共同通信ニュース用語解説 「ザンビア」の解説
ザンビア
アフリカ南部の内陸国。面積は約75万平方キロで日本のほぼ2倍。英探検家リビングストンが19世紀半ばに訪れ、1891年、英保護領北ローデシアに。1964年に独立。豊富な地下資源を活用して堅調に経済成長を遂げ、2011年には低所得国から下位中所得国へと移行した。ただ近年は主要輸出品の銅の価格低迷などで経済が停滞していた。(ナイロビ共同)
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翻訳|Zambia
アフリカ南部の内陸国。面積は約75万平方キロで日本のほぼ2倍。英探検家リビングストンが19世紀半ばに訪れ、1891年、英保護領北ローデシアに。1964年に独立。豊富な地下資源を活用して堅調に経済成長を遂げ、2011年には低所得国から下位中所得国へと移行した。ただ近年は主要輸出品の銅の価格低迷などで経済が停滞していた。(ナイロビ共同)
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基本情報
正式名称=ザンビア共和国Republic of Zambia
面積=75万2612km2
人口(2010)=1293万
首都=ルサカLusaka(日本との時差=-7時間)
主要言語=英語,ニャンジャ語,ベンバ語,ロジ語,カオンデ語,ルンダ語,ルバレ語,トンガ語
通貨=ザンビア・クワチャZambian Kwacha
南部アフリカの北辺にある共和国。旧イギリス領北ローデシアNorthern Rhodesia。北から時計回りにコンゴ民主共和国,タンザニア,マラウィ,モザンビーク,ジンバブウェ,ナミビア,アンゴラに囲まれ,海をもたない。鉱産,とくに産銅国として知られる。
南緯8°~18°にわたる国土は,一般に南西から北東へ標高を増す900~1500mの高原面を主体とする。先カンブリア界の結晶質岩とこれを貫くカコウ岩体を基盤とし,中生代末から第三紀にかけて形成された3段の浸食面群が広く保存されている。西部はいわゆるカラハリ盆地に属し,古第三系をのせる。最高点はマラウィ国境北部の2160m,最低点はモザンビーク国境部の325mである。国土の大半はザンベジ川とその支流カフエ川,ルアングワ川その他によってインド洋に排水され,北東部はコンゴ川水系に属するチャンベシ川,ルアプラ川の流域である。
熱帯内陸の半乾半湿の気候下にあり,一年はほぼ4~8月の涼乾季,8~11月の暑乾季,11~4月の暖雨季に区分される。最涼月は6月または7月で,平均15~17℃,一方,最暖月は10月または11月で,平均23~26℃である。降水量は年変動が少なくないが,平均で年700~1400mm,一般に南に小で北に大,高所に大で低所に小の傾向を示す。しかも降水量の90%以上が,熱帯収束帯(ITC)が国土上を往復する11~4月の暖雨季に集中するのが特色である。
執筆者:戸谷 洋
世界第2の銅産出国であり,いわゆるコッパー・ベルトを中心に都市化の進展が著しい。したがって,住民も近代化の波を受け,生活も変化しているが,伝統的な自給農耕の生活様式を残している人々も多い。
伝統的な部族分布は,北部にベンバ,ビサ,ララ,ランバなどの中央バントゥー系の諸部族が居住し,南部,西部にはイラ,トンガ,ロジ,カオンデなどの中央ザンベジ・バントゥー系の諸部族が居住する。これらの部族はすべてバントゥー系の農耕民であるが,北部はツェツェバエの分布域であるため牛を飼養しないが,南部,西部では飼育する。多くの部族は,現在のコンゴ民主共和国(ザイール)の地にあったルンダ王国,ルバ王国から分かれて移住してきたことを物語る伝承をもっている。伝統的な社会の政治的統合は多様な形態をとっていた。南部のトンガ族などは王国を形成しなかったが,ロジ族やベンバ族などは,奴隷や象牙の交易の富を蓄積して強力な王国を形成した。また,この地域のバントゥー系諸部族は,アンゴラからザンビア,モザンビークにかけて中央アフリカを帯状に広がる母系ベルトに属して,母系社会を形成することで有名である。
ザンビアの広大な乾燥疎開林に居住する農耕民の生業は雑穀を主作物とする焼畑農耕である。とくに木の枝を伐採し,1ヵ所に集めて火入れを行って焼畑を造成するチテメネ・システムという特殊な方法をとる。
