竹本 津太夫(4代目)(読み)タケモト ツダユウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「竹本 津太夫(4代目)」の解説

竹本 津太夫(4代目)
タケモト ツダユウ


職業
義太夫節太夫(文楽)

専門
人形浄瑠璃

肩書
文楽協会技芸員 重要無形文化財保持者(人形浄瑠璃文楽・太夫)〔昭和48年〕

本名
村上 多津二(ムラカミ タツジ)

別名
前名=竹本 津の子太夫,竹本 浜太夫(5代目)

生年月日
大正5年 5月14日

出生地
大阪府 大阪市

経歴
大正13年父・3代目竹本津太夫に師事し、津の子太夫と名乗る。昭和7年初舞台。12〜15年応召。16年5代目竹本浜太夫を襲名。同年〜17年再召集。18年2代目豊竹古靱太夫(豊竹山城少掾)の門下となる。25年4代目竹本津太夫襲名。6代目鶴沢寛治と相三味線をくみ、37年切場語りとなる。48年人間国宝に認定される。56年春から相三味線に竹沢団七が決まる。時代物を得意とし、豪快な語り口に定評があった。代表曲に「御所桜堀川夜討・弁慶上使の段」「ひらかな盛衰記・松右衛門内・逆櫓の段」「一谷嫩軍記熊谷陣屋の段」「花上野誉碑・志渡津の段」「妹背山婦女庭訓・入鹿御殿の段」「伊賀越道中双六沼津の段」「摂州合邦辻・合邦住家の段」など。芸談に「文楽三代―竹本津太夫聞書」「四世津太夫芸話」がある。

受賞
紫綬褒章〔昭和51年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和61年〕 芸術祭賞(奨励賞)〔昭和38年〕,名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔昭和43年〕,大阪文化祭賞(金賞)〔昭和46年〕,上方芸能人顕彰〔昭和54年〕,大阪芸術賞〔昭和56年〕,芸能功労者表彰〔昭和62年〕,国立劇場文楽賞(特別賞 昭62年度)〔昭和63年〕

没年月日
昭和62年 9月29日 (1987年)

家族
父=竹本 津太夫(3代目),長男=竹本 緑太夫

親族
岳父=鶴沢 寛治(6代目)

伝記
文楽 二十世紀後期の輝き―劇評と文楽考人の情けの盃を文楽の音楽〈第2部〉 文楽浄瑠璃 陣屋・鮓屋 内山 美樹子 著山川 静夫 著竹本 津大夫,津大夫を囲む研究会 著(発行元 早稲田大学出版部淡交社白水社 ’10’86’86発行)


竹本 津太夫(3代目)
タケモト ツダユウ


職業
義太夫節太夫(文楽)

本名
村上 卯之吉

別名
前名=竹本 浜子太夫,竹本 文太夫,竹本 浜太夫(4代目)

生年月日
明治2年 12月10日

出生地
福岡県

経歴
幼時から義太夫節を習う。明治14年大阪に出て3代目浜太夫の門に入り、浜子太夫を名乗る。その後2代目津太夫に師事して文太夫。43年に4代目浜太夫から3代目津太夫を襲名した。大正13年に文楽座の第9世櫓下になり「熊谷陣屋」でお披露目。美声ではなかったが、豪快な語り口で名人といわれ、豊竹古靱太夫(後の山城少掾)と並び称された。息子村上多津二が4代目を継ぎ人間国宝に。

没年月日
昭和16年 5月7日 (1941年)

家族
息子=竹本 津太夫(4代目),孫=竹本 緑太夫


竹本 津太夫(2代目)
タケモト ツダユウ


職業
義太夫節太夫(文楽)

本名
桜井 源助

別名
通称=法善寺,前名=竹本 緑太夫,後名=竹本 綱太夫(7代目)(タケモト ツナタユウ)

生年月日
天保10年

出身地
京都

経歴
安政3年初舞台。元治元年2代目竹本津太夫を襲名。“法善寺の津太夫”と呼ばれた。地味な渋い芸風で「沼津」「質店」「酒屋」などを得意芸とした。明治43年引退し、7代目綱太夫と名乗る。

没年月日
明治45年 7月23日 (1912年)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹本 津太夫(4代目)」の意味・わかりやすい解説

竹本津太夫
たけもとつだゆう

義太夫(ぎだゆう)節の大夫。

[倉田喜弘]

初世

(1792―1855)津の国屋を屋号とする2世竹本綱太夫(つなたゆう)は、その一字を京都の弟子桜川源助に贈り、津太夫と名のらせたが、のち廃業。別に3世竹本梶太夫(かじだゆう)から5世竹本染太夫を経て、1848年(嘉永1)竹本越前大掾(えちぜんのだいじょう)を受領(ずりょう)した津太夫の芸系もある。

[倉田喜弘]

