高知城下中央やや北西寄りにある
高知御城築記(皆山集)に「石は浦戸城石を不苦所は毀取、江ノ口北迄大船に積廻し、其外久万・万々・秦泉寺・円行寺或ハ一宮・神田・潮江・朝倉辺より取之、材木ハ久万・万々・秦泉寺・円行寺或ハ一宮於木場荒仕成仕候事」、また「御侍中老若共我も我もと竹木土石等持参自分働き、若衆は簀を荷ひ或は二人舁抔仕、幼少之者は袂に石砂等を入持参、並町人郷人共男女猶々也、雖然町郷の拾歳以下幼少の者は砂一升に米一升を以鳥目代に被遣候事」とある。そのほか瓦は大坂から取寄せ、職人の多くは大坂から呼入れている。人夫は一日約一千三〇〇人に及び、一人当り米七合と味噌代を支給している。この築城期間中、山内一豊は一日おきに浦戸から五人の影武者を伴って視察した。一豊と五人の影武者は六人衆とよばれ、同装束で現れ、旧領主長宗我部氏の遺臣の攻撃に備えたという。
慶長八年、本丸と二ノ丸が完成、八月二一日に入城した。御城築記は「御入城当日、御旗、御馬印等終日御城ニ立、不絶鳥銃打放ツルヘ放抔有、又は金皷撃鳴申事、当日より二三日同然之事」と記している。城山の名称も大高坂山を改めて、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
戦国期~江戸期の城。高知市丸ノ内にある。1588年(天正16)長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が、南北朝期に大高坂(おおたかさ)松王丸の拠(よ)っていた大高坂山に城を築き始めたが、潮江(うしおえ)川(鏡(かがみ)川)と江ノ口川の洪水に苦しめられて放棄。元親は浦戸(うらど)城を居城としていた。1601年(慶長6)長宗我部氏にかわって20万石の大名として土佐に入ってきた山内一豊(やまうちかずとよ)はただちに大高坂山に築城を始め、03年に本丸、二の丸を完成して入城した。三の丸部分まで完成したのは11年で、その前年、名を高知と改めている。一豊時代の天守は1727年(享保12)に焼失し、現在の天守閣は1747年(延享4)に再建されたものであるが、大屋根に望楼をのせ、勾欄廻縁(こうらんかいえん)式の慶長期の古風な様式をとどめている。ほかに大手門、懐徳館(本丸正殿)など建造物も多い。
[小和田哲男]
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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