コッパー・ベルトの鉱山都市が開けたため,早くから成人男子の出稼ぎ労働が盛んに行われている。しかし,銅の国際価格の低落のため,住民の生活水準は停滞を余儀なくされている。現在,国語としては英語のほかに,ベンバ,カオンデ,ロジ,ルンダ,ルバレ,ニャンジャ,トンガの各部族語があり,行政や教育に用いられている。
執筆者:赤阪 賢
ザンビア各地で石器時代の初期・中期・後期遺跡が発見されている。8~12世紀ころバントゥー語系住民が北から移住し,先住民サン(ブッシュマン)を駆逐して農耕,牧畜を始めた。1000年ころにはトンガ・イラ文化がザンベジ川渓谷沿いに栄えた。17世紀にはコンゴ地方からロジ族,南方からベンバ族が来住し,それぞれ中央集権的な王国を建設した。
18世紀末のポルトガル人の遠征に続いて,19世紀半ばリビングストンがイギリス人として初めて訪れた。19世紀末C.ローズのイギリス南アフリカ会社は南アフリカからさらに北方への進出を企て,リンポポ川以北のマタベレランド,マショナランド,マニカランドを手に入れ,南ローデシア(現在のジンバブウェ共和国)をつくった。つづいて1890年にザンベジ川上流域のロジ王国のレワニカ王から鉱山採掘権を入手し,さらに北方のベンバ族を強敵ヌゴニ族から守るという名目で99年にはほぼ現在のザンビア(北ローデシア)全域を手に入れた。しかし会社の関心は鉱産資源の多い南ローデシアに集中し,北ローデシアへの白人の入植は遅れた。1920年代初め会社の独占的支配に対する白人入植者の反感が高まり,住民投票の結果,24年会社の南・北ローデシア支配は終わり,北ローデシアはイギリスの植民地省が統治する直轄植民地となった。
1920年代末,北ローデシア中部のコンゴ国境沿いのコッパー・ベルトで銅の富鉱が発見され,その採掘にはローン・セレクション・トラスト社(RST。アメリカ系)とアングロ・アメリカン社(AAC。南アフリカ系)が従事した。大恐慌後,銅の生産は著しく伸び,北ローデシア経済の大宗となった。南ローデシアの白人入植者はこの資源に着目し,イギリス領ニヤサランド(現在のマラウィ共和国)のアフリカ人労働力と合わせて3植民地で連邦を結成することを計り,イギリスとアフリカ人の反対を押し切って53年にローデシア・ニヤサランド連邦を結成した。白人の利益を優先する連邦結成にアフリカ人は反対し,H.ヌクンブラがアフリカ人民族会議(ANC)を結成,カウンダも参加した。しかし急進的なカウンダは58年脱党し新党をつくったが,非合法化され投獄された。59年釈放されたカウンダは統一民族独立党(UNIP)の党首となり,連邦反対と独立を要求してイギリス政府と交渉した。63年末ローデシア・ニヤサランド連邦は解体し,北ローデシアは翌64年10月24日独立してザンビア共和国となった。
大統領となったカウンダは国内の部族主義を克服する意図をもって,70年ロジ族,トンガ族を基盤とする野党ANCを非合法化し,72年にはUNIPから除名された前副大統領S.カプウェプウェの連合進歩党(UPP)も非合法化した。同時にザンビアの一党制化を進めるための新憲法草案の作成,党規約の改正を諮問する委員会を設置した。同年12月法案は可決され,翌73年8月の新憲法発効とともに,ザンビアはヒューマニズム哲学に基づく一党制民主主義を標榜した。カウンダは大統領に再選され,新たに首相として前副大統領M.チョーナが任命された。新憲法の下,党と議会の関係は以下のようになった。大統領は単一政党UNIPの党首も兼ね,党書記長が新設された。首相は行政府の長となり,25名から成る党中央委員会の長は書記長であり,首相も中央委員会の委員を兼ねた。そして中央委員会の下に八つの小委員会として(1)防衛・安全保障,(2)選挙,(3)経済・財政,(4)政治・憲法・法律・外交,(5)任命・懲戒,(6)社会・文化,(7)農村開発,(8)青年・スポーツの各委員会が置かれた。また議会は一院制で,定員135名(選出125名,大統領任命10名,任期5年)から成り,他に諮問機関として各州を代表する首長会議(27名)が置かれた。
