イタリアの画家、建築家。フィレンツェ派絵画の基礎を築き、イタリア絵画、ひいてはヨーロッパの近代絵画の創始者とたたえられる。フィレンツェ近郊の小村ベスピニャーノに生まれる。貧しい少年ジョットが、羊の番をしながら羊の絵を描いていると、通りかかったチマブーエがその才能に驚き、連れて帰って弟子とした、というギベルティの伝えるエピソードは有名である。この話の真偽はさておき、ジョットがチマブーエのもとで画業を学んだ可能性は大きいといえる。しかし、ジョットの作風形成には、ピエトロ・カバリーニなどの活躍で当時高い水準に達していたローマ派の影響も重要である。また、古代やフランス・ゴシック美術の影響を受けたアルノルフォ・ディ・カンビオやジョバンニ・ピサーノの彫刻からも刺激を受けたと思われる。つまり、ジョットはイタリアの中世美術の優れた成果を吸収し、イタロ・ビザンティンとよばれる当時の絵画に、空間性と写実性を吹き込んで一大変革を成し遂げ、その後のイタリア絵画、そしてヨーロッパ絵画を方向づけたといっても過言ではない。こうしたジョット絵画の背景となったのは、都市市民層の勃興(ぼっこう)、その市民たちの心をとらえた聖フランチェスコ以来の宗教運動、そしてフレスコ画技法の発展などをあげることができる。
初期の活動には不明な点が多いが、この時代の作品としては、フィレンツェのサンタ・マリア・ノベッラ聖堂の『磔刑図(たっけいず)』とサン・ジョルジョ・アッラ・コスタ聖堂の『聖母子と天使』が、多くの学者に真筆と認められている。アッシジのサン・フランチェスコ聖堂上院の『旧約伝』の一部と『聖フランチェスコ伝』壁画は、その帰属に関する議論がいまだ決着をみず、イタリア美術史上の難題の一つといえる。イタリア人を中心に多くの学者はジョットの作と主張するが、おもにイギリス、アメリカ人学者による強い反論があるからである。ともあれ、ジョットの最大の作品がパドバのアレーナ礼拝堂(スクロベーニ礼拝堂)の『マリア伝とキリスト伝』壁画(1303~1305)であることは疑う余地がない。この小礼拝堂の壁画群は西洋美術史の一大金字塔で、生き生きと描かれた物語にみる人間性と宗教性の融和は、並はずれた造形感覚に支えられて、高い芸術的境地に達している。フィレンツェに残された作品としては、『栄光の聖母』(ウフィツィ美術館)、サンタ・クローチェ聖堂のバルディ家、ペルッツィ家の両礼拝堂の壁画が重要である。ジョットは広い名声を博し、大工房を営み、このほかにも各地の注文に応じていた。ローマ、リミニ、ナポリ、ミラノなどで、教皇や君主のために制作に携わったことが知られている。しかし残念ながら、今日残る作品は少ない。さらに、1334年にはフィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の主任建築家に任ぜられ、鐘塔の建設にあたり、同地で没した。
[石鍋真澄]
『サレル・エイマール著『巨匠の世界1 ジョット』(1975・タイムライフブックス)』▽『佐々木英也解説『世界美術全集1 ジオット』(1977・集英社)』
イタリアの画家,建築家。三次元的空間に,量感をそなえ,精神的性格づけをほどこされた人物像を配して現実感のある画面を構成し,西洋近代美術の創始者とみなされる。フィレンツェ近郊のコレ・ディ・ベスピニャーノColle di Vespignanoに生まれ,最初チマブエの工房で修業をし,次いでローマに行き,カバリーニや古代の美術,またアルノルフォ・ディ・カンビオの彫刻に触れ,研鑽を積む。最初期の作品として,フィレンツェ洗礼堂のモザイクのための下絵をあげる史家もいるが,一般的には1290年前後の作になるアッシジのサン・フランチェスコ教会上堂に描いた新・旧約聖書に主題をとる数場面とされる。引き続き同教会内上堂に96年ないし97年ころから〈フランチェスコ伝〉の連作壁画を手がけるが,全場面が彼の作ではないことは,現在諸学者の一致して認めるところである。ここで彼は,フランチェスコがラテン語に代えて俗語で頌歌を歌い,福音書を説いて民衆に直接訴えたように,この聖人にまつわる伝説を明快かつ簡潔に,力強い造形力をもって説き明かしている。1300年の聖年祭を前に,おそらく〈フランチェスコ伝〉の完成を弟子たちに託し,ローマに行き,サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に聖年祭を記念する壁画を描いた(断片しか残っていない)。その後フィレンツェに戻り,バディーア教会のために多翼祭壇画や壁画を制作する。このころの作品には《磔刑図》(フィレンツェ,サンタ・マリア・ノベラ教会)や《聖母子》(フィレンツェ,サン・ジョルジョ・アラ・コスタ教会)などがあげられている。
中期の活動を代表するパドバのスクロベーニ礼拝堂の壁画制作年については諸説あるが,1305年を境に前後数年内に限定されている。ヨアキム,聖母マリア,キリストの諸伝説からの各場面はそれぞれに独立の世界を形成すると同時に,厳粛で静謐なリズムのうちに連続性をもって展開し,全壁画の体系がみごとな調和を見せている。人物は造形的な力強さを失うことなく,より変化に富んだ力強い動きを示し,三次元性を増し秩序立てられた背景の空間もそれらに呼応して主題の劇的迫真性を高めている。ジョットの芸術様式の真の確立がここにある。この壁画連作に近いのが《玉座の聖母子》(フィレンツェ,ウフィツィ美術館)で,その明晰な形態と空間とが,見る者を聖母子の神聖な領域へと近づけている。
