三井高利(読み)ミツイタカトシ

デジタル大辞泉 「三井高利」の意味・読み・例文・類語

みつい‐たかとし〔みつゐ‐〕【三井高利】

[1622~1694]江戸前期の商人伊勢の人。通称八郎兵衛。江戸に越後屋屋号呉服店開業し、現金掛値なしの新商法を始めた。また、両替店を開き、幕府公金為替を引き受けるなどして急速に繁栄豪商三井家基礎を築いた。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「三井高利」の意味・読み・例文・類語

みつい‐たかとし【三井高利】

  1. 江戸初期の豪商。通称八郎兵衛。伊勢松坂三重県)の人。江戸・京都に越後屋の屋号で呉服店を開き店頭販売、現金定価販売などの新商法で繁昌させた。また、両替商を開業、幕府の為替御用となって、のちの三井家の基礎をつくった。元和八~元祿七年(一六二二‐九四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「三井高利」の解説

三井高利

没年元禄7.5.6(1694.5.29)
生年:元和8(1622)
江戸前期の豪商。三井家事業の創業者。通称八郎兵衛,法名宗寿。父三井則兵衛高俊(法名道鏡),母丹羽(三重県多気郡)の永井氏娘(法名殊法)の8人の子供の末子。祖父のころより伊勢松坂の裕福な商家で,その先祖は武士の出身という。両親は松坂で酒屋と質屋を兼営し,特に母珠法は商才に優れ,質素で勤勉な賢夫人で,家業も順調に盛んであった。高利はこの母の感化を強く受け,寛永10(1633)年12歳のとき父を失ったが,すでに長兄俊次が江戸本町4丁目に呉服店,京に仕入店を持ち,手広く商っていたので,同12年,母の命で小判10両分の松坂木綿を馬につけ,初めて江戸に出て,長兄の江戸店で商売を見習うことになった。高利は商機をみるに敏で商才に優れ,長兄の信頼を得て江戸店を支配するようになった。ところが高利も将来「江戸店持ち京商人」の理想を持っていて,江戸本町に店舗用の屋敷地を購入したことから,長兄は将来商売上の脅威になることを恐れ,高利を疎んずるようになり,慶安2(1649)年母を奉養する名目で松坂に帰されることとなった。高利28歳のときである。 松坂での高利は自ら金融業(大名貸,家中貸,郷貨)を行い,彼自身の資金の増殖をはかっていた。この間結婚して中川氏娘かね(寿讃)との間に10男5女をもうけ,この子供の成長を待って「江戸店持ち京商人」の理想を志していた。やがて寛文7(1667)年長男高平が15歳になると長兄の江戸店に見習に出し,次いで翌年次男高富15歳,さらに同12年3男高治16歳になると,同じく長兄の江戸店に見習に出す一方,番頭クラスの養成も心掛けていた。延宝1(1673)年長兄俊次が死去するにおよんで,高利の江戸出店の障壁が除かれることになり,長男高平に命じて江戸本町に間口9尺の店舗を借り,「越後屋八郎右衛門」の暖簾をかかげ,自らも高平と共に京都室町薬師町に間口8尺の仕入店を借りて呉服業を開始した。高利52歳のときである。 初め松坂に本拠を置き,子供達を動員して呉服事業を積極的に経営し,やがて江戸に両替店を併設,京都にも両替店を設けた。のち京都の新町六角下ルに松坂より本拠を移し,次いで大坂にも呉服店,両替店を設けた。かくして京都,江戸,大坂3都に呉服・両替業を展開,世評を博した。高利は「薄利多売現銀(金)掛値なし」「正札販売」の商法によって,大名,武士のみならず,多くの庶民の顧客を得て繁盛し,さらに幕府より公儀呉服御用達や金銀御為替御用達(一般に公金為替の請負という)を命じられ,一代にして総資産小判8万1250両(銀4875貫余)を蓄財した。 高利で特筆すべきことは,店の経営の非凡なことであって,生産者からの直買による商品の低価格化,店員の褒賞制,店員からの給金の運用預り,バーゲンセール,それに呉服物の小切販売,即座に仕立てるサービスなど新機軸を次々に実施している。また元禄7(1694)年病が重くなるや,「書置之次第」なる遺書を残し,三井家の事業の永続を考えて,強固な同族組織を形成し,事業資産を分割しないで共有とし,共同経営および利益を同族に一定の比率で配分する方式を考え出し,三井家隆盛の礎を築いた。高利の経営精神は家業・店則として江戸時代を通じて,三井の指導原理となり,今日にも強い影響を残している。墓地は京都・真如堂(京都市左京区の真正極楽寺)。<参考文献>三井家編「北家初代三井高利」(『稿本三井家史料』),同編『宗寿大居士行状』,中田易直『三井高利』,三井文庫編『三井事業史』本編1巻

