ドストエフスキー(英語表記)Fyodor Mikhailovich Dostoevskii

デジタル大辞泉 「ドストエフスキー」の意味・読み・例文・類語

ドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoevskiy)

[1821~1881]ロシアの小説家。処女作「貧しき人々」で作家として出発。混迷する社会の諸相を背景として、内面的、心理的矛盾と相克の世界を描き、人間存在の根本的問題を追求。20世紀の文学に多大の影響を与えた。作「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ドストエフスキー」の意味・読み・例文・類語

ドストエフスキー

  1. ( Fjodor Mihailovič Dostojevskij フョードル=ミハイロビチ━ ) ロシアの小説家。トルストイとともに一九世紀ロシア‐リアリズム文学の代表者。処女作「貧しき人々」で認められたのち、非合法運動で死刑執行直前、恩赦を受け、シベリアに流刑されるなどの体験に基づき、人間心理の深奥にひそむ病的で残忍な矛盾した境地を長編作品に展開。以後の世界の文学に大きな影響を与えた。代表作「虐げられた人々」「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」など。(一八二一‐八一

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改訂新版 世界大百科事典 「ドストエフスキー」の意味・わかりやすい解説

ドストエフスキー
Fyodor Mikhailovich Dostoevskii
生没年:1821-81

ロシアの小説家。慈善病院の医師の次男としてモスクワに生まれた。17歳でペテルブルグの陸軍中央工兵学校に入学。在学中,シェークスピア,ラシーヌ,シラー,ホフマン,バルザックなど西欧文学を読みふける。1839年父が領地の農奴に殺された。父の時代錯誤者的性格を見ぬいていたが,事件については語っていない。43年卒業し工兵団製図局に勤務するが,文学への志を捨てがたく,退役し,《貧しい人たちBednye lyudi》(1846)を書く。この処女作が批評家ベリンスキーの激賞を受けて文壇にはなばなしく登場した。続いて《分身Dvoinik》(1846),《女あるじKhozyaika》(1847),《白夜Belye nochi》(1848)など,あこがればかりは強いのに現実には無力な夢想家を主人公とした小説を書く。しかし不評で,しだいに行きづまる。

 47年ころから〈ユートピア社会主義者〉の集り〈ペトラシェフスキー会〉に加わる。49年4月,仲間33名とともに逮捕され,ペトロパブロフスク要塞監獄に拘留された(ペトラシェフスキー事件)。ロシア正教会を批判したベリンスキーのゴーゴリあての手紙を朗読したことがおもな罪状であった。同年12月22日,銃殺刑を申し渡されたが,執行直前に停止され,4年の懲役刑とその後の兵役義務の判決を受けた。この〈模擬〉死刑の体験は《白痴Idiot》(1868)になまなましく描かれている。

 シベリアのオムスクで刑に服したが,その体験については《死の家の記録Zapiski iz myortvogo doma》(1862)に詳しい。このころてんかんの発作が起こりはじめたという。54年2月出獄。セミパラチンスクの守備大隊に配属された。この町で知ったマリア・イサーエワと57年に結婚,文壇復帰を図って執筆を再開する。59年4月,兵役解除となり,同年12月,10年ぶりにペテルブルグへ帰った。

 農奴解放令発布の年である61年,兄ミハイルと雑誌《時代Vremya》を発刊する。《虐げられた人たちUnizhennye i oskorblyonnye》(1861),《死の家の記録》を連載し,また時評によって論壇でも活躍を始める。62年初めて西欧諸国を旅し,《夏の印象をめぐる冬の随想Zimnie zametki oletnikh vpechatleniyakh》(1863)を発表。西欧文明が〈死に至る文明〉であるという考えが固まる。ルーレット賭博に手を出しやみつきとなったが,その経験は当時のアポリナリア・スースロワとの恋愛とともに,《賭博者Igrok》(1866)の材料となった。64年4月妻マリアが,続いて7月兄ミハイルが,死んだ。

 64年,《地下室の手記Zapiski iz podpol'ya》を発表して,同時代の合理主義的進歩派にかみつく。66年《罪と罰》を発表し,文名があがる。67年,《賭博者》の速記者アンナ・スニートキナと結婚し,妻とともに外国へ旅立つ。以後4年間,ジュネーブ,フィレンツェ,ドレスデンなどを転々としながら《白痴》,《永遠の夫(万年亭主)Vechnyi muzh》(1870),《悪霊Besy》(1872)を書く。

 71年7月,ペテルブルグへ帰る。72年,週刊誌《市民Grazhdanin》の編集者となり,《作家の日記》を連載。妻アンナの努力が実ってようやく生活が安定する。75年,《未成年Podrostok》を発表。76年から月刊個人雑誌《作家の日記Dnevnik pisatelya》を発行し成功する。79-80年《カラマーゾフの兄弟》を発表。これと《作家の日記》によって,〈国民の教導者〉の位置に立つ。80年6月,モスクワのプーシキン記念祭で講演。〈予言者〉と評された。81年1月28日,死去。ペテルブルグにあるアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に葬られた。

