魏志倭人伝(読み)ギシワジンデン

デジタル大辞泉 「魏志倭人伝」の意味・読み・例文・類語

ぎし‐わじんでん【魏志倭人伝】

魏志にある東夷とうい伝の倭人に関する記事の通称。3世紀前半ごろの日本の地理・風俗・社会・外交などをかなり詳細に記述している、最古のまとまった文献。

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共同通信ニュース用語解説 「魏志倭人伝」の解説

魏志倭人伝

魏志倭人伝ぎしわじんでん 中国・西晋せいしん陳寿ちんじゅ(233~297年)がまとめた歴史書三国志」の一部。当時の日本の生活様式などを伝えている。ここに記された「邪馬台国やまたいこく」の所在地をめぐり、近畿地方か九州かで解釈が分かれる。「伊都国いとこく」については、邪馬台国が諸国を監視するために「一大率いちだいそつ」を置き、中国などとの玄関口として文書を取り扱っていたことをうかがわせる記述がある。

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精選版 日本国語大辞典 「魏志倭人伝」の意味・読み・例文・類語

ぎし‐わじんでん【魏志倭人伝】

  1. 中国の正史「三国志」の「魏志(魏書)」にある「東夷伝‐倭」の条の通称。晉の陳寿撰。魚豢(ぎょけん)の「魏略」により、三世紀前半における耶馬台国などの日本の地理、風俗、社会、外交などについてまとまって記した最古のもの。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「魏志倭人伝」の意味・わかりやすい解説

魏志倭人伝(読み下し)
ぎしわじんでん

固有名詞の読みに関しては定説はないが、便宜上一般的な読みを示した。


 倭人(わじん)は帯方(たいほう)の東南大海の中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す。旧(もと)百余国。漢の時朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所三十国。

 郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓(かん)国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍は東し、其の北岸狗邪韓(くやかん)国に到(いた)る七千余里。始めて一海を度(わた)る千余里、対馬(つしま)国に至る。其の大官を卑狗(ひこ)と曰(い)ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ。居る所絶島、方四百余里可(ばか)り。土地は山険(けわ)しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(みち)の如(ごと)し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。又(また)南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰ふ。一大〔一支(いき)〕国に至る。官を亦(また)卑狗と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。方三百里可り。竹木・叢林(そうりん)多く、三千許(ばか)りの家有り。差々(やや)田地有り、田を耕せども猶(なお)食するに足らず、亦南北に市糴す。

 又一海を渡る千余里、末盧(まつろ)国に至る。四千余戸有り。山海に浜(そ)ひて居る。草木茂盛(もせい)し、行くに前人(ぜんじん)を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく)を捕へ、水深浅と無く、皆沈没して之(これ)を取る。東南陸行五百里にして、伊都(いと)国に到る。官を爾支(にき)と曰ひ、副を泄謨觚(せもこ)・柄渠觚(へくこ)と曰ふ。千余戸有り。世々(よよ)王有るも、皆女王国に統属す。郡使(ぐんし)の往来常に駐(とど)まる所なり。東南奴(な)国に至る百里。官を兕馬觚(しまこ)と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。二万余戸有り。東行不弥(ふみ)国に至る百里。官を多模(たも)と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。千余家有り。

 南、投馬(とうま)国に至る水行二十日。官を弥弥(みみ)と曰ひ、副を弥弥那利(みみなり)と曰ふ。五万余戸可り。南、邪馬壹(やまい)〔台(たい)〕国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。官に伊支馬(いきま)有り、次を弥馬升(みましょう)と曰ひ、次を弥馬獲支(みまかくき)と曰ひ、次を奴佳鞮(なかてい)と曰ふ。七万余戸可り。女王国より以北、其の戸数道里は略載す可(べ)きも、其の余の旁国(ぼうこく)は遠絶にして得て詳(つまびら)かにす可からず。

 次に斯馬(しま)国有り、次に巳百支(しおき)国有り、次に伊邪(いや)国有り、次に都支(とき)国有り、次に弥奴(みな)国有り、次に好古都(こうこと)国有り、次に不呼(ふこ)国有り、次に姐奴(そな)国有り、次に対蘇(つそ)国有り、次に蘇奴(そな)国有り、次に呼邑(こお)国有り、次に華奴蘇奴(かなそな)国有り、次に鬼(き)国有り、次に為吾(いご)国有り、次に鬼奴(きな)国有り、次に邪馬(やま)国有り、次に躬臣(くし)国有り、次に巴利(はり)国有り、次に支惟(きい)国有り、次に烏奴(うな)国有り、次に奴(な)国有り。此(こ)れ女王の境界の尽くる所なり。

