日本大百科全書(ニッポニカ) 「におい」の意味・わかりやすい解説
におい
smell
odor
外界にあるさまざまな物体や液体から発せられて空中を浮遊している化学分子が、人や動物が呼吸するときに吸入され、鼻腔(びくう)に入り、嗅上皮(きゅうじょうひ)にあるニオイを感ずる特別な細胞(嗅細胞(きゅうさいぼう))の感覚受容膜に吸着されておこる感覚といえる。
感覚受容膜に吸着されて以降は、およそ次のようなプロセスをたどる。
(1)感覚受容膜に吸着された化学分子が嗅細胞を刺激すると細胞に興奮がおこり、その興奮は神経線維を通して信号(インパルス)を脳へと送り出す。
(2)脳の中を走るインパルスはいくつかの中継核を経由して大脳の前頭葉の前部、眼窩(がんか)前頭皮質の中枢(嗅覚領)に至り、そこにある細胞を興奮させてニオイとして認識される。
なお、人体生理学では一般に「ニオイ」と片仮名書きとするため、以下の文もこれに準ずることとする。
[高木貞敬]
ニオイの違い
物体や液体から発せられるニオイは、それぞれに異なっている。その違いは、分子のもつ化学構造の差違によっておこると考えられるが、よく似た構造をもっていても非常に異なったニオイをもつものもある。たとえば、構造的にはよく似ていても(立体異性体という)d型とl型の間、シス型とトランス型の間ではニオイが違っている。また、構造がまったく異なっていてもよく似たニオイをもつものもある。これを合成麝香(じゃこう)を例にして説明すると、香水や化粧品によく使われる麝香は、本来はジャコウジカの性腺(せいせん)から採取されるものであるが、きわめて高価であることから、人工的にも合成されている。こうした合成麝香にはいくつかの種類が知られ、似たニオイをもつが構造的にはまったく異なる場合が多い。
しかし、一般的には構造の類似した物質が類似したニオイをもつことも広く知られていることである。この場合には、同族列の間でニオイの強さと質についての規則的な変化が認められることもある。このように化学分子のもつ構造とニオイとの間には、部分的にはある程度の関係が認められても、全体として適用できるような明確な相関関係はみいだされていない。したがって、分子構造を基礎としたニオイの分類は現在のところ不可能となっている。
[高木貞敬]
ニオイの分類
有機化合物の数は約200万とされ、そのうちニオイをもつものは40万くらいであろうといわれている。これらの化合物はそれぞれに違ったニオイをもつとしても、その類似性によっていくつかのグループに分類できないかという試みは古くから行われてきた。
江戸初期の貝原益軒は、(1)香(こう)(こうばし)、(2)(そう)(くさし)、(3)焦(しょう)(こがれくさし)、(4)腥(せい)(つちくさし)、(5)腐(ふ)(くちくさし)の5気、あるいは、(1)香(こうばし)、(2)羶(せん)(くさし)、(3)焦(こがれくさし)、(4)腥(つちくさし)、(5)朽(きゅう)(くちくさし)の5臭に分類している。
西洋では、古代ギリシアのアリストテレスが7臭(甘い、酸っぱいなど)に分類しているし、植物分類学で著名なリンネもアリストテレスとは違った観点から7臭(芳香性のニオイ、フラグラントなニオイなど)に分類している。また、オランダの耳鼻科医ツワーデマーカーH. Zwaardemaker(1857―1930)は9臭(エーテル様、芳香など)に分類している。
とくに有名なのは、ドイツの心理学者ヘニングH. Henningの分類である。彼はニオイを(1)薬味臭、(2)花香、(3)果実香、(4)樹脂臭、(5)焦臭、(6)腐敗臭の六つに分類し、それぞれをプリズムの各頂点に置くと、あらゆるニオイは、その表面上の1点で表すことができると述べた( )。しかし、この説は明らかな欠点をもっている。図からもわかるように、プリズムは三つの側面を四角形で、上下の2面を三角形で囲まれているため、四角形の表面にあるニオイは4成分から、三角形の表面のニオイは3成分からつくられていることになる。実際のニオイのなかには5成分あるいは2成分からつくられるニオイもあるが、このプリズムでは表現できないこととなってしまう。
日本の化学者加福均三(かふくきんぞう)は、ヘニングの6臭に腥臭(生臭いニオイ)、酢臭(酸っぱいニオイ)の2臭を加えて8臭とし、これによって日本人の生活環境にあうニオイをすべて合成できると述べた。そして、その説明図では、プリズムにかえて正六方体を採用している(
)。両者の分類は今日でも意義のある研究であるといえるが、いずれもすべてのニオイを表現することはできず、不適当といわざるをえない。
なお、1978年(昭和53)、日本耳鼻咽喉(いんこう)科学会の嗅覚研究グループは、嗅覚検査用に花香など10臭を定めている。
[高木貞敬]
アムーアの研究