(中田易直)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三井高利」の意味・わかりやすい解説

三井高利
みついたかとし
(1622―1694)

江戸前期の商人、三井家の家祖。通称八郎兵衛、剃髪(ていはつ)後宗寿(そうじゅ)。祖先は六角(ろっかく)佐々木氏に仕えた近江(おうみ)(滋賀県)の武士といわれ、則兵衛高俊(のりへえたかとし)(1633没)の四男。家は伊勢(いせ)松坂(三重県松阪市)の質屋と酒・みそ商。同国丹生(にゅう)(多気(たき)郡多気町)の名家永井氏から嫁いだ母殊法(しゅうほう)がもっぱら店を取り仕切っていた。14歳のとき江戸に出て長兄俊次(としつぐ)の営む呉服店越後屋(えちごや)に奉公し、やがてその店の経営をゆだねられた。28歳のとき帰郷。松坂の豪商中川氏の長女かね(15歳)を娶(めと)って独立し、江戸在勤中に自ら貯(たくわ)えた資金で大名貸(だいみょうがし)(紀州徳川家その他)、郷貸(ごうがし)(領内の村々への年貢引当(ひきあて)の貸付け)などの金融業を営んで蓄財。かねとの間に10男5女をもうけた。1673年(延宝1)長兄没後江戸日本橋本町一丁目(東京都中央区)に宿望の呉服店を開き、続いて京都室町に仕入店(しいれだな)を設けた。松坂と京都を往復して資金繰りと経営の指導にあたり、店々の実務は成長した息子たちに分担させた。1683年(天和3)一丁目店を駿河(するが)町に移し、「現銀安売無掛値(かけねなし)」の看板を掲げて現金による店頭での定価販売、布地の切り売りなどの新商法を始めて顧客層を広げるとともに、店内分業制や賞与制などの新しい管理法を創(はじ)め、同時に両替店(りょうがえだな)を開いて金融業の兼営を始めた。1687年(貞享4)関東絹、綿花、木綿を取り扱う綿店(わただな)を開設。1691年(元禄4)大坂に呉服店を開き、幕府の呉服御用・為替御用(かわせごよう)も引き受けて、三都に盛業した。晩年は京都に住み、元禄(げんろく)7年5月6日、73歳で、新町通六角下ルにあった両替店の奥の屋敷で没。妻や息子たちへの分与率を示した遺書によると一代で築いた遺産は7万両を超える。法名松樹院長誉宗寿居士。墓所は洛東(らくとう)真如堂(しんにょどう)(真正極楽寺)。

[三井礼子]

『中田易直著『三井高利』(1959・吉川弘文館)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「三井高利」の意味・わかりやすい解説

三井高利 (みついたかとし)
生没年:1622-94(元和8-元禄7)