フィレンツェのサンタ・クローチェ教会内のペルッツィおよびバルディ両礼拝堂の壁画は1310年代末から20年代にかけての作品で,ジョットの円熟期の様式を余すところなく伝える。構図は古典的均衡を得,色彩は明るい光の下に微妙な諧調を作り,また調和に対する感覚が画面の隅々にまで配慮され,聖人たちのエピソードが穏やかに告げられている。晩年ナポリ王ロベール・ダンジューに招かれて遇され,34年にはフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂造堂主任建築家に選ばれている。〈バロンチェリの祭壇画〉をはじめ数点の祭壇画がこの期の彼の作に帰されているが,弟子や工房の手が相当に加わっている。37年フィレンツェに没し,大聖堂に埋葬された。彼の影響力は多大であり,14世紀には〈ジョッテスキGiotteschi〉(ジョット流派の画家たち)を生み,ルネサンス絵画の創始者マサッチョ,そしてミケランジェロを経て,セザンヌやキュビストにまで及んでいる。
執筆者:生田 圓
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…聖人の遺体を安置したサン・フランチェスコ修道院教会(1228‐53)は,上下2堂からなる独特の重層形式による,イタリア初期ゴシック様式を示す。上堂には,G.チマブエ,ローマ派のJ.トリーティの壁画,特にジョット筆とされる28場面からなる《フランチェスコ伝》があり,下堂には,ジョット派のほかに,シエナ派のS.マルティーニ,ピエトロ・ロレンツェッティの壁画がある。これら13世紀末から14世紀の巨匠たちの壁画は,近世絵画発展の端緒となった重要な作品である。…
…彫刻では,東方貿易によって最も活気あるピサがニコラ・ピサーノ,ジョバンニ・ピサーノを生み,古代ローマ石棺彫刻に見られた激情的な人間像を再生させている。
【ルネサンス】
1337年に没したジョットは,パドバのスクロベーニ礼拝堂の〈キリスト伝〉において,初めて自己の意志で空間の中に立つ人物とその環境とを描き出した。ルネサンス(イタリア語ではリナシメントRinascimento)の美術はここから始まるといってよい。…
…ロジャー・ベーコンは《大著作(オプス・マユス)》(執筆1266‐68)で,古代とイスラム世界の技法を,神の調和的世界とその恩寵の遍在についての証明に利用している。したがって,ジョットはフランシスコ会の調和的・汎神論的世界観の影響下にアッシジで描いたフレスコにおいて,ポンペイ風の遠近法を復活させたが,そこには,外界への新たな関心と同時に,ベーコンに代表される,神の秩序への倫理的な証明として整合性ある空間を価値あるものとする,このような伝統があったためと考えることができる。 厳密な線的遠近法の成立は15世紀のブルネレスキによって行われた。…
…イタリア美術復興のさきがけをする彫刻家ニコラ・ピサーノとその子ジョバンニの芸術には,古代彫刻の影響とともに,ゴシック彫刻とその新気運の影響があった。ジョバンニの情熱には新興イタリア都市の誇らかな人間的自覚があり,これが開花するのがジョットの芸術であった。ジョットに先だって,イタリア絵画復興の気運はフィレンツェのチマブエ,カバリーニらのローマ画派にうかがわれ,彼らとともにジョットもたずさわったアッシジのサン・フランチェスコ教会壁画制作は画期的な事件であった。…
…ラテン十字形平面をもつ3廊式教会堂であるが,八角形の大交差部を囲む方形祭室によって内陣と翼廊を同形とした集中的構成はゴシック教会堂として前例のない斬新さを示す。1331年以降,工費を負担しえなくなった司教にかわって同市の羊毛組合が工事を主導し,14世紀を通じてジョット,アンドレア・ピサーノ,フランチェスコ・タレンティ,ジョバンニ・ラポ・ギーニらが建築主任として市の威信と栄光をかけたこの大建設事業を進めた。ジョットの設計,監督によって34年に起工され,その没後A.ピサーノとF.タレンティによって完成された鐘楼(いわゆる〈ジョットの鐘楼〉。…
…中世美術はこの傾向をさらにおし進め,聖俗の権威者の肖像をその身分や職能を意味する服装,持物で類型として示し,名前を記すことで個人と結びつけた。肖似性が再び問題となるのは14世紀で,世紀初頭ジョットが描いた《最後の審判》図中の寄進者スクロベーニの像が早い例であり,世紀半ばには独立性と肖似性において現存最古の近代的肖像画といいうる例が,フランスとボヘミアに見いだされる。 中世末期から再び強まってきた現実への関心は,ルネサンスにはいるとさらに勢いを得て,自画像を含めた写実的肖像の制作は著しく活発となる。…
…おもに14世紀初頭から16世紀中葉にかけての人々を指す。まず,16世紀の美術史家バザーリによって,中世に衰退した芸術を〈再生〉した人々の筆頭にあげられている,13~14世紀の画家チマブエとジョットは,ビザンティン美術の影響からイタリアの絵画を解放した。とくにジョットは,三次元的ボリュームをもった肉体の描出,人間の感情と行為の表現,空間の暗示などの点で,〈真実〉の合理的表現に向かうルネサンス絵画の基本的な方向を決定した。…
※「ジョット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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