デジタル大辞泉
「マルタン」の意味・読み・例文・類語
マルタン(Pierre Émile Martin)
[1824~1915]フランスの製鋼技術者。ジーメンスの蓄熱式反射炉の原理を利用して平炉製鋼法(ジーメンスマルタン法)を発明、転炉法より炭素の少ない鋼鉄を得ることに成功した。
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マルタン(Pierre-Émile Martin)
まるたん
Pierre-Émile Martin
(1824―1915)
フランスの製鉄技術者。鉱山大学で冶金(やきん)学を学ぶ。卒業後は父の経営するヌベール近くのフルホンボール製鉄所で10年間実地の経験を積み、アングレーム近くのシリュイルで銃身用鋼を主とする製鋼に専心した。優秀な鋼を製造するには高温を得る装置が必要と考え、シーメンズ兄弟の発明した蓄熱法の特許を買った。W・シーメンズも蓄熱法を適用した反射炉で溶鋼を製造しようと試みていたが、なかなか成功しなかった。高温のために炉壁が崩壊したり、原料の銑鉄やくず鉄の質を厳選しなければ良質の鋼は製造できないことを認識しなかったからである。その点で製鋼の経験のないシーメンズと違い、マルタンは熟達した製鋼技術者であった。炉壁を損壊しない温度管理、選ばれた銑鉄、くず鉄の最適の配合などによって優秀な鋼を製造でき、1867年のパリ万国博覧会に出品されて大評判になり、マルタン法の名は一躍有名になった。しかしこの方法は、シーメンズ兄弟の発明した蓄熱方式による高温発生の技術とマルタンの製鋼の熟練が結合したものなので、シーメンズ‐マルタン法とよばれることになり、一般にはオープン・ハース・プロセス(平炉法)とよばれる。20世紀には原料条件、ことにくず鉄を原料にできることなどにより生産性の高い転炉法をしのいで世界の製鋼法の支配的地位を占めたが、第二次世界大戦後、純酸素による転炉法が登場し、その適用範囲が拡大するに伴い、平炉は姿を消しつつある。
[中沢護人]
マルタン(Frank Martin)
まるたん
Frank Martin
(1890―1974)
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マルタン
スイスの作曲家,ピアノ奏者,ハープシコード奏者。牧師の息子としてジュネーブに生まれ,少年時代にJ.S.バッハに傾倒。同地でピアノや作曲を学ぶ。1918年―1925年チューリヒ,ローマ,パリで暮らしたのち1926年生地に落ち着き,室内音楽協会を設立してピアノおよびハープシコード奏者として活動。またジャック・ダルクローズと知り合い,1928年から10年余その研究所で即興演奏法やリズム理論を講じた。調性と12音技法(十二音音楽)を溶け合わせた特有のスタイルで知られ,新古典主義的な整然とした形式感の中に澄んだ抒情性をたたえた名作を数多く残している。作品に,ハープ,ハープシコード,ピアノと2つの弦楽オーケストラのための《小協奏交響曲》(1944年−1945年,改訂1946年),オラトリオ《魔法の酒》(1938年−1941年),同《ゴルゴタ》(1945年−1948年),《バイオリン協奏曲》(1951年),《ハープシコード協奏曲》(1952年),声と管弦楽のための《レクイエム》(1971年−1972年)などがある。→ハープシコード
→関連項目合奏協奏曲|キリスト教音楽|シュトックハウゼン|フルニエ
マルタン
フランスの製鋼技術者。父の製鋼工場で働いていたが,1864年シーメンズ式の蓄熱反射炉(平炉)による製鋼に成功,平炉はシーメンズ=マルタン炉と呼ばれる。晩年は貧窮,全欧の製鋼業者から年金を得た。
→関連項目シーメンズ
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マルタン
Pierre Martin
生没年:1824-1915
屑鉄を用いる平炉製鋼法を発明したフランスの冶金技術者。ブールジェ生れ。鉱山学校卒業後,シルールにあった父エミールEmileの製鉄所で働いた。1864年にシーメンズ式の平炉(W. シーメンズとF. シーメンズの兄弟が1861年に発明)を用い,溶融銑鉄に屑鉄を加えることによって,銑鉄中の炭素分を下げ鋼を製造することに成功した。66年にはシーメンズ兄弟とマルタン父子との間で平炉稼行の契約が成立した。マルタンの製品鋼は67年パリ博覧会で金賞を得た。89年建設のエッフェル塔の構造材料もシーメンズ=マルタン鋼であった。のち没落し,1910年にパリの場末で見いだされ,平炉法発明50周年を期に年金を送られた。
執筆者:原 善四郎
マルタン
Frank Martin
生没年:1890-1974
スイスの作曲家。スイス,イタリア,フランスに学び,1926年に生地ジュネーブに居を定め,室内楽協会を設立。鍵盤奏者として活躍する。一方,É.ジャック・ダルクローズ研究所で即興演奏法とリズム理論を教えたり,私立音楽学校長を務めるなど教育者としても活躍した。30年代以降に十二音技法や新古典主義的語法による重要作を生み出している。代表作は《バイオリン協奏曲》(1951)などの協奏的管弦楽曲である。
執筆者:平野 昭
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マルタン
Martin, Pierre-Émile
[生]1824.8.18. ブールジュ
[没]1915.5.23. フルシャンボー