ドストエフスキーは若いころから〈人間という秘密〉の解明を自分の文学の課題としていた。彼によれば,〈現代〉ロシアの人間は,病者,死産児である。その病者が〈新しいエルサレム〉〈生ける生〉,すなわちあらゆる人が友となり愛しあう世界にあこがれている。美しい理想にあこがれる〈高貴な感情をもつ片輪者〉の生態,それがドストエフスキー文学の一貫した主題であった。

 20世紀の多くの作家たち(例えばジッド,モーリヤック,カミュ,トーマス・マン,フォークナーなど)が,ドストエフスキーから深い思想的影響を受けた。現代文明のうちで増大しつつある人間破壊の事実に気づいたとき,彼らは,19世紀ロシアの病んだ人間を凝視し続けたドストエフスキーを,自分たちの〈同時代人〉として発見したのである。

 日本では1892年(明治25),内田魯庵による《罪と罰》の,英訳からの部分訳が最初の作品紹介であった。魯庵は二葉亭四迷,北村透谷とともに,明治期の優れたドストエフスキー理解者・紹介者である。

 大正に入り,米川正夫,中村白葉,原久一郎昇曙夢などによってロシア語からの直接訳がなされるようになり,1917年(大正6)には最初の全集も刊行されて,ドストエフスキーの読者は増えていった。大正期は白樺派の求道的人道主義の反映もあって,室生犀星山村暮鳥にうかがわれるように,ドストエフスキーは弱者・受難者への同情の作家という理解が主流をなしていた。しかし,萩原朔太郎にみられるように,ドストエフスキーを介して人間の悪魔的本性を発見するという,人道主義とは逆方向の理解の芽も現れてきていた。

 ドストエフスキーが日本の知識層の間に広く深く浸透したのは昭和初期,プロレタリア文学運動が圧殺され,一般に知識青年が社会のうちに望ましい自己発揮の場を得られなくなっていった時代である。このとき,シェストフの《悲劇の哲学》(河上徹太郎訳,1934)が示した,絶望した理想家,自虐的反問者としてのドストエフスキーの像は,青年たちの強い共感をよんだ。小林秀雄がドストエフスキーの人物たちにもっぱら〈意識の魔〉ばかりを見たのも,彼の批評活動の出発がこの閉塞の時代であったことと無関係ではない。

 第2次大戦後の日本でドストエフスキーは,埴谷雄高,椎名麟三,武田泰淳あるいは森有正など,人間の根底と全体と究極に触れる思想を獲得しようとする文学者たちによって,それぞれの精神的課題を先取りしていた〈偉大な先達〉として称揚された。この畏敬すべき先行者というドストエフスキー観は,さらに高橋和巳,大江健三郎など戦後の新しい世代の文学者にも引きつがれた。昭和期のドストエフスキーの基本的イメージは,近代の人間の難問と苦悩を一身に担った大いなる思索者であり,いわば事あるたびに知識人が返り,教えを請うべき〈永遠の教師〉である。

 しかし,長く続いたこのドストエフスキー観も,1970年ころから変化を見せ,ドストエフスキー文学がさまざまな新しい知的方法論の実験材料として利用される動きが出てきている。バフチンの《ドストエフスキーの創作の諸問題》(1929。邦訳1968)がこの動きを先導している。この傾向は,読者のうちから広い意味での求道者風人生論愛好の態度が消えてゆき,ロシア文学が日本人の精神的共有財産の地位を徐々に失ってゆく現象と並行しているように思われる。また,これまでの日本のドストエフスキー解釈においてロシア文学者の貢献は主として翻訳の面に限られていたが,しだいにロシア文学者による歴史的・文献学的なドストエフスキー研究も参照されるようになってきている。
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百科事典マイペディア 「ドストエフスキー」の意味・わかりやすい解説

ドストエフスキー

ロシアの作家。トルストイとともに19世紀ロシア文学を代表,人間の内面の矛盾を追求して近代小説に新しい可能性を開いた。モスクワの医師の家に生まれ,16歳のときペテルブルグの工兵士官学校に入り,卒業して工兵局に勤めるが1年で退職,処女作《貧しい人々》(1846年)の成功を機に文筆活動に専念する。間もなく空想的社会主義者ペトラシェフスキーのサークルに接近,1849年逮捕され,死刑執行の直前に特赦と称してシベリア送りになり,その体験はのちに《死の家の記録》(1862年)に描かれる。10年後モスクワへの帰還を許され,《虐げられた人々》(1861年)などを発表,中編《地下室の手記》(1864年)は彼の思想的・芸術的転機をなす作品となり,以後《罪と罰》をはじめ,〈真に美しい人間〉を描こうとした《白痴》(1868年),ネチャーエフ事件に取材した《悪霊》(1871年),《未成年》(1875年),《カラマーゾフの兄弟》などの大作群を発表した。晩年には,時事随想,回想,小品を含む雑誌形式の文集《作家の日記》(1873年―1881年)を書いている。彼はロシア文学における都市文学の先駆者でもあったが,その文学の第一の特質は,人間精神の不条理性を芸術的に剔出(てきしゅつ)し得た点にあり,その思想的系譜は実存主義にまで及び,内外の多くの文学者に影響を与えたが,一方で,バフチンをはじめとする文学方法論研究によって,新たなドストエフスキー像が形成されつつある。
→関連項目椎名麟三シクロフスキー心理小説ペトロパブロフスク要塞ベリンスキーペローフ

