の居城となる。元亀四年(一五七三)城の取拵の功により、梶谷は河野通直から平地名本分(平地村)有松(阿蔵村)の所領を安堵される。


高森城跡
たかもりじようあと

[現在地名]高森町高森 城山

高森集落の東約一・四キロ、標高約九一六メートルの所に城山じようやまの地名が残る。尾根筋の遺構は不明だが、山頂から南西に下った字城山下じようやましたかこいとよぶ二つの谷が南北に並ぶ。ともに西方に開口し、南側の谷は奥行一三〇メートル・入口幅六〇メートルで、中央に礎石が認められる。なお北側谷の上方には「古城考」に記される「千人がくれ」の窪地が残る。「南郷事蹟考」によると、阿蘇家の家臣高森惟直の居城とされ、「天正十年冬薩州島津ノ家来稲富新助、二万ノ兵ヲ帥テ馬見原口ヨリ攻入、高森ノ城ヲ強ク攻」めて以来、同一二年三月には「島津家久三万ノ兵ヲ引テ当国ヘ打入高森城ヲ攻撃」、当城は大友家に援軍を求め、「市下村山二子石久木野等ノ城主同意シテ薩軍ヲ破ル」などの合戦があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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