 其の南に狗奴(くな)国有り、男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗(くこちひこ)有り。女王に属せず。郡より女王国に至る萬二千余里。

 男子は大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん)す。古(いにしえ)より以来、其の使、中国に詣(いた)るや、皆自ら大夫(たいふ)と称す。夏后(かこう)の小康(しょうこう)の子、会稽(かいけい)に封ぜられ、断髪文身(だんぱつぶんしん)、以(もっ)て蛟竜(こうりゅう)の害を避く。今、倭の水人(すいじん)、好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕へ、文身し亦以て大魚・水禽(すいきん)を厭(はら)ふ。後(のち)稍(やや)以て飾(かざり)と為す。諸国の文身各々異り、或(あるい)は左に、或は右に、或は大に、或は小に、尊卑差有り。其の道里を計るに、当(まさ)に会稽の東冶(とうや)の東に在るべし。

 其の風俗淫(いん)ならず。男子は皆露紒(ろかい)し、木緜(もくめん)を以て頭に招(か)け、其の衣は横幅(おうふく)、但々(ただ)結束して相連ね、略々(ほぼ)縫ふこと無し。婦人は被髪屈紒(ひはつくっかい)し、衣を作ること単被(たんぴ)の如く、其の中央を穿(うが)ち、頭を貫きて之を衣(き)る。禾稲(かとう)・紵麻(ちょま)を種(う)え、蚕桑緝績(さんそうしゅうせき)し、細紵(さいちょ)・縑緜(けんめん)を出(い)だす。其の地には牛・馬・虎(とら)・豹(ひょう)・羊・鵲(かささぎ)無し。兵には矛(ほこ)・楯(たて)・木弓を用ふ。木弓は下を短く上を長くし、竹箭(ちくせん)は或は鉄鏃(てつぞく)、或は骨鏃なり。有無(うむ)する所、儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)と同じ。

 倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。皆徒跣(とせん)。屋室有り、父母兄弟、臥息(がそく)処(ところ)を異にす。朱丹(しゅたん)を以て其の身体に塗る、中国の粉(ふん)を用ふるが如きなり。食飲には籩豆(へんとう)を用ひ手食す。其の死には棺(かん)有るも槨(かく)無く、土を封じて冢(ちょう)を作る。始め死するや停喪(ていそう)十余日、時に当りて肉を食はず、喪主(そうしゅ)哭泣(こくきゅう)し、他人就て歌舞飲酒す。已(すで)に葬(ほうむ)れば、挙家(きょか)水中に詣(いた)りて澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく)の如くす。其の行来・渡海、中国に詣るには、恒(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蟣蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚(こうお)、肉を食さず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。之を名づけて持衰(じさい)と為す。若(も)し行く者吉善(きちぜん)なれば、共に其の生口(せいこう)・財物を顧(こ)し、若し疾病有り、暴害に遭へば、便(すなわ)ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹(つつし)まずと謂(い)へばなり。

 真珠・青玉を出だす。其の山には丹有り。其の木には(だん)・杼(ちょ)・予樟(よしょう)・楺(じゅう)・櫪(れき)・投(とう)・橿(きょう)・烏号(うごう)・楓香(ふうこう)有り。其の竹には篠(しょう)・簳(かん)・桃支(とうし)。薑(きょう)・橘(きつ)・椒(しょう)・蘘荷(じょうか)有るも、以て滋味と為すを知らず。獮猿(せんえん)・黒雉(こくち)有り。

 其の俗、挙事行来に、云為(うんい)する所有れば、輒(すなわ)ち骨を灼(や)きて卜(ぼく)し、以て吉凶を占ひ、先づ卜する所を告ぐ。其の辞(じ)は令亀(れいき)の法の如く、火坼(かたく)を視(み)て兆を占ふ。

 其の会同・坐起(ざき)には、父子男女別無し。人性酒を嗜(たしな)む。大人(たいじん)の敬(けい)する所を見れば、但々(ただ)手を搏(う)ち以て跪拝(きはい)に当つ。其の人寿考(じゅこう)、或は百年、或は八・九十年。其の俗、国の大人は皆四・五婦、下戸(げこ)も或は二・三婦。婦人淫(いん)せず、妬忌(とき)せず、盗竊(とうせつ)せず、諍訟(そうしょう)少なし。其の法を犯すや、軽き者は其の妻子を没し、重き者は其の門戸(もんこ)及び宗族(そうぞく)を滅す。尊卑各々差序有り、相臣服(あいしんぷく)するに足る。租賦(そふ)を収む、邸閣(ていかく)有り、国国市有り。有無を交易し、大倭(たいわ)をして之を監(かん)せしむ。