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旺文社世界史事典 三訂版 「ドストエフスキー」の解説

ドストエフスキー
Fyodor Mikhailovich Dostoevskii

1821〜81
ロシアの文学者
貧しい貴族出の医者の子としてモスクワに生まれ,軍職についたが,文学を志した。処女作『貧しき人びと』で有名となったが,社会主義活動で逮捕されシベリアに流された。1859年モスクワに戻ってからは,象徴的・心理主義的傾向の『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』などの傑作を残した。「国民の教導者」とされる。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ドストエフスキー」の解説

ドストエフスキー
Fyodor Mikhailovich Dostoevskii

1821~81

ロシアの作家。処女作『貧しき人びと』で認められる。ペトラシェフスキーの会に参加,1849年逮捕。死刑判決を受け,刑の執行直前に減刑され,シベリアへ流刑。60年代に本格的に作家活動を始め,『地下室の手記』『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』など多くの傑作によって文学界,思想界に大きな影響を与えた。

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デジタル大辞泉プラス 「ドストエフスキー」の解説

ドストエフスキー〔筆記具〕

ドイツの筆記具ブランド、モンブランの筆記具の商品名。「作家シリーズ」。ロシアの小説家、ドストエフスキーをイメージ。万年筆、ボールペン、シャープペンシルがある。

ドストエフスキー〔書名〕

山城むつみによる著作。2010年刊行。2011年、第65回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)受賞。

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世界大百科事典(旧版)内のドストエフスキーの言及

【カラマーゾフの兄弟】より

ドストエフスキーの最後の長編小説。1880年刊。…

【作家の日記】より

…ロシアの作家ドストエフスキーの時事評論集。交友回想記や短編小説なども含む。…

【詩学】より

…無礼講的祝祭カーニバルでは聖俗,貴賤,死生等の対立が一挙に止揚され,抑圧された人間性が解放される。人間に本来的なものであるこのカーニバル精神はカーニバルの消滅とともに小説の言葉のなかに入り込むが,主人公たちの声が溶けあわぬポリフォニーを形成するドストエフスキーの小説はその典型であった。テキストを生成として考え,同時的連関と歴史的発展の見通しにおいてとらえようとするバフチンのテキスト理論は,フォルマリズムのそれとともに現代詩学の基本概念を提供した。…

【罪と罰】より

…ロシアの作家ドストエフスキーの長編小説(1866)。〈生きとし生けるもの〉の世界からの強い隔絶感にとらえられた青年ラスコーリニコフが,破壊欲に誘われて金貸の老婆とその妹を斧で殺す。…

【ニヒリズム】より

…彼がもっと広い一般的な意味でこの語を用いはじめたのは,おそらくブールジェの《現代心理試論》(1883)からデカダンスについて学んだことに関係して,86年夏以来のことである(いわゆる〈受動的ニヒリズム〉)。彼はさらに同年末以降,ドストエフスキーの《主婦》《虐げられた人々》《死の家の記録》《悪霊》などをフランス語訳で読み,地下的・流刑囚的生活者の力強い意志,およびキリスト者の病的な心理について学ぶところがあった。かくして晩年のニーチェの精神史的洞察によれば,人々がプラトンのイデア論以来の形而上学的伝統を通じて,これまで真の実在だと信じこまされてきた超越的な最高の諸価値,特にキリスト教の道徳的諸価値が,今やその有効性を失って虚無化しはじめているが,たとえ根本的には虚無であったにしても,そういう超越的諸価値こそが真の実在だと信じられて,それによって人々がこれまで秩序ある共同生活を送ってきたことこそが,西洋の歴史を根本的に規定してきた論理であると考え,そういう西洋の歴史の論理そのものを彼はニヒリズムの本質と見る。…

【ペトラシェフスキー事件】より

…19世紀ロシアの政治的事件。ドストエフスキーが加わったことで有名。1844年ころから外務省の翻訳官であったペトラシェフスキーMikhail Vasil’evich Petrashevskii(1821‐66)の家に若いインテリゲンチャが集まるようになり,彼らは45年秋から〈金曜会〉と称して,毎週集まって議論をした。…

※「ドストエフスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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