2世

(1839―1912)初世の孫。1864年(元治1)に京都道場(どうじょう)の芝居へ出演したのち、大坂へ下って『日吉丸稚桜』(ひよしまるわかきのさくら)三段目で好評を得る。75年(明治8)以降は文楽(ぶんらく)座へ出て、小音ながら情味のある浄瑠璃(じょうるり)を語り、2世竹本越路太夫(こしじだゆう)(後の竹本摂津大掾(せっつのだいじょう))に次ぐ地位を占めた。通称は法善寺の津太夫。

[倉田喜弘]

3世

(1869―1941)2世の門弟で文太夫(ぶんだゆう)といい、1910年(明治43)、2世津太夫が引退して7世綱太夫襲名と同時に文太夫が3世を名のった。この3世は24年(大正13)から文楽座の櫓下(やぐらした)になり、豪快な語り口は「力の芸術」とたたえられた。

[倉田喜弘]

4世

(1916―87)3世の子。本名村上多津二。父および豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)に師事し、1950年(昭和25)に4世津大夫を襲名。73年重要無形文化財保持者に認定される。

[倉田喜弘]

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改訂新版 世界大百科事典 「竹本 津太夫(4代目)」の意味・わかりやすい解説

竹本津太夫 (たけもとつだゆう)

義太夫節の太夫。(1)初世(1792-1855・寛政4-安政2) 4世竹本染太夫門弟。津太夫,梶太夫を経て,1825年(文政8)5世染太夫を襲名。48年(嘉永1)竹本越前大掾となる。(2)2世(1839-1912・天保10-大正1) 本名桜井源助。通称法善寺。京都出身。竹本幡竜軒の子で竹本山四郎(山城掾)に入門,緑太夫から1864年(元治1)に京都道場の芝居で2世襲名,76年(明治9)から大阪松島文楽座に出勤,華麗な櫓下(やぐらした)の2世越路太夫(竹本摂津大掾)に対して地味な渋い芸風で世話物にすぐれ通人に喜ばれた。門下に3世津太夫,2世古靱(こうつぼ)太夫(豊竹山城少掾)がいる。(3)3世(1869-1941・明治2-昭和16) 本名村上卯之吉。福岡県出身。幼時より稽古,1881年2世に入門,84年浜子太夫の名で文楽座初出勤,88年文太夫,1909年4世浜太夫を経て,翌年3世襲名。24年3世越路太夫のあとを受けて文楽座櫓下となる。悪声だが腹の強い豪快な芸で,美声で知られた6世竹本土佐太夫(1863-1941),2世古靱太夫とともに,いわゆる三巨頭時代を築いた。(4)4世(1916-87・大正5-昭和62) 本名村上多津二。3世の子。1932年津の子太夫で初舞台,41年5世浜太夫を経て,50年4世襲名。重要無形文化財保持者。
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20世紀日本人名事典 「竹本 津太夫(4代目)」の解説

竹本 津太夫(3代目)
タケモト ツダユウ

明治・大正期の義太夫節太夫(文楽)



生年
明治2年12月10日(1870年)

没年
昭和16(1941)年5月7日

出生地
福岡県

本名
村上 卯之吉

別名
前名=竹本 浜子太夫,竹本 文太夫,竹本 浜太夫(4代目)

経歴
幼時から義太夫節を習う。明治14年大阪に出て3代目浜太夫の門に入り、浜子太夫を名乗る。その後2代目津太夫に師事して文太夫。43年に4代目浜太夫から3代目津太夫を襲名した。大正13年に文楽座の第9世櫓下になり「熊谷陣屋」でお披露目。美声ではなかったが、豪快な語り口で名人といわれ、豊竹古靱太夫(後の山城少掾)と並び称された。息子村上多津二が4代目を継ぎ人間国宝に。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹本 津太夫(4代目)」の解説

竹本津太夫(2代) たけもと-つだゆう

1839-1912 江戸後期-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
天保(てんぽう)10年生まれ。義太夫節。文久4年京都で2代を襲名。明治8年から大阪の文楽座に出演し,竹本摂津大掾(せっつのだいじょう)につぐ地位をしめる。世話物を得意とし,引退後7代竹本綱太夫を襲名。明治45年7月23日死去。74歳。京都出身。本名は桜井源助。通称は法善寺の津太夫。

竹本津太夫(3代) たけもと-つだゆう

1870*-1941 明治-昭和時代前期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治2年12月10日生まれ。義太夫節。2代の門人。浜子太夫で文楽座初出演。文太夫,浜太夫をへて明治43年3代を襲名。大正13年文楽座の櫓下(やぐらした)となる。悪声だが豪快な語り口で人気を博した。昭和16年5月7日死去。73歳。福岡県出身。本名は村上卯之吉。

竹本津太夫(初代) たけもと-つだゆう

竹本越前大掾(たけもと-えちぜんのだいじょう)

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367日誕生日大事典 「竹本 津太夫(4代目)」の解説

竹本 津太夫(3代目) (たけもと つだゆう)

生年月日:1870年12月14日
明治時代;大正時代の義太夫節太夫
1941年没

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