江戸時代,鷹場の維持・管理を担当した役人,職制。幕府の職制としての成立はいつごろか不明であるが,職名は家康の時期からみられる。1643年(寛永20)9月,10名の任命をもって制度的な確立とされる。元禄期(1688-1704)になると,生類憐みの令の政策に関連して人員が削減され,96年10月には廃職となった。1716年(享保1)8月放鷹(ほうよう)(鷹狩)制の復活とともに8名が任ぜられたのをはじめとしてつぎつぎと任命され,18年江戸近郊鷹場の6筋再編により,各筋3~8名が配置された。定員は組頭2~3名,鳥見20~30名で,250石以下の小身旗本が多く任ぜられた。若年寄支配下で,おもな職務内容は,(1)鷹場の整備・管理,(2)治安維持,(3)農間余業・在方商業の把握・統制,(4)興業等諸行事の統制,(5)法令の伝達,などであったが,これらの職務を個別領主支配の限界をこえて行った点が注目されている。1866年(慶応2)鷹場制度の廃止の中で廃職となった。
執筆者:大石 学
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸幕府や諸藩でみられる職名。鷹場(たかば)で鷹狩の獲物となる鳥類の生息にかかわる幅広い職務を担い、そのための取り締まりにあたった。江戸幕府の場合、当初老中の支配であったが、のち若年寄の支配に属し、鳥見組頭の下に置かれた。享保期(1716~1736)に、幕府鷹場のうち御拳場(おこぶしば)が葛西(かさい)・岩淵・戸田・中野・品川(のち目黒)・六郷(のち品川)の6筋に分けられると、それぞれの筋に設置された鳥見役宅に常駐し(これを在宅鳥見という)、また数人ずつが筋ごとに担当として配置された(これを筋掛鳥見という)。御拳場での鳥類の生息状況を把握し、鷹場の維持管理につとめ、鷹場法度(たかばはっと)に違反した者を摘発した。これに関連して、鷹場内の建物の新築・建て替えの見分・許可、農間余業・飼犬・田舟の調査、祭礼や興行の許可などに携わり、将軍の鷹狩の際にも同行した。享保年間の役高は80俵、寛政年間(1789~1801)には鳥見役宅勤務5年以上の者は、御目見(おめみえ)以上の格式が与えられ、100俵となった。1866年(慶応2)廃止。
[根崎光男]
『村上直・根崎光男著『鷹場史料の読み方・調べ方』(1985・雄山閣出版)』▽『根崎光男著『将軍の鷹狩り』(1999・同成社)』▽『根崎光男著『江戸幕府放鷹制度の研究』(2008・吉川弘文館)』
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