独立後ザンビアは直ちに国連,イギリス連邦,アフリカ統一機構(OAU)に加盟し,反人種主義,非同盟主義を外交の基本とした。特に南部アフリカの白人支配に対するアフリカ人解放闘争に対しては,その置かれた地理的環境から積極的に対応した。対南部アフリカ政策の基本は〈破壊よりも交渉を優先させる〉という1969年の〈ルサカ宣言〉にあり,同宣言はOAUでも採択された。そして74年のポルトガルの軍事クーデタに伴うアンゴラ,モザンビーク植民地解放の動きにいち早く対応した南アフリカ共和国のデタント政策には,直ちに〈アフリカ人民が待ち望んでいた理性の声〉として歓迎し,同年結成されたフロント・ライン諸国グループの中では穏健派を代表した。しかし穏健派路線をとる背後には常にザンビアの経済的利害,なかんずく銅の搬出路の確保があり,ジンバブウェ解放闘争ではヌコモのジンバブウェ・アフリカ人民同盟(ZAPU),アンゴラ内戦ではサビンビのアンゴラ全面独立国民連合(UNITA)といった穏健派を支持し,78年には国内経済の危機から,後述するようにローデシア(南ローデシア)との鉄道を再開し,他の前線諸国の非難を浴びた。1975年チョーナは首相の職を解かれ(1978年党書記長),後任にはD.リスロが就任した。78年の大統領選挙でカウンダは4選されたが,同年の総選挙で4名の前閣僚が落選し,また政府の経済政策に対し労働組合の不満が高まり,80年10月にはクーデタ未遂事件が起こった。そのため大統領は首相をN.ムンディア,党書記長をH.ムレムバに替えるとともに,81年7月労働組合指導者を逮捕した。そして83年の大統領選挙および総選挙ではUNIPは圧勝し,カウンダは5選された。
84年以降の政治の争点は,政府指導者の政治腐敗と,社会主義化と経済自由化との矛盾にあった。85年に前閣僚,公社総裁,党幹部らの政治腐敗が暴露され逮捕にまで発展,翌86年にはカウンダ大統領の息子にまで及んだ。一方,銅価格の下落によって経済苦境にあるザンビアは83年以来,IMF,世界銀行と交渉し一連の構造調整プログラムを実施せざるをえなかった。しかし,87年5月に大統領は〈自らの資源で成長を〉という新経済復興計画を発表し,それまでの経済自由化政策を180度転換し社会主義化路線を歩みはじめた。冷戦終結後,一党独裁体制に対する国民の批判が高まり,カウンダ大統領は90年複数政党制を認め,翌91年10月に複数政党制下での大統領および国政選挙が実施された。その結果,複数政党制民主主義運動党(MMD)のチルバFrederick Chiluba(1943- )党首が勝ち,国政選挙でもMMDが圧勝した。
しかしチルバ政権は発足後,内部抗争,汚職・麻薬問題などで分裂した。96年11月の選挙では憲法改正によりカウンダ前大統領の出馬を不可能にしたため,UNIPは投票を拒否,チルバは再選されたが国際社会の非難を浴びた。
ザンビア独立後の1965年11月に南隣のローデシアの白人入植者が一方的独立宣言を行い,それに対し国連がローデシアへの経済制裁措置を決議した。ザンビアもその措置に荷担したため,従来ローデシアの精油所から送られていた石油供給は停止され,またザンビア産の銅の搬出に使われていたローデシア鉄道の使用も制限された。このため一時期アメリカとカナダがタンザニアのダル・エス・サラーム港から石油を空輸し,またイタリアの国営会社ENI(エニ)がダル・エス・サラーム港と産銅地帯を結ぶ石油パイプラインを建設した(1968年9月完成)。銅輸送についてはアンゴラ経由のベンゲラ鉄道へ比重を移しながらも,ローデシア国内だけは外国会社が輸送するという条件で一時的に問題を解決した。長期的には世界銀行の援助でダル・エス・サラーム港への舗装道路建設,また70年からは中国の援助で同じくダル・エス・サラーム港に通じるタンザン鉄道の建設が開始された(1975完成)。
このような経済的危機に直面した内陸国ザンビアは国家の介入を強める一連の経済改革を実施した。まず1968年4月には〈ムルングシ宣言〉によって,外資系25社に対し国営産業開発公社(INDECO)が株式の51%を取得し,同時に外国企業の本国送金を制限した。またインド人を中心とする非ザンビア人への商業許可証の発給を制限し,商業面でのザンビア人化をはかった。さらに翌69年8月には〈マテロ宣言〉を行い,ザンビアの基幹産業である銅鉱業の国有化に踏み切った。外資系二大銅山会社であるAAC社とRST社の株式の51%を取得してそれぞれ政府系のヌチャンガ・コンソリデーテッド銅鉱山会社(NCCM)とローン・コンソリデーテッド鉱山会社(RCM)を設立し,両社を国営鉱業開発公社(MINDECO)の傘下に入れた。そして70年11月には外国商業銀行の国有化が行われ,国営金融開発公社(FINDECO)が51%の株式を取得し,これによってザンビア政府は国内の金融活動のほぼ95%を支配することになった。
