八百比丘尼(読み)はっぴゃくびくに

改訂新版 世界大百科事典 「八百比丘尼」の意味・わかりやすい解説

八百比丘尼 (はっぴゃくびくに)

〈やおびくに〉ともいう。800歳に達したという伝説上の老比丘尼で,全国を旅したといわれている。福井県小浜市の空印寺の洞穴に住み,その容貌は美しく,15,16歳のように見えたという。若さを保っているのは,禁断の霊肉である人魚の肉あるいは九穴の貝(アワビ)を食べたためと伝えられ,たいてい異人饗応譚が伴っている。新潟の佐渡島に伝わる話では,八百比丘尼はここで生まれ,人魚の肉を食べて1000年の寿命を得たが,200歳を国主に譲り,自分は800歳になったときに若狭に渡って死んだと伝えている。八百比丘尼の像は,花の帽子をかぶり,手に玉と白椿の花をもっている座像である。ツバキは東北地方の海岸部に森となって繁茂し,そこは聖域とみなされている。ツバキは春の木であり,この木が春の到来を告げるものという信仰があったと想像されている。八百比丘尼が,神樹であるツバキをもって,諸国を巡歴したという伝説は,旅の巫女による奇跡を物語っているのだろう。隠岐島には,八百比丘尼が植えたという八百比丘尼の杉がある。《諸国里人談》によると武蔵国足立郡水波田村(現,大宮市)の慈眼寺仁王門のかたわらに,巨大なエノキがあり,これも若狭の八百比丘尼が植えたという伝説が伴っていた。

 人魚の肉を食べたのは,庚申こうしん)の夜だったという言い伝えもあり,この伝説が,庚申講の夜籠りのときに語られたことを示唆している。1449年(宝徳1)の5月に実在の八百比丘尼(白比丘尼)が若狭国から上洛し京に出現したという記事が,《康富記》や《臥雲日件録》に見られる。《本朝神社考》でも,この比丘尼の父親が山中で異人にあい,招かれて人魚の肉をすすめられたが,食べずに帰ったのを娘が食べて長寿になったと記している。その姿は御簾の奥で見られなかったが,見物人が多数集まったという。女性の旅の宗教者の回国の状況をうかがわせるが,一方に山姥のイメージもあり,たえず再生する女の霊力を感じさせる伝説といえる。なお,若狭の八百比丘尼は,源平の盛衰をまのあたりに見,とくに修験者の姿に身をやつした義経・弁慶の一行が北国街道を下るのに出合った,と語ったとされている。義経の家臣の清悦もニンカンという魚を食べて400年も長生きし,義経のことを後に詳しく語ったと《清悦物語》にある。
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朝日日本歴史人物事典 「八百比丘尼」の解説

八百比丘尼

人寿800歳に達したとされる長命の比丘尼。全国を旅したという伝説が各地に残っている。これら伝説の中心と目されているのは,北陸から能登地方である。福井県小浜市の空印寺の洞穴で入定したといわれる八百比丘尼は,長寿であるにもかかわらず,その容貌は,15,6歳くらいの若い女性のように見えたという。若さを保っているのは,禁断の肉である人魚の肉あるいは九穴の貝(あわび)を食べたためであると伝えられている。新潟県の佐渡島の伝説では,八百比丘尼は,人魚の肉を食べ1000年の寿命を得たが,200歳の分を国主に譲り,自分は800歳になって若狭の小浜で死んだと伝えている。文献のうえでは,中世室町時代の記録『康富記』や『臥雲日件録』に,文安6(1449)年5月,八百比丘尼が若狭より上京したことを記している。八百比丘尼像の特徴は,手に椿の花を持っていることである。北陸から東北地方にかけての沿岸部には,椿がまとまって茂る聖地が点在している。椿は,春の到来を告げる花とみなされ,椿の繁茂する森は信仰の対象となっていた。旅をする遍歴の巫女が,椿の花を依代にして神霊を招いたものと想像されている。八百比丘尼の別称は白比丘尼という。白のシラは,再生するという古語であり,シラ比丘尼の長寿は,巫女の特つ霊力とかかわるものであろう。

(宮田登)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「八百比丘尼」の意味・わかりやすい解説

八百比丘尼
はっぴゃくびくに

八百歳まで生きたという伝説上の女性。年をとっても娘のような白い肌をしていたことから白(しら)比丘尼ともよばれる。比丘尼とは戒律を受けた女子のことである。新潟県佐渡(さど)市南部の旧羽茂(はもち)町地域に八百比丘尼の伝説がある。庚申(こうしん)講に加わった男が次の講に人々を招く。台所をのぞくと人魚を料理している。だれも手をつけないが、ある人が捨て忘れて家に持ち帰ったのを、その家の娘が食べてしまう。娘は年をとらないわが身をかえってはかなみ、生地を離れて諸国を巡り、八百歳で若狭(わかさ)の地で入定(にゅうじょう)したという。多少の相違はあるが、この話はほぼ全国に分布している。比丘尼の植えた杉や椿(つばき)、屋敷跡、洞穴など具体的な事物に結び付いて伝えられている。中世に熊野(くまの)比丘尼が絵解きをしながら各地を巡遊したように八百比丘尼を名のる集団があって、この伝説を広めたと推測される。文献では、室町時代に若狭から八百比丘尼が京都に現れ、評判になったことが記されている。

[野村純一]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「八百比丘尼」の解説

八百比丘尼 はっぴゃくびくに

長寿伝説の尼。
人魚の肉をたべて800歳までいきたとされ,肌が娘のように白く白(しら)比丘尼ともよばれる。若狭(わかさ)(福井県)小浜の空印(くういん)寺を中心に,植樹伝説や椿をもって諸国を巡歴した話が各地に分布する。宝徳元年(1449)若狭から京都にあらわれたという記事が「康富記」「臥雲日件録」にみえる。「やおびくに」ともいう。

八百比丘尼 やおびくに

はっぴゃくびくに

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の八百比丘尼の言及

【八百比丘尼】より

…若さを保っているのは,禁断の霊肉である人魚の肉あるいは九穴の貝(アワビ)を食べたためと伝えられ,たいてい異人饗応譚が伴っている。新潟の佐渡島に伝わる話では,八百比丘尼はここで生まれ,人魚の肉を食べて1000年の寿命を得たが,200歳を国主に譲り,自分は800歳になったときに若狭に渡って死んだと伝えている。八百比丘尼の像は,花の帽子をかぶり,手に玉と白椿の花をもっている座像である。…

【人魚】より

…上半身が人間という形での人魚像はおそらく西洋からの導入であり,江戸期以降に《和漢三才図会》や《六物新志》などの文献がこれを広めたらしい。なお,日本には人魚の肉が不老長寿の薬だとする俗信があり,若狭小浜の八百比丘尼の伝説は特に知られている。 ちなみに,西洋における人魚に対する科学的見解は時代によって変化している。…

【比丘尼】より

…やがて〈小歌を便に色をうる〉(《人倫訓蒙図彙》)歌比丘尼に零落した。東北から中国,四国地方にかけて,各地に白(しろ)比丘尼,八百比丘尼の伝承がのこっている。1449年(宝徳1)には,白髪の巫女めいた老尼が都に現れ,みずから若狭白比丘尼とも八百歳老尼とも称したという(《康富記》《臥雲日件録》)。…

※「八百比丘尼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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