19世紀ロシア・リアリズムの代表的作家。1821年モスクワで医師の子に生まれ、デビュー作「貧しき人々」が絶賛される。49年空想的社会主義のサークルに加わって逮捕されシベリアに流刑。刑期を終え「死の家の記録」で文壇に復帰。「白痴」「悪霊」などの重厚な作品を発表したほか、社会評論「作家の日記」で西欧文化を退廃的と批判、ロシアの独自性を説いた。81年1月死去。(モスクワ共同)
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ロシアの小説家。トルストイと並んで19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。「魂のリアリズム」とよばれる独自の方法で人間の内面を追求、近代小説に新しい可能性を開いた。農奴制的旧秩序が資本主義的関係にとってかわられようとする過渡期のロシアで、自身が時代の矛盾に引き裂かれながら、その引き裂かれる自己を全的に作品世界に投入しえた彼の文学は、異常なほどの今日性をもって際だっており、20世紀の思想・文学に深刻な影響を与えている。
[江川 卓]
1821年10月30日(新暦11月11日)モスクワのマリヤ貧民救済病院の医師の次男に生まれ、教育熱心だが気むずかしい父と、商家の出身で敬虔(けいけん)なキリスト教徒であった母のもとで育った。幼時から都会的環境に親しむ機会が多く、このことはロシアの都市文学の先駆者としての彼の風貌(ふうぼう)を決定づけた。反面、彼が10歳のとき父がトゥーラ県に農奴6人の持村を手に入れ、そこでの幼時体験は、小品『百姓マレイ』(1876)にみられるような農民理想化の傾向、後年の「土壌主義」(ロシア・メシアニズム)の主張の素地を形づくることになる。18歳のときには、父がこの持村の農奴の恨みを買って惨殺される事件もあり、これは最後の長編『カラマーゾフの兄弟』の父親殺しの主題にまでつながる深刻な衝撃を作家に与えたとみられている。
[江川 卓]
モスクワの私塾で学んだのち、17歳でペテルブルグ(ソ連時代のレニングラード)の工兵士官学校に入るが、学生時代はプーシキン、ゴーゴリをはじめとするロシア文学、西欧の古典、現代作家の作品を耽読(たんどく)し、とくにシラーに熱中した。卒業後は工兵廠(しょう)に勤めるが、勤務には「ジャガイモのように」飽き飽きして1年ほどで退職、たまたま翻訳したバルザックの『ウージェニー・グランデ』の好評に力を得て職業作家を志し、処女作『貧しき人々』(1845)を書き上げた。都会の裏町の「小さな人間たち」の社会的悲劇、彼らのなかに潜む人間性の輝き、心理的相克を描き出したこの中編は、写実的ヒューマニズムを掲げていた当時の批評界の大立て者ベリンスキーに認められ、24歳の無名作家に一躍「新しいゴーゴリ」の名声をもたらした。続いて発表した『分身』(1846)、『プロハルチン氏』(1846)、『主婦』(1847)などは、ベリンスキーらから心理主義への病的な傾斜を指摘されて不評に終わったが、これらの作品にもすでに後年の大作家に固有のテーマ、思想、方法などの原型がみてとれる。とりわけ初期作品を通じてみられる独自のパロディー感覚、文体への強い関心などは注目に値する。
[江川 卓]
ベリンスキーとの不和と前後して、空想的社会主義思想への関心をみせ始め、『白夜』(1848)、『ネートチカ・ネズワーノワ』(1849)などの佳編で人間情熱の諸相を探る一方、フーリエの思想を奉ずるペトラシェフスキーのサークルに接近していった。この時期の革命的青年たちとの交流は、生涯にわたって彼の創作に大きな痕跡(こんせき)を残すことになる。1849年春、彼は他のサークル員とともに逮捕されて、同年末死刑の判決を受けるが、セミョーノフ練兵場で銃殺になる直前、「皇帝の特赦」と称して懲役刑に切り替えられた。死と間近に対決したこのときの異常な体験は、のちに『白痴』や『罪と罰』で生々しく物語られる。シベリアのオムスク監獄で過ごしたその後の4年間は、不幸な囚人たちのうちにロシアの民衆を発見する過程であったと同時に、スラブ的神秘主義、苦悩と忍従の思想への傾斜を深めさせた、彼の思想的転身、いわゆる「信念の更生」の時期としても記憶される。シベリアへの途次、トボリスクでデカブリストの妻たちから贈られたロシア語訳『新約聖書』は、彼の生涯の愛読書となった。