一方,独立から74年までは銅の国際価格が高水準にあり,銅モノカルチャー経済のザンビアは輸送問題を除き好況で,この時期実施された第1次国家開発計画(1966-70)では年平均経済成長率は10.6%とほぼ目標通りであったが,一面,農業開発は等閑視された。しかし,73年1月のローデシアとの国境閉鎖に伴うローデシア鉄道使用停止,同年10月の石油危機,75年の銅価格の暴落,同年8月の隣国アンゴラでの内戦激化に伴うベンゲラ鉄道の運行停止によってザンビア経済は危機に直面した。輸送に関しては75年にタンザン鉄道が開通したにもかかわらず,技術者の不足,ダル・エス・サラーム港の混雑などによって十分稼働しなかった。また銅価格の低迷によって生産費が価格を上回り,政府は生産制限措置をとったため重要な歳入源を失い,他の産業部門の活動も停滞した。第2次国家開発計画(1972-76)は目標を大幅に下回り,年平均経済成長率は3.4%にとどまった。国内では食料品をはじめ日常生活必需物資が不足し,主食のトウモロコシを敵対する南ア共和国から輸入する事態も起こった。
この経済危機を打開するため,政府は初めて銅依存経済(輸出の約90%が銅)からの脱却を目ざして農業開発に本格的に取り組み,78年10月にはトウモロコシ栽培に必要な肥料を緊急に輸入するためにローデシア鉄道再開に踏み切り,周辺の黒人独立国家の非難を浴びた。一方,世界銀行,IMFをはじめとする国際金融機関から多額の援助を受け,経済の立直しをはかろうとしている。第3次国家開発計画(1980-84)においては,銅依存経済から経済の多角化を目ざし,特に食糧自給化をはかる農業開発に力点を置いた。チルバ政権はIMF・世界銀行の支援を受けて構造調整計画をすすめ,規制緩和,為替の自由化,民営化を実施しているが,その効果はなかなかあがっていない。
執筆者:林 晃史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アフリカ大陸南部の内陸に位置する共和国。正称はザンビア共和国Republic of Zambia、独立以前は北ローデシアと称した。国名は国内最大の河川、ザンベジ川に由来する。北はコンゴ民主共和国、タンザニア、東はマラウイ、モザンビーク、西はアンゴラ、南はナミビア、ボツワナ、ジンバブエと国境を接する。1964年10月24日、イギリスから独立。首都はルサカ。中央、コッパーベルト、東部、ルアプラ、ルサカ、ムチンガ、北部、北西部、南部、西部の10州からなる。面積75万2610平方キロメートル、人口約1838万人、人口密度24.7人/平方キロメートル(2020世界銀行)。通貨はザンビア・クワチャ。公用語は英語。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
中央アフリカ高地に位置し、国土の大部分は標高約900~1400メートルに位置する。国内でもっとも標高が高いのはマラウイとの国境に位置するマフィンガ丘陵(2339メートル)であり、東部には標高1700~1900メートルのムチンガ山地がある。
内陸国であるが、国内には豊富な水域が存在する。最大の河川であるザンベジ川は、ザンビア北西部に源流をもち、アンゴラ、ザンビアを経て、モザンビークからインド洋に流れ込む。河川全体の集水域は約140万平方キロメートルに及ぶ。ザンベジ川上流には広大なバロツェ氾濫原が形成されている。上流域と中流域の間には、幅約1700メートル、落差最大108メートルのビクトリア滝(周辺に居住するトンガ<民族>のことばでは「雷鳴のとどろく水煙(モシ・オ・トゥニャMosi-oa-Tunya)」とよばれる)がある。ビクトリア滝は世界三大瀑布(ばくふ)の一つであり、1989年にはユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の自然遺産(世界自然遺産)に登録された。滝の名称は、1855年にヨーロッパ人として初めて滝を訪れた探検家リビングストンにより、当時のイギリス女王にちなんでつけられた。ザンベジ川の中流域にはダム建設によって1950年代後半につくられたカリバ湖がある。国内北部にはコンゴ川水系に属するバングウェウル湖、ムウェル湖、タンガニーカ湖などがある。
