高田城跡(読み)たかだじようあと

日本歴史地名大系 「高田城跡」の解説

高田城跡
たかだじようあと

[現在地名]上越市本城町

徳川家康の六男、福島ふくしま城主松平忠輝(六〇万石、異説に四五万石、七五万石)が慶長一九年(一六一四)に福島城を廃して築城した典型的な平城。江戸城を模して造ったといわれる。別名をさめガ城・せき城・城という。これらは、築城時に鮫のキバと思われるものが出たこと、かつてこの地を関の庄とよんだこと、城全体の縄張りがほら貝に似ていることに由来する。また雅名を高陽こうよう城といった。土塁には石垣を使わず、天守閣も造らなかったが、本丸土塁西南隅上に三重の矢倉を設け、「御三層」といって城のシンボルとした。内郭の規模は陸面三二町五反、水面三九町五反、計七二町(新版「高田市史」)という。城内の構成は本丸・二ノ丸・三ノ丸・狐丸などにより、城郭構成上の分類からすれば、囲郭・梯郭・連郭の折衷式で、江戸城・広島城・金沢城などと同じ系列に属する。

〔高田築城の理由〕

高田城が築城された慶長年間は、徳川家康が関ヶ原の戦で反対派を破って江戸幕府を開き、その後、大坂の陣で豊臣秀頼を滅ぼした時期にあたる。いわば幕府の基礎確立期であったが、まだ大坂城には豊臣秀頼、前田利常が加賀金沢に、その義父利長は越中高岡たかおかにあって不安が多かった。また豊臣の旧臣堀秀治が越後に、加えて上杉氏遺臣と米沢の上杉景勝との連合による反徳川勢力の成長も懸念された。このような時代背景から家康は、実子忠輝をこの地に送り、越前松平氏とともに徳川連枝によって北陸警備を安定させようとした。そのためには小規模な福島城では防備上物足りなかったと同時に、新地築城を機に諸大名に国役普請を課し、かれらの財力を弱め、かつその態度を見ようとしたこともあろう。また当時は城の増改築が盛んで、全国的な時代再編成への要請もあった。このほか忠輝が福島城を廃した具体的な理由として「越後福島の城水入之地故、高田に引く御城普請有之」(天寛日記)とあり、福島の地は水害の多い所であったこと(保倉川・関川の洪水や、高田移転後の慶長一九年一〇月二五日の大地震の際、津波があり多数の死傷者が出た)、また日本海の波音が高くて安眠できなかったこと、城地が狭いこと、水軍を防備することが不安なこと、潮風によって刀・槍・鉄砲など武具の錆がひどいことなどがあげられている。次に高田が築城地に選ばれた理由として、関川を城の背後の守りにすることが可能であるうえ、城の前面が開けていて城下町の形成が容易であったこと、飲料水が豊富に得られたこと(城内には一五ヵ所の井戸があり、昭和三〇年代には井戸跡が残っていた)、関川の蛇行部を外濠とし、支流の青田あおた川・儀明ぎみよう川を掘りかえて前面の防御線がつくれること、築城を妨げるほど発達した都市や村落がなかったことなどが考えられる。


高田城跡
たかたじようあと

[現在地名]勝山町勝山

勝山町の中心部にある中世および近世の城跡。勝山城ともよばれる。現存の遺構は近世のもので、標高三二二メートルの如意によい山を本丸とし、その南にある標高二六一メートルの勝山を出丸とする。両山の間は堀切になっており、須井乢とよばれる。総称して大総山といった。城下を出雲往来、東城とうじよう往来、大山往来の枝道が通り、東に久世くせ平野を望む美作西部の軍事交通の要衝である。旭川(高田川)が城の北・西・南の三方を取囲むようにして流れ、堀の役割をなしている。城の北面は峻険で天然の要害をなし、南面には近世にだんと称された台地が張出し、寺社をはじめ根小屋・侍屋敷が置かれた。旦の西南麓に旭川に沿って山下集落・町屋が成立した。城の東は山続きで堀切で区画され、東南麓は旭川の氾濫原で湿地帯であった。

最初の築城は、関東より移居した三浦貞宗によるという。


高田城跡
たかだじようあと

[現在地名]大和高田市旭北町

国鉄桜井線・和歌山線に挟まれた常光寺じようこうじ公園一帯が城跡で、池畔に「高田城阯之碑」が立つ。初瀬はせ竹内たけのうち(現北葛城郡當麻町)を結ぶよこ大路に面し、ほぼ正方形に城跡を囲んだ道としろ西にし・シロノウチ・馬場ばばなどの小字が残る。平田庄荘官高田(当麻)氏の拠城で、同氏は至徳元年(一三八四)の長川流鏑馬日記(天理図書館保井文庫)にも名がみえる興福寺一乗院方国民で、延元三年(一三三八)に高田兵庫頭宗貞が金峯山きんぶせん寺に仁王像を寄進している。

高田城は永享四年(一四三二)当麻為貞の築城と伝えるが(当麻氏系図)、当麻一族の高田居住はすでに鎌倉初期頃と考えられており、築城はかなり早かったと思われる。


高田城跡
たかだじようあと

[現在地名]豊後高田市玉津 新屋敷

かつら川の河口部右岸、周防灘に面する美和みわ台地の舌状部にある。建久七年(一一九六)高田重定の築城と伝える(豊後国志)。天正八年(一五八〇)閏三月一三日の大友義統書状(田原達三郎文書)に高田要害とみえ、帯刀安芸入道が前年中同要害に在城し、本年初春からは屋山ややま岳に登城している。文禄二年(一五九三)の大友氏改易のあと太閤検地が実施されるが、豊後国速見郡暘城来由覚書(志手文書)によれば、豊後国検地は天正一九年のこととされ、検地奉行の宮部法印は高田城にいて下知したという。


高田城跡
たかだじようあと

室町時代の千葉氏の居城で、建武年中(一三三四―三八)千葉胤貞が築城してここに住み、その子胤泰、孫胤基も居城、胤基の子胤繁の時、千葉ちば(牛頭城、跡地は現小城町大字松尾字吉田)に移ったという。

高田城の跡地について、「小城郡誌」(昭和九年刊)長神田ちようかんだの字高田にあるとしている。しかし高田にはこれに比定すべき場所がない。享和元年(一八〇一)写の御領中郡村附によると、遠江とおのえ久本ひさもとを惣名高田と称し、やしろを下高田と称するとあるから、この一帯の堀をめぐらした館風の城ではなかったかと推定される。


高田城跡
たかたじようあと

[現在地名]上郡町奥

おく集落の北方、標高三一〇メートルの抜石ぬくいし山頂上にある中世の山城跡。抜石山ぬくいしやま城・西条山さいじようさん城・西城山さいじようさん城とも。南麓には古代―中世の山陽道が通り、古代の高田駅を中核とした平野部の高田庄を見下ろすが、平野への眺望はやや悪い。元弘三年(一三三三)赤松円心(則村)苔縄こけなわ城で旗揚げした際、護良親王配下の殿法師方の城頼連が高田城に押寄せて箭倉を破却したという(同年五月日「城頼連軍忠状」毛利家文書)。当時は高田兵庫助が拠っていたと考えられる(「太平記」巻七)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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