朝日日本歴史人物事典 「二階堂貞藤」の解説
二階堂貞藤
生年:文永4(1267)
鎌倉後期の吏僚。鎌倉幕府政所執事。父は行藤。法名は道蘊。永仁3(1295)年に幕府政所奉行人としてみえ,正安1(1299)年以降,鎌倉幕府末期に鎌倉と京都の調停のため,たびたび東使として上洛した。嘉暦4(1329)年の上洛では量仁親王(のち光厳天皇)の践祚・立坊の交渉の任に当たった。元徳2(1330)年に引付頭人,正慶1(1332)年に政所執事となる。元弘の変(1331)では幕府軍を指揮。北条氏滅亡後は建武政権の雑訴決断所に入ったが,六条河原で息子・兼藤らと共に斬られた。冷泉為相と交流するなど和歌・儒学に通じ自身「賢人」と自称した。禅宗に傾倒し,夢窓疎石を招いて鎌倉瑞泉寺を開き所領の甲斐国牧荘に恵林寺が建立された。<参考文献>多賀宗隼「二階堂貞藤の一書状」(『金沢文庫研究』214号),立花みどり「長崎氏と二階堂道蘊」(『鑑賞日本古典文学』21号),佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』
(福島金治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報