ケッペンの気候区分によると大部分が温暖湿潤気候、一部は熱帯サバナ(サバンナ)気候や半乾燥のステップ気候である。季節は11月から4月までの雨期、5月から10月までの乾期に大まかに区分されるが、年や地域によって前後する。森林の大部分は疎開林であり、とくにミオンボ林とよばれるブラキステギア属などが優占する植生が代表的である。そのほかにアカシア属が優占するムンガ林やモパネが優占するモパネ林もある。広くみられる土壌としては、フェラルソルとアクリソル、ルビソルがある。国土の約30%が国立公園や動物保護区に指定されており、サウス・ルワングワ国立公園やカフエ国立公園ではライオンやゾウ、カバ、アンテロープ亜科の動物など多くの野生動物が生息している。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
現在ザンビアとなっている地域には、南北からさまざまな集団が移入してきた歴史がある。たとえば、ザンビアの主要なエスニック集団であるベンバは、アンゴラやコンゴ民主共和国付近でかつて繁栄したルバやルンダにルーツをもち、16世紀ごろにザンビア北東部に移動し、19世紀までには周辺諸民族を支配下におく王国を築き上げた。また、同じくルンダやルバにルーツをもつロジは、17世紀終わりころにはバロツェ氾濫原に移動し王国の原型を築いていた。そのほかにも、南部には12~13世紀ころからトンガ(民族)が居住していたと考えられている。
19世紀以前にも、ポルトガル人やアラブ人が交易の目的で往来してきたが、セシル・ローズ率いるイギリス南アフリカ会社British South Africa Company(BSAC)が領土の拡大や資源の探査を目的として北進してきたことにより植民地化が進むこととなる。BSACは1890年、西部に居住していたロジの王と協定を結んだのを皮切りに、各地で諸集団の王や首長と協定を締結し、勢力下においた。ローズは、鉱物資源が豊富なカタンガ(現、コンゴ民主共和国南部)への進出も目論(もくろ)んでいたが失敗したため、ザンビアがBSACの支配の北縁となった。1924年にはBSACから植民地省の管轄下に移行し、イギリスの直轄植民地、北ローデシアとなった。
1920年代後半以降、銅鉱山の発見によって大規模な鉱山開発が行われるようになると、それまで南ローデシアへの労働力供給地とされてきた北ローデシアの位置づけが一転し、イギリスの植民地支配における重要性が高まった。鉱山開発に伴い、アフリカ人の非就農人口も増加した。これに伴い、彼らの食糧需要を満たすため、主食作物であるトウモロコシ生産の商業化が開始された。農作物の輸送に有利な鉄道沿線は「王領地」に指定され、ヨーロッパ系入植者(「白人」)による大規模農業が発展した。植民地政府は、家屋税や人頭税を導入することにより、それまで自給自足的な生活を営んでいた人々に現金収入が必要な状況をつくり出し、鉱山や商業的農業に必要な労働力として調達した。
1953年にはローデシア・ニアサランド連邦(イギリス領中央アフリカ連邦)が結成された。これは、南ローデシア(現、ジンバブエ)の製造業や商業的農業、北ローデシアの銅鉱業と労働力、ニアサランド(現、マラウイ)の労働力という経済的に相互依存関係をもつ3地域を政治的に統合し、効率的に経済を成長させるねらいがあった。1955年、連邦の首相は南北ローデシアにまたがるザンベジ川中流のカリバ地域においてダム建設を進めることを発表した。これによりカリバ湖およびカリバ・ダムがつくられ、今日でもザンビアの主要な電力源となっている。一方、湖・ダムの建設により、流域で生活を営んできた約5万7000人ものトンガ(民族)の人々が移住を強いられた。
連邦結成は、北ローデシアのアフリカ人にとっては南ローデシアの白人入植者による支配の強化としてとらえられ、1950年代末以降には連邦反対運動が活発化した。1960年前後のアフリカ諸国の独立も後押しとなり、ケネス・カウンダ率いる統一民族独立党United National Independence Party(UNIP)が1964年1月の普通選挙で勝利した。1964年10月にはザンビア共和国として独立、カウンダは初代大統領となった。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
ザンビアは共和制国家であり、元首は大統領(任期5年)、議会は一院制の国民議会(議員任期5年)である。大統領は国民の直接選挙により選ばれる。