 女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都国に治(ち)す。国中に於(お)いて刺史(しし)の如き有り。王、使を遣して京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及び郡の倭国に使するや、皆津(つ)に臨(のぞ)みて捜露(そうろ)し、文書・賜遺(しい)の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯(ささく)するを得ず。

 下戸、大人と道路に相逢(あいあ)へば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入り、辞を伝へ事を説くには、或は蹲(うずくま)り或は跪(ひざまず)き、両手は地に拠(よ)り、之が恭敬(きょうけい)を為す。対応の声を噫(ああ)と曰ふ、比するに然諾(ぜんだく)の如し。

 其の国、本亦男子を以て王と為し、住(とど)まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼(ひみこ)と曰ふ。鬼道(きどう)に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑はす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者の少く、婢(ひ)千人を以て自ら侍(じ)せしむ。唯(ただ)、男子一人有り、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳(おごそ)かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。

 女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、人の長(たけ)三・四尺、女王を去る四千余里。又裸(ら)国・黒歯(こくし)国有り、復た其の東南に在り。船行一年にして至る可し。倭の地を参問(さんもん)するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在し、或は絶へ或は連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可りなり。

 景初(けいしょ)二年六月、倭の女王、大夫難升米(なんしょうまい)等を遣して郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏(りゅうか)、吏(り)を遣し、将(も)って送りて京都(けいと)に詣らしむ。

 其の年十二月、詔書(しょうしょ)して倭の女王に報じて曰く、親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼に制詔(せいしょう)す。帯方の太守劉夏、使を遣し汝の大夫難升米・次使都市牛利(としぎゅうり)を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・斑布(はんぷ)二匹二丈を奉り以て到る。汝が在る所踰(はる)かに遠きも、乃ち使を遣して貢献す。是れ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬(しじゅ)を仮(か)し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、其れ種人(しゅじん)を綏撫(すいぶ)し、勉(つと)めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉(わた)り、道路に勤労す。今、難升米を以て率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)と為し、牛利を率善校尉(こうい)と為し、銀印青綬(せいじゅ)を仮し、引見労賜(いんけんろうし)し遣し還す。今、絳地交竜錦(こうじこうりゅうきん)五匹・絳地縐粟罽(しゅうぞくけい)十張・蒨絳(せんこう)五十匹・紺青(こんしょう)五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直(こうちょく)に答ふ。又特に汝に紺地句文錦(こんじくもんきん)三匹・細班華罽(さいはんかけい)五張・白絹(はくけん)五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹(えんたん)各々五十斤を賜ひ、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受(ろくじゅ)し、悉(ことごと)く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し。故に鄭重(ていちょう)に汝に好物を賜ふなりと。

 正始(せいし)元年、太守弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉梯儁(けんちゅうこういていしゅん)等を遣し、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣(いた)り、倭王に拝仮(はいか)し、并(なら)びに詔を齎(もたら)し、金帛(きんぱく)・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物(さいもつ)を賜ふ。倭王、使に因て上表し、詔恩を答謝す。

 其の四年、倭王、復(ま)た使大夫伊声耆(いせいき)・掖邪狗(えきやく)等八人を遣し生口・倭錦(わきん)・絳青縑(こうせいけん)・緜衣(めんい)・帛布(はくふ)・丹・木(ぼくふ)・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝(いつはい)す。

 其の六年、詔して倭の難升米に黄幢(こうどう)を賜ひ、郡に付して仮授せしむ。

 其の八年、太守王頎(おうき)官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみきゅうこ)と素(もと)より和せず。倭の載斯烏越(さしうえつ)等を遣して郡に詣(いた)り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政(さいそうえんしちょうせい)等を遣し、因て詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄(げき)を為(つく)りて之を告喩(こくゆ)す。

 卑弥呼以て死す、大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺(あいちゅうさつ)し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女(そうじょ)壹与(いよ)年十三なるを立てて王と為し、国中遂(つい)に定まる。政等、檄(げき)を以て壹与に告喩す。壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣し、政等の還るを送らしむ。因て台に詣(いた)り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠(せいだいくしゅ)二枚、異文雑錦(いもんざっきん)二十匹を貢す。

