高知城(読み)こうちじょう

精選版 日本国語大辞典 「高知城」の意味・読み・例文・類語

こうち‐じょう カウチジャウ【高知城】

高知市にある平山城。山内氏歴代の居城で、慶長八年(一六〇三)頃山内一豊が築城。はじめ河中山(こうちやま)城と称し、のち現名に改称。享保一二年(一七二七)焼失したが宝暦四年(一七五四)再建、明治維新に至る。天守閣以下一五棟が現存し、いずれも国重要文化財、国史跡。大高坂城。

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デジタル大辞泉 「高知城」の意味・読み・例文・類語

こうち‐じょう〔カウチジヤウ〕【高知城】

高知市にある城。関ヶ原の戦い後、土佐藩主山内一豊が築城し、慶長8年(1603)本丸完成。その後焼失し、延享4年(1747)以降再建。

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日本歴史地名大系 「高知城」の解説

高知城
こうちじよう

[現在地名]高知市丸ノ内一丁目

高知城下中央やや北西寄りにある大高坂おおだかさ(高知山)に築かれた平山城形式の城。土佐藩主山内氏の居城。大高坂城ともたか城ともよばれる。国指定史跡。南北朝時代、南朝方として活躍した大高坂松王丸の居城のあった地といわれ、戦国時代には長宗我部元親も築城しようと岡豊おこう(現南国市)より移ったこともある。しかし度重なる洪水のため断念し、浦戸うらどへ築城した。長宗我部氏に代わって慶長六年(一六〇一)入国した山内一豊は、長宗我部氏の浦戸城の放棄を決め、大高坂山に築城する計画を立てた。同年八月、築城総奉行に百々越前守安行を任命、その子出雲を補佐として九月に着工した。

高知御城築記(皆山集)に「石は浦戸城石を不苦所は毀取、江ノ口北迄大船に積廻し、其外久万・万々・秦泉寺・円行寺或ハ一宮・神田・潮江・朝倉辺より取之、材木ハ久万・万々・秦泉寺・円行寺或ハ一宮於木場荒仕成仕候事」、また「御侍中老若共我も我もと竹木土石等持参自分働き、若衆は簀を荷ひ或は二人舁抔仕、幼少之者は袂に石砂等を入持参、並町人郷人共男女猶々也、雖然町郷の拾歳以下幼少の者は砂一升に米一升を以鳥目代に被遣候事」とある。そのほか瓦は大坂から取寄せ、職人の多くは大坂から呼入れている。人夫は一日約一千三〇〇人に及び、一人当り米七合と味噌代を支給している。この築城期間中、山内一豊は一日おきに浦戸から五人の影武者を伴って視察した。一豊と五人の影武者は六人衆とよばれ、同装束で現れ、旧領主長宗我部氏の遺臣の攻撃に備えたという。

慶長八年、本丸と二ノ丸が完成、八月二一日に入城した。御城築記は「御入城当日、御旗、御馬印等終日御城ニ立、不絶鳥銃打放ツルヘ放抔有、又は金皷撃鳴申事、当日より二三日同然之事」と記している。城山の名称も大高坂山を改めて、真如しんによ寺の在川(一説に雪蹊寺の月峯)河中こうち山と命名した。くち川とかがみ川の二つの河川に挟まれているからという。ところが相次ぐ洪水で城下町づくりが困難を極めたので河中の字を忌み、同一五年九月に五台山竹林ちくりん寺の空鏡が、藩主の命を受けて高智山と表記を改めた。これは竹林寺の文殊菩薩(知恵をつかさどる菩薩)の高い知恵にあずかるとの意味という。やがて高智から高知へと変化し、ここに高知という地名が生れた。

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日本の城がわかる事典 「高知城」の解説

こうちじょう【高知城】

高知県高知市丸の内にある平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。本丸の建物のほとんどが現存する国内唯一の城である。高知平野の中央に位置し、鏡川と江ノ口川を外堀として利用、大高坂山(おおたかさやま)(標高40m)の山頂を石垣や塀で囲み、南に本丸、北に二の丸、北東に三の丸を配した。関ヶ原の戦いで戦功をあげた山内(やまのうち)一豊は、土佐一国を与えられ、1601年(慶長6)浦戸城(高知市)に入った。しかし、浦戸は土地が狭いため、城下町をつくるには不適と考え、新しい城地に大高坂山を選び、築城を開始した。もともとこの地は、南北朝時代に築かれた大高坂山城があったところ。また、1588年(天正16)、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、岡豊城(おこうじょう)から移り住んだものの、洪水に悩まされて数年で撤退していた。1603年(慶長8)に本丸と二の丸が完成したため、一豊は浦戸城を廃して入城した。この時、2つの川の間に立地することから、河中山城(こうちやまじょう)と改めた。2代藩主の忠義(ただよし)は、水害が繰り返されることから「河中」の文字を忌み嫌い、高智山城と改名した。のちに省略して高知城、地名も高知と呼ぶようになる。1611年(慶長16)に三の丸が竣工し、高知城が完成した。そびえる天守は、一豊の前任地である掛川城(静岡県掛川市)の天守を模したものという。1727年(享保12)、城下の大火に類焼して、ほとんどの建築物を焼失した。8代豊敷(とよのぶ)は、1729年(享保14)から城の再建に取りかかり、1753年(宝暦3)に完了した。現在ある建造物は、この時に再建されたものである。以来、高知城は大きな修築はなく、山内家16代の居城として明治維新を迎えた。1873年(明治6)の廃城令により高知公園になり、現存する建造物以外のものは取り壊された。現在、四重6階の天守、本丸御殿(ほんまるごてん)、黒鉄門(くろがねもん)、詰門(つめもん)、廊下門、西多聞櫓(にしたもんやぐら)、東多聞櫓(ひがしたもんやぐら)、石垣、土塀、堀などが現存する。土佐電鉄伊野線高知城前駅から徒歩10分。◇大高坂山城(おおたかさやまじょう)、河中山城(こうちやまじょう)ともいう。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高知城」の意味・わかりやすい解説

高知城
こうちじょう

戦国期~江戸期の城。高知市丸ノ内にある。1588年(天正16)長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が、南北朝期に大高坂(おおたかさ)松王丸の拠(よ)っていた大高坂山に城を築き始めたが、潮江(うしおえ)川(鏡(かがみ)川)と江ノ口川の洪水に苦しめられて放棄。元親は浦戸(うらど)城を居城としていた。1601年(慶長6)長宗我部氏にかわって20万石の大名として土佐に入ってきた山内一豊(やまうちかずとよ)はただちに大高坂山に築城を始め、03年に本丸、二の丸を完成して入城した。三の丸部分まで完成したのは11年で、その前年、名を高知と改めている。一豊時代の天守は1727年(享保12)に焼失し、現在の天守閣は1747年(延享4)に再建されたものであるが、大屋根に望楼をのせ、勾欄廻縁(こうらんかいえん)式の慶長期の古風な様式をとどめている。ほかに大手門、懐徳館(本丸正殿)など建造物も多い。

[小和田哲男]


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事典・日本の観光資源 「高知城」の解説

高知城

(高知県高知市)
日本100名城」指定の観光名所。

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