出獄後5年間は中央アジアのセミパラチンスクで兵卒として勤務し、この間、税務官吏の未亡人マリヤ・イサーエワと結婚、『伯父さまの夢』(1859)、『ステパンチコボ村とその住人』(1859)などブラック・ユーモア的な心理小説を発表。59年末、10年ぶりに首都ペテルブルグへの帰還を許されると、農奴解放を前に高揚した社会的空気のなかで、兄ミハイルとともに雑誌『時代(ブレーミヤ)』(1861~63)を創刊、時事問題、文学論に筆を振るうかたわら、シベリアの獄中体験に基づくユニークな作品『死の家の記録』(1861~62)と長編『虐げられた人々』(1861)を発表した。『罪と罰』のスビドリガイロフの前身ともいうべきワルコフスキー公爵の悪魔的な影を背景に、弱い善意の人間たちのもつれ合った愛の形をメロドラマ的に展開させたこの長編は、公爵の隠し子で異様な魅力をたたえた美少女ネルリの死で縁どられている。
[江川 卓]
その後の数年間は、農奴解放後に訪れた政治的反動、社会的幻滅の時代として、また彼の個人生活のうえでの重大事件、つまり、1862年の最初の西欧旅行(63年の『夏象冬記』にその印象が語られる)、愛人スースロワとの異常な恋愛体験(『賭博(とばく)者』にその一端が描かれる)、64年には妻と兄の死などが重なった時期として注目される。彼の文学上の転機をなし、後期の大作群を解く鍵(かぎ)と一般に認められている中編『地下室の手記』(1864)がこの時期に書かれたのは偶然ではない。『時代』の廃刊に続いて刊行された雑誌『世紀(エポーハ)』の経営失敗などから、彼の個人生活はなかなか安定せず、67年、中編『賭博者』(1866)の口述が縁で知り合った速記者アンナ・スニートキナと再婚して以後は、債鬼の追及を逃れて4年間の国外生活を送らねばならなかった。てんかんの持病に悩まされ続け、賭博癖が輪をかける逼迫(ひっぱく)した生活のなかから、彼の名を不朽のものにした大作『罪と罰』(1866)、『白痴』(1868)、『悪霊』(1871~72)、中編『永遠の夫』(1870)などが次々と生み出されていったのは驚異である。
[江川 卓]
外遊から帰って比較的落ち着いた生活に恵まれた晩年の10年間には、長編『未成年』(1875)と、彼の生涯の思索の集大成ともいうべき『カラマーゾフの兄弟』(1879~80)のほか、1876年以降は個人雑誌『作家の日記』を刊行して、時事的随想や文芸評論のほか、『柔和な女』(1876)、『おかしな男の夢』(1877)などのユニークな中編をここに発表した。死の半年ほど前に行ったプーシキン記念講演は、スラブ派、西欧派の双方から熱狂的な歓迎を受け、不遇であった彼の晩年に花を添えた。1881年1月28日(新暦2月9日)肺動脈破裂で死去。
[江川 卓]
彼の後期の大作群は、時代の先端的な社会的、思想的、政治的問題、さらには文化や科学の状況にまで鋭敏に反応しながら、同時に人間存在の根本問題を提起しえている点に特色が求められる。とくに注目されるのは、理論的殺人者ラスコーリニコフにおける人間を追求した『罪と罰』以降、調和と和解をもたらすべき「美しい人」ムイシキン公爵の敗北を描いた『白痴』、革命の思想と組織の病理をついた『悪霊』、青年の野心の生態を扱った『未成年』、父親殺しを主題に神と人間の問題に正面から取り組んだ『カラマーゾフの兄弟』と、各作品が取り上げる題材を異にしながらも、総体としては内面的な統一性で強く結ばれている点だろう。ここには題材を超えた神話的、フォークロア的世界観の存在も感得され、「ドストエフスキー的世界」ということが語られるのもこの意味においてである。『罪と罰』の両極的な人物像であるソーニャとスビドリガイロフが、それぞれ『白痴』のムイシキン、『悪霊』のスタブローギンへと受け継がれ、さらに『カラマーゾフの兄弟』におけるゾシマ長老とイワンの対決に発展するのなどはその一例で、彼の作品世界の人物たちは、この世に生きる者が必然的に負わねばならない「肯定と否定」の相克を作者自身とともに体現している趣(おもむき)がある。この相克の生々しさを、いわゆる「ポリフォニックなロマン」の形式のなかにそのまま再現しえたところに、ドストエフスキーの天才を認めるべきであろう。
[江川 卓]