独立当時は複数政党制を採用していたが、西部州を基盤とした野党、統一党United Party(UP)の台頭などによる支持基盤の弱体化を懸念したカウンダ政権は、1972年に一党制への移行を決定し、1973年に新憲法が制定された。しかし、経済の停滞や国営企業による汚職などを背景として政権への批判が高まり、1991年には複数政党制のもとで総選挙が実施され、複数政党制民主主義運動Movement for Multiparty Democracy(MMD)が勝利、フレデリック・チルバFrederick J. T. Chiluba(1943―2011)が2代目大統領となった。
複数政党制は実現したものの、チルバは前政権と同様に大統領がもつ強大な権力を行使し、中央集権的・家産制的な支配を続けた。2001年、チルバの任期満了(在任中に憲法を改正し大統領の任期を5年、2期とした)に伴う大統領選にて、MMDから後継者として指名されたレビー・ムワナワサLevy P. Mwanawasa(1948―2008)が大統領に就任した。ムワナワサは前政権の汚職を追及するなど政治・経済の再編に尽力し、2006年の選挙でも再選されたが、2008年6月、外遊中に脳卒中で緊急入院し、同年8月に死去した。大統領補欠選挙により、当時副大統領であったルピア・バンダRupiah B. Banda(1937―2022)が大統領に選出された。
2011年9月にはマイケル・サタMichael C. Sata(1937―2014)率いる愛国戦線the Patriotic Front(PF)が大統領選と国会議員選挙で勝利し、複数政党制導入以降、政権を担ってきたMMDとの政権交代が実現した。サタは、中国との関係を強化し、雇用創出や産業開発、経済多角化などに取り組んだが、2014年10月、病気のため死去した。補欠選挙までの間は当時副大統領であったガイ・スコットGuy L. Scott(1944― )が暫定大統領に就任した。2015年の補欠選挙により、与党PFから出馬し、当選したエドガー・ルングEdgar C. Lungu(1956― )が大統領となった。2021年8月に実施された選挙においては、野党の国家開発統一党United Party for National Development(UPND)の党首、ハカインデ・ヒチレマHakainde Hichilema(1962― )が大差で勝利し、第7代大統領となった。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
独立以降、カウンダはヒューマニズム社会主義を掲げ、基幹産業の国有化を進めた。たとえば、他のアジア・アフリカ諸国と同様に、「輸入代替工業化」に基づく産業開発を進めたり、鉱山会社の株式の50%以上を政府が取得したりするなど、国家による産業開発への強い介入が進められた。これによりコッパーベルトやルサカを中心とした都市部で雇用機会が増加し、都市化が進展した。独立後に台頭したザンビア人エリート層や都市住民の生活の安定は、政治的にも重要となり、政府は都市消費者物価を補助金や物価統制によって管理し、都市住民の生活を安定させる政策を実施した。たとえば、1969年に設立された「国家農業マーケティング・ボードNational Agricultural Marketing Board」により主食作物であるトウモロコシが独占的に売買されたほか、投入財(中間財)や生産財の流通も一元的に管理された。また、1970年代初頭には全国均一固定価格制度も導入された。国家による強い介入やこれらの農業補助金の増加は、1970年代前半まで国際的に価格が高騰し好調であった銅の輸出に支えられていた。
1970年代後半以降、銅価格の低迷や対外債務の増加により経済は危機的な状況に陥った。国際通貨基金(IMF)や世界銀行の支援のもとに実行していた構造調整政策(政府部門の縮小や経済自由化など)をカウンダ政権は一旦放棄し、政府独自の新経済復興計画New Economic Recovery Programmeを発表したが、経済悪化を背景とした国民の不満は高まり、1991年には政権交代が実現した。
チルバ政権は、構造調整計画を本格的に実施し、トウモロコシや肥料の流通自由化や補助金の撤廃、国営企業の民営化を進めた。構造調整の実施により、農村部では野菜などの農作物の商業化や非農業活動の活発化が生じるなど、地域により異なる影響が生じた。一方、都市部では公的部門の縮小による雇用の減少や社会サービスの縮小などを背景として都市住民の生活水準は低下し、インフォーマル部門(露天商や行商などに代表される公的な枠組みに捕捉されないさまざまな経済活動)への参入が増加した。また、この時期には都市部から農村部への人口流出も進んだ。
