広瀬武夫(読み)ヒロセタケオ

デジタル大辞泉 「広瀬武夫」の意味・読み・例文・類語

ひろせ‐たけお〔‐たけを〕【広瀬武夫】

[1868~1904]軍人海軍中佐大分の生まれ。日露戦争中、旅順港閉鎖にあたり、自沈船の福井丸を指揮し、行方不明の杉野孫七兵曹長を退避の最後まで捜すうち、ボート上で被弾戦死。軍神とうたわれた。

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精選版 日本国語大辞典 「広瀬武夫」の意味・読み・例文・類語

ひろせ‐たけお【広瀬武夫】

  1. 軍人。海軍中佐。大分県出身。日露戦争中、旅順港閉鎖にあたり自沈船の福井丸の指揮官となり、行方不明の杉野孫七兵曹長を探す中、砲火を浴びて戦死。軍神とうたわれた。慶応四~明治三七年(一八六八‐一九〇四

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20世紀日本人名事典 「広瀬武夫」の解説

広瀬 武夫
ヒロセ タケオ

明治期の海軍中佐



生年
慶応4年5月27日(1868年)

没年
明治37(1904)年3月27日

出生地
豊後国直入郡竹田町(大分県竹田市)

学歴〔年〕
海兵(15期)〔明治22年〕卒

経歴
明治24年海軍少尉となり、27年日清戦争には運送船監督、戦艦扶桑航海士として従軍。30年ロシアに留学、同駐在武官となり、英、独、仏などを視察。33年少佐、35年帰国。37年日露戦争に戦艦朝日の水雷長として従軍し、第1回旅順閉塞作戦に参加、第2回閉塞に福井丸の指揮官となるが、ロシアの魚雷に当り自爆。その際行方不明となった部下の杉野孫七上等兵曹を捜してボートに移ったが、敵弾に当り戦死した。死後中佐となる。その部下を思う心は指揮官の亀鑑として軍人精神教育の好材料とされ、“軍神”に祭り上げられ、小学唱歌にも歌われた。東京・神田須田町に建てられた銅像は第二次大戦後に撤去された。また郷里には広瀬神社が建立されている。大分県教育会編「広瀬中佐詳伝」、有馬成甫「軍神広瀬中佐伝」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「広瀬武夫」の意味・わかりやすい解説

広瀬武夫
ひろせたけお
(1868―1904)

海軍軍人。大分県出身。1889年(明治22)海軍兵学校卒業。1897年ロシア留学、1899年ロシア駐在武官となり、1902年(明治35)戦艦「朝日」の水雷長となる。日露戦争開戦後の1904年3月、ロシア海軍の根拠地旅順(りょじゅん)港の汽船による閉塞(へいそく)戦に参加して戦死し、中佐に進級。その最期文部省唱歌『広瀬中佐』により歌い広められ、国定教科書にも登場するなど軍神として聖化され、軍国主義イデオロギー鼓吹のためのかっこうの材料にされた。

[吉田 裕]


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改訂新版 世界大百科事典 「広瀬武夫」の意味・わかりやすい解説

広瀬武夫 (ひろせたけお)
生没年:1868-1904(明治1-37)

明治期の海軍軍人で,日露戦争の軍神とされた。大分県生れ。1889年海軍兵学校卒業(第15期),97年ロシア留学,次いで同駐在武官,少佐となり,1902年帰国,戦艦〈朝日〉水雷長。日露開戦後第1回旅順閉塞隊に参加。第2回にも福井丸を指揮して参加し,乗船がロシア駆逐艦の魚雷と自爆によって沈没しかかり,退船しようとしたとき,上等兵曹杉野孫七がいないのに気づき,単身船内を捜索ののち端舟に移り引き揚げるとき,砲弾の直撃をうけ一片の肉片を残しただけで戦死した。果敢な作戦への2度の参加と部下思いの真情が報じられると軍神広瀬中佐の名はたちまちに高まり,文部省唱歌《広瀬中佐》は永く愛唱された。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「広瀬武夫」の解説

広瀬武夫

没年:明治37.3.27(1904)
生年:明治1.5.27(1868.7.16)
明治期の海軍軍人。竹田藩(大分県竹田市)の藩士で裁判官広瀬重武の次男。兄勝比古は海軍少将。「朝日」の水雷長から日露戦争(1904)初頭の旅順港閉塞作戦に志願し,37歳で戦死。特別な功績はないが,海軍の軍神第1号にされ士気高揚に利用された。軍人の鑑として小・中学校教科書に登場,「広瀬中佐の歌」は広く流布した。<参考文献>田中宏巳「小笠原長生の『軍神製造』演出ノート」(『新潮45』1985年5月号)

(田中宏巳)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「広瀬武夫」の意味・わかりやすい解説

広瀬武夫
ひろせたけお

[生]慶応4(1868).5.27. 大分
[没]1904.3.27. 旅順
海軍軍人。旧竹田藩士で裁判官の広瀬重武の次男。 1889年海軍兵学校卒業。横須賀水雷隊艇長 (大尉) ,軍令部出仕,ロシア留学,朝日水雷長 (少佐) などを歴任。 1904年日露戦争の初期,旅順港閉塞作戦を行うことになり,自沈船『福井丸』の指揮官として砲火をおかして目的位置に達した。途中姿が見えなくなった杉野孫七兵曹長を捜すうちに退避が遅れて戦死。死後中佐に進級,軍神として著名になった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「広瀬武夫」の解説

広瀬武夫 ひろせ-たけお

1868-1904 明治時代の軍人。
慶応4年5月27日生まれ。広瀬勝比古の弟。ロシアに留学後,ロシア駐在武官となる。戦艦朝日の水雷長として日露戦争に従軍。第2回旅順港閉塞(へいそく)作戦で福井丸を指揮,同船の沈没間際まで行方不明の部下杉野孫七をさがしつづけ明治37年3月27日戦死。37歳。死後中佐となり,軍神とたたえられた。豊後(ぶんご)(大分県)出身。海軍兵学校卒。

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百科事典マイペディア 「広瀬武夫」の意味・わかりやすい解説

広瀬武夫【ひろせたけお】

海軍軍人。豊後(ぶんご)国竹田(たけた)町生れ。日露戦争に従軍し,旅順口閉塞作戦でゆくえ不明となった部下の杉野孫七を捜しているときに戦死。死後少佐から中佐になり〈軍神〉とされた。→旅順攻略

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367日誕生日大事典 「広瀬武夫」の解説

広瀬 武夫 (ひろせ たけお)

生年月日:1868年5月27日
明治時代の海軍軍人
1904年没

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世界大百科事典(旧版)内の広瀬武夫の言及

【軍神】より

…なかでも八幡大神は源氏の人々が格別の崇敬を払ったことから,最も広く軍神として崇拝されてきた。【大原 康男】
[近代日本の軍神]
 戦死した軍人のなかでとくに軍人のかがみとして神格化された存在で,日露戦争時の海軍の広瀬武夫中佐,陸軍の橘周太中佐がその最初であるが,一般兵士に軍神の称が冠せられたことはない。1869年(明治2)に東京九段に招魂社(1879年に靖国神社と改称し別格官幣社に列した)が創建され,戊辰戦争以来の官軍の従軍戦没者全員が祭神として合祀されて以後,従軍戦没者はすべて靖国の神として祭られることになった。…

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