[訳・佐伯有清


魏志倭人伝
ぎしわじんでん

中国の史書『三国志』の「魏書東夷伝(とういでん)」の倭人の条の俗称で、撰者(せんじゃ)は晋(しん)の陳寿(ちんじゅ)。3世紀の後半に成立。本書に書かれている倭の記事は、2~3世紀の時代に相当し、本書の成立の時代と接近しており、かなりの史実がみられると考えられるので、当時の日本および日本人の生活ぶりを知るのに重要な史料として位置づけられている。

 本書には、朝鮮の帯方(たいほう)郡より倭の諸国に至る道程、地理的景観、風俗、物産、政治、社会などのようすが比較的詳細に書き留められている。またよく知られている邪馬台国(やまたいこく)やその国の女王卑弥呼(ひみこ)のことが、つぶさに記述されており、卑弥呼が「共立」されて王となったなど、当時の王のあり方を知るのに、またとない情報を提供してくれている。さらに邪馬台国の帯方郡や魏との交渉の次第や、狗奴(くな)国との戦いのようすも記されており、魏の皇帝の詔書に金印紫綬(しじゅ)を仮授させたこと、銅鏡100枚などを賜ったことなどに触れてあるのは、史料的にも見すごせない箇所となっている。末尾には、卑弥呼の死と、その後の倭国の混乱、そして卑弥呼の宗女壹与(いよ)の即位、さらに魏との通交のことが述べられている。

[佐伯有清]

『和田清・石原道博編・訳『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫)』

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百科事典マイペディア 「魏志倭人伝」の意味・わかりやすい解説

魏志倭人伝【ぎしわじんでん】

3世紀末,西晋の陳寿が編纂(へんさん)した中国の史書《三国志》のうち,魏に関する部分を《魏志(魏書)》と呼び,その〈東夷伝〉中にみえる倭人の条を魏志倭人伝と通称する。日本に関する最古の中国側文献として史料的価値がきわめて高い。当時の日本(倭)には邪馬台(やまたい)国という国があって女王卑弥呼(ひみこ)が治め,30ばかりの国を従えて威をふるっていたことや,倭国の政治・外交・社会秩序・風俗・習慣・産物等が約2000字にわたって記されている。
→関連項目伊都国絹織物狗奴国狗邪韓国投馬国東夷奴国原ノ辻遺跡平原遺跡倭人

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「魏志倭人伝」の意味・わかりやすい解説

魏志倭人伝
ぎしわじんでん

日本古代に関する中国の正史の一つで,晋の陳寿が撰した『三国志』のなかの『魏志』 30巻,東夷伝にある倭人の条の通称。中国の歴史書のなかで日本に言及しているのは,後漢の班固の撰した『漢書』 (120巻) のなかの地理志が最古であるが,『魏志倭人伝』はこれに次ぐものである。倭人伝の条は,『漢書』の地理志と,陳寿と同時代の魚豢による『魏略』 (現在散逸し,逸文がところどころに引かれている) その他当時存在していた資料を集綴したものである。このあと,『魏志倭人伝』に類するものとして宋 (南北朝) の范曄が撰した『後漢書』の東夷伝がある。『魏志倭人伝』の最大の問題点は,女王卑弥呼 (ひみこ。ひめこ) の邪馬台国の所在についてである。漢は朝鮮半島京城付近一帯に楽浪郡中の帯方県をおいて治めたが,後漢の末 (3世紀初め) ,郡に昇格させ,韓民族や倭人に対する中国の門戸とし,魏もこれにならった。この帯方郡から邪馬台国までを一万二千余里としたのが『魏志倭人伝』の記事である。途中,狗邪韓国,対馬国,一支国 (壱岐) ,末盧国 (松浦) ,伊都国 (怡土) ,不弥国,奴国,狗奴国,投馬国などについて触れ,それぞれ距離と方向も示している。江戸時代以来,この記事をめぐり,邪馬台国が北九州であるか畿内大和 (奈良県) であるか,学者の間で議論が分れる。当時の里程と方位が,どの程度今日の地図上におきうるかという点も問題であるが,邪馬台国について詳細に記し,さらに小国家分立の様子や風俗習慣にまで言及しており,大和朝廷との関係で無視することができない。なお『日本書紀』の編纂者は,この倭人伝を参照したと考えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「魏志倭人伝」の意味・わかりやすい解説

魏志倭人伝 (ぎしわじんでん)

