幕末・明治期の考証家、文化官僚。1829年(文政12)上野国(こうずけのくに)山田郡(やまだぐん)桐生(きりゅう)町の機業家、金子家に生れる。幼名嘉吉(かきち)。荻斎(てきさい)と号し、寛長、真頼を名乗る。1841年(天保12)江戸の考証家黒川春村(はるむら)に入門。1866年(慶応2)春村に請われて家名を継ぎ、江戸日本橋小網(こあみ)町に移住、門弟の指導にあたる。明治維新後は文部省(のち内務省、農商務省)博物局に登用。正倉院の宝物調査や『語彙(ごい)』『古事類苑(こじるいえん)』の編纂(へんさん)に参加。東京美術学校や皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)で講義も行う。五円札の下絵として菅原道真(みちざね)の肖像画を作成するなど、古代に関する視覚的表象を多数生産。18世紀末に成立した考証学的な知を近代に継承し、再編成していった人物の一人である。1906年(明治39)没。
[表 智之]
『甲斐知惠子・石田淑子著「黒川真頼」(昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書8』所収・1958)』▽『佐多芳彦著「黒川真頼の「有識故実学」」(『古代文化54-7』所収・2002)』▽『中澤伸弘・宮崎和廣編・解説『好古研究資料集成7~9』(2011・クレス出版)』
(久保田啓一)
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…さらに,産業遺跡や産業遺物の保存事業が進み,産業考古学という新しい分野も生まれた。 日本の技術については,江戸時代には工芸品鑑定のための様式史や名工史が主であったが,明治以後,黒川真頼(まより)の技術史関係文献によるまとめ(《工芸志料》1878)をはじめとして,経済史家(横井時冬など),人類学者(西村真次など),考古学者(小林行雄など)による研究のほか,三枝博音が技術思想を含めて伝統技術,欧米技術の受容など広く歴史的に取り扱って日本技術史研究を定着させた。日本では従来,技術史料は廃棄される傾向が強かったが,最近は各地に民俗資料館や企業博物館が相ついで誕生して,産業技術資料が保存されるようになり,また工学系の各学会も,技術史に強い関心をもって積極的に取り組むようになってきている。…
…同伽藍が日本最古の建造物であることから,建築史,美術史,日本史,考古学の諸家によって19世紀末から半世紀にわたって論争された。すでに早く1899年黒川真頼(まより)(1829‐1906)と小杉榲邨(すぎむら)(1834‐1910)が《日本書紀》天智9年(670)4月条の法隆寺全焼の記事によって,創建法隆寺は同年に焼亡し,現在の西院伽藍は和銅年間(708‐715)に再建したものという説を唱えたが,1905年関野貞(ただす)(1867‐1935)と平子鐸嶺(たくれい)(1877‐1911)が非再建説,喜田貞吉(1871‐1939)が再建説をそれぞれ主張して第1次論争が行われた。非再建説は飛鳥,白鳳,天平と変遷する建築様式論に基礎をおくが,特に西院伽藍建造の使用尺度が大化以前の高麗(こま)尺であるという関野の尺度論が重要な論拠となった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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