彼がロシアだけでなく世界の文学、思想に与えた影響はきわめて広範だが、とくに注目されるのは時代の経過とともに彼の文学が絶えず「再発見」されてきたことである。19世紀末から20世紀初頭のロシアで、メレジコフスキー、ローザノフ、シェストフ、ボルインスキー、イワーノフ、ベルジャーエフらによって、彼の作品の哲学的、宗教的意味が明らかにされ、それはニーチェからカミュ、サルトルに至る実存主義的思想の系譜に引き継がれた。他方、1920年代にロシア・フォルマリズム、とくにバフチンがドストエフスキーの創作に「ポリフォニー」と「カーニバル」の原理を発見したことは、1960年代の構造主義的思想傾向の台頭とともに再評価され、現代の記号論的文学理解にも大きな影響を与えている。ソ連ではスターリン時代にドストエフスキーがほとんど禁書同然になる一時期があったが、50年代後半以降は研究も盛んで、72年からはもっとも完璧(かんぺき)なアカデミー版30巻全集の刊行も行われている。日本では1892~93年(明治25~26)に内田魯庵(うちだろあん)が『罪と罰』を訳して以来、第二次世界大戦後の米川(よねかわ)正夫、小沼文彦の個人訳全集に至るまで、主要作品については10種近くもの翻訳が出そろっており、世界でももっともドストエフスキーが広く読まれている。明治期の長谷川二葉亭(はせがわふたばてい)、北村透谷(とうこく)、島崎藤村(とうそん)、大正期の白樺(しらかば)派の作家たち、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)らに彼の影響をみいだすことは容易であり、昭和10年代のシェストフの「不安の哲学」の流行を経て、小林秀雄(ひでお)、埴谷雄高(はにやゆたか)らの独自なドストエフスキー観も生み出された。戦後は、いわゆる第一次戦後派の文学がドストエフスキーの大きな影を負っているといえる。
[江川 卓]
『米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』全20巻(1969~74・河出書房新社)』▽『小沼文彦訳『ドストエフスキー全集』全20巻・別巻1(1963~91・筑摩書房)』▽『『ドストエフスキー全集』27巻・別巻1(1978~80・新潮社)』▽『H・トロワイヤ著、村上香住子訳『ドストエフスキー伝』(1982・中央公論社)』▽『小林秀雄著『ドストエフスキイ全論考』(1981・講談社)』▽『埴谷雄高著『ドストエフスキイ全論集』(1979・講談社)』▽『江川卓著『ドストエフスキー』(岩波新書)』▽『中村健之介著『ドストエフスキー・生と死の感覚』(1984・岩波書店)』▽『中村健之介著『ドストエフスキーと女性たち』(1984・講談社)』▽『清水孝純著『ドストエフスキー・ノート「罪と罰」の世界』(1996・九州大学出版会)』▽『小沼文彦著『随想ドストエフスキー』(1997・近代文芸社)』
ロシアの小説家。慈善病院の医師の次男としてモスクワに生まれた。17歳でペテルブルグの陸軍中央工兵学校に入学。在学中,シェークスピア,ラシーヌ,シラー,ホフマン,バルザックなど西欧文学を読みふける。1839年父が領地の農奴に殺された。父の時代錯誤者的性格を見ぬいていたが,事件については語っていない。43年卒業し工兵団製図局に勤務するが,文学への志を捨てがたく,退役し,《貧しい人たちBednye lyudi》(1846)を書く。この処女作が批評家ベリンスキーの激賞を受けて文壇にはなばなしく登場した。続いて《分身Dvoinik》(1846),《女あるじKhozyaika》(1847),《白夜Belye nochi》(1848)など,あこがればかりは強いのに現実には無力な夢想家を主人公とした小説を書く。しかし不評で,しだいに行きづまる。
47年ころから〈ユートピア社会主義者〉の集り〈ペトラシェフスキー会〉に加わる。49年4月,仲間33名とともに逮捕され,ペトロパブロフスク要塞監獄に拘留された(ペトラシェフスキー事件)。ロシア正教会を批判したベリンスキーのゴーゴリあての手紙を朗読したことがおもな罪状であった。同年12月22日,銃殺刑を申し渡されたが,執行直前に停止され,4年の懲役刑とその後の兵役義務の判決を受けた。この〈模擬〉死刑の体験は《白痴Idiot》(1868)になまなましく描かれている。
シベリアのオムスクで刑に服したが,その体験については《死の家の記録Zapiski iz myortvogo doma》(1862)に詳しい。このころてんかんの発作が起こりはじめたという。54年2月出獄。セミパラチンスクの守備大隊に配属された。この町で知ったマリア・イサーエワと57年に結婚,文壇復帰を図って執筆を再開する。59年4月,兵役解除となり,同年12月,10年ぶりにペテルブルグへ帰った。
