黒川真頼(読み)クロカワマヨリ

デジタル大辞泉 「黒川真頼」の意味・読み・例文・類語

くろかわ‐まより〔くろかは‐〕【黒川真頼】

[1829~1906]幕末明治時代国学者上野こうずけの人。本姓は金子。号、荻斎てきさい黒川春村門人で、師の没後に姓を継ぎ、家学を継承した。また「古事類苑」の編纂へんさん従事

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精選版 日本国語大辞典 「黒川真頼」の意味・読み・例文・類語

くろかわ‐まより【黒川真頼】

江戸末期から明治初期の国学者。文博。本姓金子。号荻斎。桐生群馬県)の人。黒川春村に学び、養子となって家名を継ぎ、維新後、東京帝国大学教授。美術史、風俗史に通じ、「古事類苑」の編纂に従事。「日本古典大意」「考古画譜」などの著作がある。文政一二~明治三九年(一八二九‐一九〇六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒川真頼」の意味・わかりやすい解説

黒川真頼
くろかわまより
(1829―1906)

幕末・明治期の考証家、文化官僚。1829年(文政12)上野国(こうずけのくに)山田郡(やまだぐん)桐生(きりゅう)町の機業家、金子家に生れる。幼名嘉吉(かきち)。荻斎(てきさい)と号し、寛長、真頼を名乗る。1841年(天保12)江戸の考証家黒川春村(はるむら)に入門。1866年(慶応2)春村に請われて家名を継ぎ、江戸日本橋小網(こあみ)町に移住、門弟の指導にあたる。明治維新後は文部省(のち内務省農商務省)博物局に登用。正倉院の宝物調査や『語彙(ごい)』『古事類苑(こじるいえん)』の編纂(へんさん)に参加。東京美術学校や皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)で講義も行う。五円札の下絵として菅原道真(みちざね)の肖像画を作成するなど、古代に関する視覚的表象を多数生産。18世紀末に成立した考証学的な知を近代に継承し、再編成していった人物の一人である。1906年(明治39)没。

[表 智之]

『甲斐知惠子・石田淑子著「黒川真頼」(昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書8』所収・1958)』『佐多芳彦著「黒川真頼の「有識故実学」」(『古代文化54-7』所収・2002)』『中澤伸弘・宮崎和廣編・解説『好古研究資料集成7~9』(2011・クレス出版)』

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朝日日本歴史人物事典 「黒川真頼」の解説

黒川真頼

没年:明治39.8.29(1906)
生年:文政12.11.12(1829.12.7)
江戸末期から明治にかけての国学者。幼名嘉吉,名寛長,真頼,号荻斎。上野国山田郡桐生(群馬県桐生市)生まれ。父金子吉右衛門,母るい。13歳で黒川春村に入門,『三代集拾玉抄』『新勅撰集愚考』を著して春村に高く評価された。春村の遺言により養子となって黒川家の学統を継承,維新後は文部省,元老院,内務省,農商務省の文官として活躍,帝国大学文科大学でも教鞭をとり,博物館行政にも重要な働きを示した。典籍,史料についての該博な知識に基づく著述に富んでおり,主なものは『黒川真頼全集』(全6巻)に収録される。

(久保田啓一)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黒川真頼」の意味・わかりやすい解説

黒川真頼
くろかわまより

[生]文政12(1829).11.12. 桐生
[没]1906.8.29. 東京
江戸時代末期から明治にかけての国学者。文学博士。幼名は嘉吉,初名は寛長。号は荻斎。もと金子氏。黒川春村の養子となって家学を継承。維新後,大学,文部省,さらに元老院,内務省博物局に勤め,1881年東京学士会院会員,東京美術学校教授となり,東京音楽学校教授を兼ねた。 93年には東京大学教授。早くから古典の研究に努め,古代制度,古文化財の調査研究,古書,古美術品の保存に尽した。『国史案』『国史要略』など多数の著書と,『黒川真頼全集』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「黒川真頼」の解説

黒川真頼 くろかわ-まより

1829-1906 幕末-明治時代の国学者。
文政12年11月12日生まれ。黒川春村(はるむら)にまなび,養子となる。文部省,内務省などにつとめ,明治26年帝国大学教授。日本史,国文学,美術などの実証的研究で知られ,「古事類苑(るいえん)」の編集にも従事した。明治39年8月29日死去。78歳。上野(こうずけ)(群馬県)出身。本姓は金子。名は別に寛長。号は荻斎,万里。著作に「万葉集本義」「倭名類聚鈔一覧」など。

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世界大百科事典(旧版)内の黒川真頼の言及

【技術史】より

…さらに,産業遺跡や産業遺物の保存事業が進み,産業考古学という新しい分野も生まれた。 日本の技術については,江戸時代には工芸品鑑定のための様式史や名工史が主であったが,明治以後,黒川真頼(まより)の技術史関係文献によるまとめ(《工芸志料》1878)をはじめとして,経済史家(横井時冬など),人類学者(西村真次など),考古学者(小林行雄など)による研究のほか,三枝博音が技術思想を含めて伝統技術,欧米技術の受容など広く歴史的に取り扱って日本技術史研究を定着させた。日本では従来,技術史料は廃棄される傾向が強かったが,最近は各地に民俗資料館や企業博物館が相ついで誕生して,産業技術資料が保存されるようになり,また工学系の各学会も,技術史に強い関心をもって積極的に取り組むようになってきている。…

【法隆寺再建非再建論争】より

…同伽藍が日本最古の建造物であることから,建築史,美術史,日本史,考古学の諸家によって19世紀末から半世紀にわたって論争された。すでに早く1899年黒川真頼(まより)(1829‐1906)と小杉榲邨(すぎむら)(1834‐1910)が《日本書紀》天智9年(670)4月条の法隆寺全焼の記事によって,創建法隆寺は同年に焼亡し,現在の西院伽藍は和銅年間(708‐715)に再建したものという説を唱えたが,1905年関野貞(ただす)(1867‐1935)と平子鐸嶺(たくれい)(1877‐1911)が非再建説,喜田貞吉(1871‐1939)が再建説をそれぞれ主張して第1次論争が行われた。非再建説は飛鳥,白鳳,天平と変遷する建築様式論に基礎をおくが,特に西院伽藍建造の使用尺度が大化以前の高麗(こま)尺であるという関野の尺度論が重要な論拠となった。…

※「黒川真頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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