各国で研究されたニオイの分類は、記録に残るものだけでも20以上になるというが、近年では、分子の外形によってニオイを分類したアメリカの化学者アムーアJ. E. Amooreの研究が注目を浴びた。アムーアはイギリスのニオイの研究家モンクリーフR. W. Moncrieffによって示された「ニオイの質は分子の構造ではなく、その外形によって決定される」という考えを受け、実際に616種のニオイについて、その外形とニオイの形容語を調査した。その結果、7種のニオイが原臭である可能性をみいだし、それらの外形を記録した。そして、7種のうち、樟脳(しょうのう)臭、花香、エーテル臭、ハッカ臭、麝香の五つについては、それぞれに属するニオイ分子が共通して入り込める「受容部の凹(くぼ)み」の形を示すことができた。しかし、残る刺激臭と腐敗臭については、分子の外形的な共通点がみいだせず、前者にはプラスの電荷、後者にはマイナスの電荷が共通して存在することを認めただけであった。この説は、分子の形に基礎を置いているため、わかりやすいが、「受容部の凹み」の設定に問題があり、その後は、なんらの進展もみなかった。
アムーアは、この研究の行き詰まりから、研究方法を転じた。そして、三原色の研究が色覚異常の研究に負うところが大きかったことにヒントを得て、嗅覚障害の研究からニオイをとらえようと試みたのである。嗅覚障害のなかには、他のニオイには一般の人と同程度の嗅覚をもつのに、ある特定のニオイだけは感じないという現象があり、たとえば、シアン臭を感じない男性は20~25%、女性は5%、つまり、男性では4人ないし5人に1人、女性では20人に1人がこのニオイを感じられないことが知られている。
アムーアは、広くアンケートを求めた結果、人間が嗅覚障害となるニオイの候補として、次の8原臭を明らかにした。(1)イソ吉草(きっそう)酸(腋窩(えきか)臭)、(2)L‐ピロリン(精液臭)、(3)トリメチルアミン(魚臭)、(4)イソブチルアルデヒド(麦芽臭)、(5)5‐アンドロスト‐16‐en‐3‐オン(尿臭)、(6)ω‐ペンタデカノラクトン(麝香臭)、(7)L‐カルボン(ハッカ臭)、(8)1・8‐シネオール(樟脳臭)。アムーアは、最終的には、原臭の数は20~30まで増加することを予想していたが、現在ではこの研究も中断されている。これら8原臭の追試も含めて、将来の研究がまたれる。
嗅覚の研究がさらに進めば、人間の嗅細胞のニオイ受容膜に、これら8臭のそれぞれを受容する特別な受容部がみいだされることも考えられるし、それを構成するタンパク質やリン脂質の構造が明らかにされる可能性もある。また、ニオイ分子のもつ化学的情報が、いかにして受容細胞によって電気的情報に変換されるのかという、変換のメカニズムについてもメスが入れられることになろう。なお、嗅細胞で電気的情報に置き換えられたニオイの化学的情報が、どのような経路をたどって嗅覚の高位の中枢に伝えられるかは、カニクイザル、ニホンザルなどを使ったこれまでの研究(高木貞敬(さだゆき)らによる)で詳しく解明されている。
[高木貞敬]
ニオイの人体への影響
ニオイは、人体に対してさまざまな影響をもっているが、そのおもなものを次にあげる。
(1)精神活動への影響 香水などのよいニオイは人の気分を爽快(そうかい)にし、落ち着かせるが、悪いニオイは、人をいらいらさせて精神の統一を妨げるほか、頭重感や頭痛をおこして活動意欲を失わせる。人には慣れという現象があり、いつも悪臭が漂う環境では、それを意識しなくなって、仕事などを続けることもできるが、悪臭物質は吸気によって確実に体内に入り、血中に溶け込んで全身を循環するため、その物質によっては人の健康が害されるおそれもある。また、動物実験によって、雄ネズミの潜在的な攻撃性が、攻撃性をもつ他の雄の尿のニオイによって誘発され、逆に雌の尿のニオイによってその攻撃性が抑制されることが証明されている。このようなニオイのもつ働きは、人間の世界でも同様で、女性のニオイを絶つと男性は怒りっぽくなり、すぐにけんかを始めること、反対に男性のニオイを絶つと女性もいらいらして、精神の平衡を失うことが知られている。
(2)呼吸器と血液循環への影響 よいニオイは呼吸を深く遅くするが、悪いニオイをかぐと無意識的に呼吸が止まり、やがて呼吸は再開される。しかし、その回復はすこしずつという経過をたどる。このような呼吸型の変化は血圧の変動を伴うもので、よいニオイをかぐと血圧は下降して、過度の緊張がほぐれることとなる。
(3)その他 ニオイは消化器への影響も大きく、好きな食べ物のニオイは食欲を高め、消化器官の運動性と消化液の分泌を亢進(こうしん)する。逆に、嫌いな物や腐った物のニオイは、食欲を抑えるだけでなく、吐き気や、ときには嘔吐(おうと)をおこすことも知られている。
このほか、生殖器への影響としては、動物の世界での性フェロモンの働きがよく知られている。また、ネズミの実験では、生まれて間もない子の体臭は処女マウスの母性本能を呼び覚ます働きをもつことがみいだされている。
[高木貞敬]
『高木貞敬著『嗅覚の話』(岩波新書)』