農奴解放令発布の年である61年,兄ミハイルと雑誌《時代Vremya》を発刊する。《虐げられた人たちUnizhennye i oskorblyonnye》(1861),《死の家の記録》を連載し,また時評によって論壇でも活躍を始める。62年初めて西欧諸国を旅し,《夏の印象をめぐる冬の随想Zimnie zametki oletnikh vpechatleniyakh》(1863)を発表。西欧文明が〈死に至る文明〉であるという考えが固まる。ルーレット賭博に手を出しやみつきとなったが,その経験は当時のアポリナリア・スースロワとの恋愛とともに,《賭博者Igrok》(1866)の材料となった。64年4月妻マリアが,続いて7月兄ミハイルが,死んだ。
64年,《地下室の手記Zapiski iz podpol'ya》を発表して,同時代の合理主義的進歩派にかみつく。66年《罪と罰》を発表し,文名があがる。67年,《賭博者》の速記者アンナ・スニートキナと結婚し,妻とともに外国へ旅立つ。以後4年間,ジュネーブ,フィレンツェ,ドレスデンなどを転々としながら《白痴》,《永遠の夫(万年亭主)Vechnyi muzh》(1870),《悪霊Besy》(1872)を書く。
71年7月,ペテルブルグへ帰る。72年,週刊誌《市民Grazhdanin》の編集者となり,《作家の日記》を連載。妻アンナの努力が実ってようやく生活が安定する。75年,《未成年Podrostok》を発表。76年から月刊個人雑誌《作家の日記Dnevnik pisatelya》を発行し成功する。79-80年《カラマーゾフの兄弟》を発表。これと《作家の日記》によって,〈国民の教導者〉の位置に立つ。80年6月,モスクワのプーシキン記念祭で講演。〈予言者〉と評された。81年1月28日,死去。ペテルブルグにあるアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に葬られた。
ドストエフスキーは若いころから〈人間という秘密〉の解明を自分の文学の課題としていた。彼によれば,〈現代〉ロシアの人間は,病者,死産児である。その病者が〈新しいエルサレム〉〈生ける生〉,すなわちあらゆる人が友となり愛しあう世界にあこがれている。美しい理想にあこがれる〈高貴な感情をもつ片輪者〉の生態,それがドストエフスキー文学の一貫した主題であった。
20世紀の多くの作家たち(例えばジッド,モーリヤック,カミュ,トーマス・マン,フォークナーなど)が,ドストエフスキーから深い思想的影響を受けた。現代文明のうちで増大しつつある人間破壊の事実に気づいたとき,彼らは,19世紀ロシアの病んだ人間を凝視し続けたドストエフスキーを,自分たちの〈同時代人〉として発見したのである。
日本では1892年(明治25),内田魯庵による《罪と罰》の,英訳からの部分訳が最初の作品紹介であった。魯庵は二葉亭四迷,北村透谷とともに,明治期の優れたドストエフスキー理解者・紹介者である。
大正に入り,米川正夫,中村白葉,原久一郎,昇曙夢などによってロシア語からの直接訳がなされるようになり,1917年(大正6)には最初の全集も刊行されて,ドストエフスキーの読者は増えていった。大正期は白樺派の求道的人道主義の反映もあって,室生犀星や山村暮鳥にうかがわれるように,ドストエフスキーは弱者・受難者への同情の作家という理解が主流をなしていた。しかし,萩原朔太郎にみられるように,ドストエフスキーを介して人間の悪魔的本性を発見するという,人道主義とは逆方向の理解の芽も現れてきていた。
ドストエフスキーが日本の知識層の間に広く深く浸透したのは昭和初期,プロレタリア文学運動が圧殺され,一般に知識青年が社会のうちに望ましい自己発揮の場を得られなくなっていった時代である。このとき,シェストフの《悲劇の哲学》(河上徹太郎訳,1934)が示した,絶望した理想家,自虐的反問者としてのドストエフスキーの像は,青年たちの強い共感をよんだ。小林秀雄がドストエフスキーの人物たちにもっぱら〈意識の魔〉ばかりを見たのも,彼の批評活動の出発がこの閉塞の時代であったことと無関係ではない。