2000年以降は、銅価格の上昇、銅産業の民営化、債務帳消し措置などを背景として経済が成長した。2001年から2010年までのGDP(国内総生産)成長率の平均は7%以上という高水準を記録した。ザンビアは中国のアフリカ進出における重要な拠点にもなっており、中国による直接投資や企業進出も増加した。他方、2011年以降は銅価格の下落や対外債務の増加により経済成長率は低迷している。1人当りGNI(国民総所得)は2014年の1800ドルをピークに減少し、2020年は1160ドルである(世界銀行の分類では低中所得国)。2020年には新型コロナウイルス感染症(COVID(コビッド)-19)の流行による影響も受け、財政が悪化し、債務不履行の状態に陥った。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
ザンビア政府によれば国内には73のエスニック集団がおり、それぞれに固有の文化や言語を有している。公用語は英語である。それ以外に主要な7言語(ベンバ語、カオンデ語、ロジ語、ルンダ語、ルバレ語、ニャンジャ語、トンガ語)が教育やメディアなどで使用されている。ベンバ語やニャンジャ語はとくに話者人口が多く、都市部でも異なるエスニック集団間の共通語として用いられる。東部州ではチェワ、西部州ではロジ、南部州ではトンガ、北部州ではベンバのように、エスニック集団の分布には流入の歴史からくる地域性もみられる。一方、集団間の通婚も多くあり、都市化も進んでいることから英語も含めて複数の言語を使用できる者が多い。
初・中等教育は初等7年、中等5年(前期2年、後期3年)で構成されている。各学年はグレード(Grade1~12)とよばれ、グレード5から英語での教育に切り替わる。グレード7、グレード9の修了時に全国統一試験があり、進級・進学に関する選抜が行われる。グレード12修了後にも高等教育への進学を左右する統一試験がある。高等教育機関には大学・短大・高等職業訓練校などがあり、ルサカやコッパーベルト州の大都市などに立地している。2002年以降、初等教育の無償化が実施され、就学率は向上したが、教室・教員数と通学する生徒の数が見合っていないため、午前の部の生徒、午後の部の生徒といったように、同じ学年でも複数の部に分かれて通学し授業を受ける体制になっている学校も多くある。
人口の約95%(2010)がキリスト教徒であり、憲法前文にはキリスト教国家であることが明記されている。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
ザンビアが独立した1964年10月24日は、東京オリンピックの閉会式当日であった。開会式では北ローデシア代表として出場していた選手団が閉会式にはザンビア国旗を掲げて登場したことは、日本でも話題となった。日本はザンビアの独立と同時に承認し、それ以降、両国の関係は続いている。
日本からの輸入は38.8億円、主要品目は車両および部品、タイヤ、建設用・鉱山用機械などである(2020)。日本への輸出は19.8億円、主要品目は銅、コバルト、タバコなどである(2020)。
ODA(政府開発援助)については、無償資金協力・技術協力を中心に、モノカルチャー経済脱却を目ざした産業の活性化や、経済活動の基盤となるインフラ、社会サービスの向上に対する支援が実施されている。たとえば、内陸国のザンビアでは陸路による物資の輸送が重要であるが、出入国の手続には多くの時間・労力を要していた。そこで日本は、ザンビア―ジンバブエ国境のチルンドや、ザンビア―ボツワナ国境のカズングラでの橋梁建設と国境管理施設の建て替え、手続迅速化に向けた支援を実施した。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
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南部アフリカの共和国。旧北ローデシア。世界有数の産銅国。首都ルサカ。ベンバ人,ビサ人,トンガ人,ロジ人などが住む。1889年発足したイギリス南アフリカ会社の植民活動の結果,1911年ザンベジ川以北の領土が北ローデシアとなる。53年ローデシア・ニヤサランド連邦の一部となるが,63年同連邦は解消し,翌年独立。90年複数政党制が導入され,翌年の大統領選でカウンダ初代大統領が敗れた。
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