3世紀の邪馬台国,および2~3世紀の倭人の風習などが記されている中国の文献。《三国志》魏書東夷伝の中の一部を通称したもの。著者は西晋の陳寿(233-297)で,その成立は3世紀後半。陳寿とほぼ同時代の魚豢の撰になる《魏略》の記述を受けつぎ,邪馬台国の存在していた時代とは,それほど隔りのない時期に書かれたものであるから,その史料的価値は高い。倭人伝は,倭国の地理的位置づけから書きはじめられ,帯方郡より邪馬台国への道程,倭にあった諸小国の名称,倭人の生活風俗などが,かなり詳細に記述されている。なかでも女王の卑弥呼が共立によって王となったありさま,邪馬台国の政治のあり方,卑弥呼の王としての姿が活写されており,また239年(魏の景初3)から247年(正始8)までの魏との通交のことが克明に書きとめられている。邪馬台国までの日程,距離の記述の解釈には難解さがあって,同国の所在をめぐる〈邪馬台国論争〉は未解決。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「魏志倭人伝」の解説

魏志倭人伝
ぎしわじんでん

陳寿(ちんじゅ)撰の「三国志」の一書「魏書」の東夷伝の倭人(わじん)条のこと。「魏志倭人伝」は通称。成立は3世紀後半で,宋の范曄(はんよう)撰「後漢書」より1世紀以上早く,史料価値は高い。内容は,邪馬台国(やまたいこく)を中心とする3世紀の倭人社会に関するもので,まず,帯方郡から邪馬台国までの道程と途中の国名を記す。その記述に距離と方角の点で矛盾があるため,江戸時代から邪馬台国の比定地をめぐって,畿内説と北九州説が対立している。続いて,倭人の風俗,女王卑弥呼(ひみこ)の鬼道や男弟の存在など邪馬台国のようす,さらに魏と邪馬台国の交流を記している。とくに卑弥呼を親魏倭王としたとあるのは,周辺民族としてはきわめて異例なものとして注目されている。「岩波文庫」所収。

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旺文社日本史事典 三訂版 「魏志倭人伝」の解説

魏志倭人伝
ぎしわじんでん

中国の正史『三国志』のうち,『魏書』巻30の中にある一伝
3世紀末,晋の陳寿 (ちんじゆ) の撰。特に一伝をなすのではなく,「東夷伝」中に倭人の記録があり,通称これを「倭人伝」と呼ぶ。3世紀の日本を記した重要な史料で,帯方郡からの道程,倭国の地理・風俗・産物・政治・社会や邪馬台国 (やまたいこく) 女王卑弥呼 (ひみこ) ,帯方郡・魏との通交を記す。記録には誇張や誤記がある。

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旺文社世界史事典 三訂版 「魏志倭人伝」の解説

魏志倭人伝
ぎしわじんでん

3世紀後半晋の陳寿 (ちんじゆ) が書いた『三国志』中の「魏志」東夷伝倭人 (とういでんわじん) 条の俗称
内容の大半は魚豢 (ぎよけん) の『魏略』による。耶馬台国の女王卑弥呼のことや,3世紀の日本の状況を詳細に記録し,日本古代史研究の重要史料。

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防府市歴史用語集 「魏志倭人伝」の解説

魏志倭人伝

3世紀に西晋[せいしん]の陳寿[ちんじゅ]が作った歴史書『三国志[さんごくし]』の一部です。魏志倭人伝というのは通称で、正式には『魏書東夷伝倭人条[ぎしょとういでんわじんのじょう]』と言います。弥生時代の日本や卑弥呼[ひみこ]のことが書かれています。

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とっさの日本語便利帳 「魏志倭人伝」の解説

魏志倭人伝

「魏志」の末尾に「烏丸鮮卑東夷伝」が置かれていて、そのまた最後の「倭人条」のこと。ここに当時の邪馬台国や倭の国々、倭人のくらしの様子、女王卑弥呼による朝献のことが記されている。

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世界大百科事典(旧版)内の魏志倭人伝の言及

【邪馬台国】より

…その所在地は,北部九州とも畿内大和ともいわれている。《魏志倭人伝》の版本に〈邪馬壹国〉とあるので,〈邪馬壱(壹)国(やまいちこく)〉とするのが正しいとする説があるが,中国の古い諸書に引用された《魏志》には〈邪馬臺(台)国〉とあるので,〈邪馬壱国〉説は疑わしい。《魏志倭人伝》によると,邪馬台国は,女王の都する所で,官に伊支馬(いきま),弥馬升(みましよう),弥馬獲支(みまかくき),奴佳鞮(ぬかてい)の四つがあり,7万余戸の人口があったという。…

※「魏志倭人伝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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