第2次大戦後の日本でドストエフスキーは,埴谷雄高,椎名麟三,武田泰淳あるいは森有正など,人間の根底と全体と究極に触れる思想を獲得しようとする文学者たちによって,それぞれの精神的課題を先取りしていた〈偉大な先達〉として称揚された。この畏敬すべき先行者というドストエフスキー観は,さらに高橋和巳,大江健三郎など戦後の新しい世代の文学者にも引きつがれた。昭和期のドストエフスキーの基本的イメージは,近代の人間の難問と苦悩を一身に担った大いなる思索者であり,いわば事あるたびに知識人が返り,教えを請うべき〈永遠の教師〉である。
しかし,長く続いたこのドストエフスキー観も,1970年ころから変化を見せ,ドストエフスキー文学がさまざまな新しい知的方法論の実験材料として利用される動きが出てきている。バフチンの《ドストエフスキーの創作の諸問題》(1929。邦訳1968)がこの動きを先導している。この傾向は,読者のうちから広い意味での求道者風人生論愛好の態度が消えてゆき,ロシア文学が日本人の精神的共有財産の地位を徐々に失ってゆく現象と並行しているように思われる。また,これまでの日本のドストエフスキー解釈においてロシア文学者の貢献は主として翻訳の面に限られていたが,しだいにロシア文学者による歴史的・文献学的なドストエフスキー研究も参照されるようになってきている。
執筆者:中村 健之介
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1821~81
ロシアの作家。処女作『貧しき人びと』で認められる。ペトラシェフスキーの会に参加,1849年逮捕。死刑判決を受け,刑の執行直前に減刑され,シベリアへ流刑。60年代に本格的に作家活動を始め,『地下室の手記』『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』など多くの傑作によって文学界,思想界に大きな影響を与えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ロシアの作家ドストエフスキーの時事評論集。交友回想記や短編小説なども含む。…
…無礼講的祝祭カーニバルでは聖俗,貴賤,死生等の対立が一挙に止揚され,抑圧された人間性が解放される。人間に本来的なものであるこのカーニバル精神はカーニバルの消滅とともに小説の言葉のなかに入り込むが,主人公たちの声が溶けあわぬポリフォニーを形成するドストエフスキーの小説はその典型であった。テキストを生成として考え,同時的連関と歴史的発展の見通しにおいてとらえようとするバフチンのテキスト理論は,フォルマリズムのそれとともに現代詩学の基本概念を提供した。…
…ロシアの作家ドストエフスキーの長編小説(1866)。〈生きとし生けるもの〉の世界からの強い隔絶感にとらえられた青年ラスコーリニコフが,破壊欲に誘われて金貸の老婆とその妹を斧で殺す。…
…彼がもっと広い一般的な意味でこの語を用いはじめたのは,おそらくブールジェの《現代心理試論》(1883)からデカダンスについて学んだことに関係して,86年夏以来のことである(いわゆる〈受動的ニヒリズム〉)。彼はさらに同年末以降,ドストエフスキーの《主婦》《虐げられた人々》《死の家の記録》《悪霊》などをフランス語訳で読み,地下的・流刑囚的生活者の力強い意志,およびキリスト者の病的な心理について学ぶところがあった。かくして晩年のニーチェの精神史的洞察によれば,人々がプラトンのイデア論以来の形而上学的伝統を通じて,これまで真の実在だと信じこまされてきた超越的な最高の諸価値,特にキリスト教の道徳的諸価値が,今やその有効性を失って虚無化しはじめているが,たとえ根本的には虚無であったにしても,そういう超越的諸価値こそが真の実在だと信じられて,それによって人々がこれまで秩序ある共同生活を送ってきたことこそが,西洋の歴史を根本的に規定してきた論理であると考え,そういう西洋の歴史の論理そのものを彼はニヒリズムの本質と見る。…
…19世紀ロシアの政治的事件。ドストエフスキーが加わったことで有名。1844年ころから外務省の翻訳官であったペトラシェフスキーMikhail Vasil’evich Petrashevskii(1821‐66)の家に若いインテリゲンチャが集まるようになり,彼らは45年秋から〈金曜会〉と称して,毎週集まって議論をした。…
※「ドストエフスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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