フランスの製鋼技術者。父は鉄工所の経営者。当時,製鋼の方法はすでによく知られていたが,操業に必要な高熱を得るための有効な手段がなかった。 W.シーメンズが蓄熱炉を開発したことを聞いたマルタンは,この方式で溶鉱炉をつくる許可を得て,1863年まず 1t容量の実験炉を建設し溶鋼に成功。これはシーメンズ・マルタン法,または平炉製鋼法といわれる。できた鋼鉄は,67年パリ博覧会に出品して金メダルを得た。しかし彼の特許は,すでに発見された方法の単なる応用にすぎないとの理由で係争問題となり,訴訟は長引き,H.ベッセマー発明のベッセマー法の成功もあって,手痛い打撃を受けた。しかし,1907年全ヨーロッパの製鋼業者の援助によって立直った。 15年鉄鋼協会は,彼にベッセマー賞を贈った。
マルタン
Martin, Frank
[生]1890.9.15. ジュネーブ
[没]1974.11.21. ナルデン
スイスの作曲家。生地で J.ラウバーに師事。 1921年以後ローマ,パリで学び,帰国後はジャック=ダルクローズ音楽学校で教え,26年室内楽協会を設立して演奏活動にたずさわる。 46年からはアムステルダムに住み,52~57年ケルン音楽院で教鞭をとったが,のちスイスに戻った。初期の作品にはフランクなどの影響がみられるが,のち 12音技法により作曲。その後調性音楽に部分的に 12音技法を結合し,独特の作風を形成した。主作品『ハープ,チェンバロ,ピアノのための協奏交響曲』 (1946) ,『7つの管楽器,弦楽器と打楽器のための協奏曲』 (49) やオラトリオ『降誕の秘跡』 (57~59) ,『レクイエム』 (72) 。
マルタン
Martin, Germain
[生]1872. ルピュイ
[没]1948. パリ
フランスの経済学者,政治家。大学の法学部教授をつとめたのち,1928年の総選挙でエロール県選出の代議士となり,左翼共和派に属し,大臣職を数度歴任した。主著『ルイ 14世治下のフランスの信用貸の歴史』 Histoire du crédit en France sous le règne de Louis XIV (1913) ,『フランスの国家財政と私有財産』 Les finances publiques de la France et la fortune privée (14~25) 。
マルタン
Martin, (Bon-Louis-) Henri
[生]1810.2.20. サンカンタン
[没]1883.12.14. パリ
フランスの歴史家。『フランス史』 Histoire de France (15巻,1833~36,改訂版 16巻,61~65) を著わし,フランス文明のケルト的起源を強調する民族主義的史観を表明。 1867年には7巻の抄訳本が刊行された。彼はまた熱心な共和主義者で,71年国民議会議員,76年元老院議員に選ばれた。
マルタン
Martin, François
[生]1640頃.パリ
[没]1706.12.31. ポンディシェリー
フランスの植民地建設者。フランス東インド会社社員。 1664年マダガスカルに赴任,のちインドに転じ,オランダの圧力に対抗してフランスの勢力を扶植し,72年ポンディシェリーに商館を建設,商館長となった。
マルタン
Martin, Henri-Jean-Guillaume
[生]1860.8.5. ツールーズ
[没]1943.11. パリ
フランスの画家。 1879年パリに出て 83年のサロンに初出品し,点描法による装飾的な画風を確立。 1917年にアカデミー会員。主要作品は壁画『諸芸術』 (1895,パリ市庁舎) 。
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マルタン
1890年ジュネーブに生まれる。作曲家。8歳の頃から作曲を始める。音楽の機関では教育を受けておらず、和声と作曲、ピアノをヨーゼフ・ラウバーに師事。1926年ジャック‐ダルクローズ研究所にて音楽理論と作 ...続き
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
世界大百科事典(旧版)内のマルタンの言及
【鉄】より
…ベッセマーもはじめスウェーデン銑を使用したが,のちにイギリス,カンバーランドのヘマタイト(赤鉄鉱),スペインのビルバオ鉱石などから優秀なベッセマー銑を製造し,ベッセマー法の大規模な発展が始まる。 転炉法に続いて64年,フランスのP.マルタンが平炉法を工業化した。ジーメンス兄弟,次男のウィルヘルム(1823‐83)と三男のフリードリヒ(1826‐1904)の発明した蓄熱方式の反射炉による製鋼で,転炉法と並ぶもう一つの溶鋼法である。…
【鋼】より
…一方,18世紀ころから鋳鉄の製造法として反射炉が用いられはじめ大砲などが鋳造されていたが,イギリスのコートHenry Cort(1740‐1800)は,反射炉をさらにくふうして銑鉄の溶融だけでなく,溶融した銑鉄をかくはん(攪拌)することによって半溶融状の可鍛鉄をつくることに成功した。この反射炉はとくにパドル炉と呼ばれるが,19世紀後半W.シーメンズ,P.E.マルタンの努力によって反射炉はさらに改良され,溶融状態の鋼を容易に製造できる平炉がつくられた。それより少し前の1856年,H.ベッセマーは転炉法を発明したが,これは溶けた銑鉄を炉の中に入れ炉の底から空気を吹き込むことにより,銑鉄中の炭素やケイ素を酸化させ,その際発生する熱を利用して溶けた鋼をつくるというものである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」