江戸時代の呉服・両替商,財閥三井家の家祖。通称八郎兵衛。法号松樹院宗寿居士。高俊の四男。伊勢松坂の生れ。はじめ江戸の長兄俊次の店で修業。28歳まで在勤の後,母養育のため松坂に帰郷,郷貸や大名貸等を営んだ。1673年(延宝1)52歳のとき,江戸および京都に店を開き呉服業(越後屋)を創業。以後両替業も加え(1683年の江戸店が最初),三都に店を構えて活動した。遺産はおよそ7万~8万両と推定され,幕府御用達に名を連ねるまでに成功した。彼の商才は長兄からも疎まれるほどで,既存の呉服商等に対し,現銀掛値なし(現金定価販売),切売り,仕立既製品販売等(のち同業者の多くもこれを追随,標榜した)を持ち込み,あるいは幕府公金為替を請け負って呉服業その他に利用するなど革新的商法を創始した。数多くの子供に恵まれ,商売の各部門を担当させることができ,これが家の継続へとつながった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「三井高利」の意味・わかりやすい解説

三井高利【みついたかとし】

江戸初期の商人。三井家の始祖,通称八郎兵衛。1673年京都,続いて江戸に呉服店越後屋を開業。1683年には両替店も営み,〈現銀安売掛値なし〉の新商法で薄利多売,大いに繁盛した。幕府の御用商人となって為替を請け負い,巨富を残して三井家発展の基礎を築いた。
→関連項目三井財閥三井八郎右衛門

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三井高利」の意味・わかりやすい解説

三井高利
みついたかとし

[生]元和8(1622).松坂
[没]元禄7(1694).5.6. 京都
江戸時代前期の商人。豪商三井家の祖。通称,八郎兵衛。三井総領家初代八郎右衛門。法名,宗寿。伊勢松坂で質・酒商を営んでいた高俊の4男。松坂で米の売買や大名貸,郷貸などで産をなし,延宝1 (1673) 年京都,江戸に越後屋の屋号で呉服店を開業,薄利多売の新商法「現銀掛値なし」は大いに成功した。天和3 (83) 年に江戸,元禄4 (91) 年には大坂に両替商を開業,江戸幕府の御為替 (おかわせ) 御用として活躍。その営業政策は積極的で,店内における分業制,賞与制などの新機軸を打出した。没後,8万 1000両余と推定される巨額の遺産を残し,三井家繁栄の基を築いた。晩年は京都に移った。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三井高利」の解説

三井高利 みつい-たかとし

1622-1694 江戸時代前期の豪商。
元和(げんな)8年生まれ。三井高俊(たかとし)の4男。生地の伊勢(いせ)(三重県)松坂で大名貸しなどの金融業をいとなむ。延宝元年(1673)江戸に越後屋(えちごや)呉服店(現三越)をひらき,薄利多売,現金掛値なしの新商法で成功。両替店も併設して幕府の為替御用をうけおい,江戸,京都,大坂の三都で巨富をつんだ。豪商三井家の家祖。妻は三井寿讃。元禄(げんろく)7年5月6日死去。73歳。通称は八郎兵衛。法名は宗寿。
【格言など】堅(かた)く奢侈(しゃし)を禁じ,厳しく節倹を行うべし(「家訓」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「三井高利」の解説

三井高利
みついたかとし

1622~94.5.6

江戸前期の豪商。三井家経営の創始者。父は高俊,母は殊法。通称は八郎兵衛。法名は宗寿。伊勢国松坂生れ。江戸の長兄三郎左衛門俊次の店で働き,10余年後に松坂に戻って大名貸しや郷貸しを行った。10男5女をもうけ,長男高平・次男高富・三男高治らを俊次の店で働かせた。1673年(延宝元)俊次が没すると,高平・高富らに江戸で越後屋呉服店を開かせ,京都にも仕入店を開いた。江戸の呉服店を開くにあたり現金掛値なしという新しい経営方針を示し,越後屋は江戸有数の呉服店になった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の三井高利の言及

【三井銀行[株]】より

…三井グループの中核。前身は1683年(天和3)三井高利が江戸に創業した三井両替店。その後,大坂,京都にも両替店を開設,91年(元禄4)大坂の両替店が幕府の御為替組の指定を受けた。…

※「三井高利」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android