髪結(読み)かみゆい

精選版 日本国語大辞典 「髪結」の意味・読み・例文・類語

かみ‐ゆい‥ゆひ【髪結】

  1. 〘 名詞 〙 髪を結うこと。また、それを職業とする人。かみい。
    1. [初出の実例]「於今御門辺盗人殺害了。伊勢者かみゆゐにてありしと云々」(出典:多聞院日記‐天正一二年(1543)正月一九日)
    2. 髪結〈今様職人尽百人一首〉
      髪結〈今様職人尽百人一首〉

髪結の補助注記

江戸時代、この仕事は男子にのみ許された業であったが、寛政頃には女髪結も現われた。女髪結は幕府によるたびたびの禁令にもかかわらず、広く世に受け入れられ、明治以後は女子の職業として公認された。


かみ‐い【髪結】

  1. 〘 名詞 〙 「かみゆい(髪結)」の変化した語。
    1. [初出の実例]「髪結(カミイ)のお櫛さんが常詰(じゃうづめ)か」(出典:滑稽本浮世風呂(1809‐13)三)

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改訂新版 世界大百科事典 「髪結」の意味・わかりやすい解説

髪結 (かみゆい)

髪を結うことを職業とする者。なまって〈かみい〉ともいい,その店をかみいどこ,かみどこ,とこやなどとも呼ぶ。日本では古来髪は自分で結うか,家人が手伝って結髪した。しかし宮中や貴族,武家階級などでは,衣装の着付や結髪,化粧をする役目の者が置かれていた。平安・鎌倉時代までは,男は一般に烏帽子(えぼし)をかぶる風があり,結髪はしごく簡単であった。室町時代の応仁の乱は風俗,慣習にも大きく影響し,かぶりものを脱した露頭(ろとう)や月代(さかやき)が行われるようになった。こうして室町後期には月代そりと結髪を職業とする者が現れた。いくつかの《洛中洛外図屛風》中には,賀茂川橋詰めなどに設けた床店(床見世)(とこみせ)で,髪結が床几(しようぎ)に腰かけた客の髪を結う様が描かれ,かたわらにははさみ,かみそり,毛抜き,元結などを描いた看板がつるされている。客は武士,髪結も浪人など武家の出の者が大部分であった。江戸時代には髪,月代を整えることを業とするのは男子にのみ許され,〈髪結〉はその公称であった。《武江年表》万治1年(1658)の条に〈江戸中髪結株一町に一ヶ所づゝ八百八株に定まる〉とあり,翌年600枚の鑑札が下付され,同時に年ごとに師匠は2両,弟子は1両を上納するようになった。これよりさき髪結札と呼ぶ鑑札は1640年(寛永17)に始まり,そのときの髪結は御入用橋(ごにゆうようばし)(大坂では公儀橋(こうぎばし))の保守・監視を義務づけられていたが,明暦の大火(1657)後前記のように金納し,そののちは出火のさい町奉行所などにかけつけて重要書類を持ち出すことなどが義務づけられていた。また職業上情報を得やすいため,犯罪捜査にも協力したという。鑑札のない営業者は家主ともども罰せられ,1852年(嘉永5)には鑑札の数は1700枚に達した。

 髪結床には町境,橋詰め,川岸などの空地に床場をかまえる出床(でどこ)と,町内に家を借りて営業する内床(うちどこ)があり,出床は内床の支店の場合が多かった。〈床〉は取りたたむことのできるような簡略な仮店で,床店ともいった。町中に店をかまえても髪結店(みせ)といわず,髪結床と呼ばれるのはこのためで,《浮世床》や《江戸繁昌記》が描いているように,髪結床は町の社交場でもあった。このほか髪結は,鬢盥(びんだらい)と呼ばれる道具箱をさげ,得意先を訪れて仕事をする丁場(ちようば)回りという営業も行った。

 髪結にはまた一銭職(いつせんしよく)という異称があった。これは享保年間(1716-36)に髪結仲間が公儀に差し出した《壱銭職由緒之事》によると,三方原(みかたがはら)の戦のさい髪結職の北小路藤七郎なる者が徳川家康の危急を救って賞されたことに由来するとしている。しかし実際は,髪結発祥期に路傍に床を置き,通行人の求めにより月代をそり,髪を結ったときの賃銭が1文で,一文ぞりと呼ばれたことに起因し,それから一銭ぞり,一銭職となったものと考えられる。髪結銭は天保改革(1842)前の28文が標準で,月に15度結いが400文,6度結いは148文の定めであった。当時の米価は1升が約23文である。三都を除く地方に髪結が普及するのは18世紀に入ってからで,備前岡山が宝永年間(1704-11),信濃善光寺宿は元文年間(1736-41),上野桐生は宝暦年間(1751-64),新潟港は天明年間(1781-89),陸奥青森は寛政年間(1789-1801)のことであった。

 女髪結は上方に始まり,やがて江戸にも出現した。江戸では,寛政年間には相当数のものが,店をかまえぬまでも半ば公然と営業していた。しかし当時,女の髪は自分で結うものとされ,女髪結に結わせるのは芸妓などのすることで,しろうと女がそうしたことをすれば茶屋者のようだ,ぜいたくだと非難された。そして女髪結は禁止され,寛政・天保両度の改革できびしく弾圧されたが,華美を求める風潮の中で,やがて物堅い町家にまで出入りするようになり,1853年には江戸市中で1400余人を数えたという。明治維新後はじめて公然たる職業として自立したが,以後昭和初期までは比較的収入の多い女子職業とされ,〈髪結の亭主〉といった言葉も生まれた。やがて洋髪の普及,欧米の美容技術の導入とともに美容師の呼称が一般化し,第2次大戦後,理(美)容師法の施行(1948)によって美容師は公称となった。今日ではいわゆる〈日本髪〉を結う髪結は,芸妓などごく一部の婦人を対象とするのみで,その数は激減した。
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百科事典マイペディア 「髪結」の意味・わかりやすい解説

髪結【かみゆい】

髪を結う職人。平安・鎌倉時代には男性は烏帽子(えぼし)をかぶるために簡単な結髪ですんでいたが,室町後期には露頭(ろとう)や月代(さかやき)が一般的になり,そのため,結髪や月代そりを職業とする者が現れた。別に一銭剃(いっせんぞり),一銭職とも呼ばれたが,これは初期の髪結賃からの呼称とされる。また取りたたむことのできるような簡略な仮店(〈床〉)で営業したことから,その店は髪結床(かみゆいどこ),〈とこや〉と呼ばれた。近世には髪結は主に〈町(ちょう)抱え〉〈村抱え〉の形で存在していた。三都(江戸・大坂・京都)では髪結床は,橋詰,辻などに床をかまえる出床(でどこ),番所や会所の内にもうける内床があるが(他に道具をもって顧客をまわる髪結があった),ともに町の所有,管理下におかれており,江戸で番所に床をもうけて番役を代行したように,地域共同体の特定機能を果たすように,いわば雇われていた。そのほか髪結には,橋の見張番,火事の際に役所などに駆け付けることなどの〈役〉が課されていた。さらに髪結床は,《浮世床》や《江戸繁昌記》に描かれるように町の社交場でもあった。なお,女の髪を結う女髪結は,芸妓など一部を除いて女性は自ら結ったことから,現れたのは遅く,禁止されるなどしたが,幕末には公然と営業していた。→理髪店
→関連項目床屋

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「髪結」の意味・わかりやすい解説

髪結
かみゆい

頭髪を結うことを職業とする者。江戸時代初期から専業となり,男子の髪結は店にあって営業し,女子の髪結は客の家を回って結髪した。中古,天皇の調髪を司る者を「袿 (うちき) の人」と呼び,紫色の袿を着て伺候した。寛政期 (1789~1801) には華美の風潮を喜ぶあまり,女髪結の全盛期を迎え,一時は幕府が女髪結禁止令を出すほどになったが,やがてこの禁令も無視された。「髪結の亭主」はかい性がない夫の代名詞として使われる。明治にいたって散切 (ざんぎり) 髪型の出現によって髪結床は理髪床に変り,現在の理美容店となった。しかし女子の髪型が日本髪型を残すかぎり,古来の髪結職も伝えられるであろう。

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世界大百科事典(旧版)内の髪結の言及

【化粧】より

…また化粧した美人の魅力や化粧品,化粧道具などについては浮世絵が,化粧品の作り方や化粧法などについては《都風俗化粧伝》や《容顔美艶考》などが,当時のマス・コミュニケーションの役割を果たしていた。しかし実際に化粧の流行を教え広めたのは女髪結で,1795年(寛政7)以来たびたびの禁令にもめげず増え続け,1853年(嘉永6)には江戸市中1400余人に達していた。1982年末の東京の美容院数1万4767軒と対比すると,人口比にしてほぼ一致する。…

※「髪結」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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