後藤 文夫
ゴトウ フミオ
- 肩書
- 元・内相,元・参院議員(緑風会)
- 生年月日
- 明治17年3月7日
- 出生地
- 大分県
- 学歴
- 東京帝大政治学科〔明治41年〕卒
- 経歴
- 内務省に入り、内相秘書官、台湾総督府総務長官などを経て、昭和5〜20年勅選貴院議員。7年斎藤内閣の農相、9年岡田内閣の内相、18年東条内閣の国務大臣を歴任。この間近衛文麿らと新日本同盟を結成、大政翼賛会副総裁、東亜振興会副総裁、大日本防空協会理事長などをつとめた。また11年2.26事件の時は私邸にいて難を免れ、事件後首相臨時代理として事件処理をした。戦後、28年大分地方区から緑風会で参院議員に当選。31年日本青年館理事長。
- 受賞
- 藍綬褒章〔昭和35年〕 勲一等旭日大綬章〔昭和46年〕
- 没年月日
- 昭和55年5月13日
- 家族
- 息子=後藤 正夫(参院議員・法相) 後藤 米夫(東京学芸大学名誉教授)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
後藤文夫
ごとうふみお
(1884―1980)
内務官僚、政治家。大分県生まれ。東京帝国大学政治学科卒業後、内務省に入る。各県の事務官などを経て、1922年(大正11)警保局長となる。1924年台湾総督府総務長官、1930年(昭和5)貴族院議員。この間、伊沢多喜男系の民政党官僚として重きをなす。また、青年団運動を指導して日本青年館理事長を務めた。その後、国維会理事として「新官僚」運動を推進し、1932年斎藤実(さいとうまこと)内閣農相として農山漁村更生運動を指導。1934年岡田啓介内閣内相に就任、選挙粛正運動を行った。1936年二・二六事件直後、臨時首相代理となる。第二次世界大戦中は大政翼賛会副総裁、東条英機(とうじょうひでき)内閣国務相などを歴任。終戦後、公職追放。解除後の1953年参議院議員に当選、緑風会に加入。伝記に『青年と歩む後藤文夫』がある。
[小田部雄次]
『中村宗悦著『評伝日本の経済思想 後藤文夫――人格の統制から国家社会の統制へ』(2008・日本経済評論社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
後藤 文夫
ゴトウ フミオ
大正・昭和期の政治家 元・内相;元・参院議員(緑風会)。
- 生年
- 明治17(1884)年3月7日
- 没年
- 昭和55(1980)年5月13日
- 出生地
- 大分県
- 学歴〔年〕
- 東京帝大政治学科〔明治41年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 藍綬褒章〔昭和35年〕,勲一等旭日大綬章〔昭和46年〕
- 経歴
- 内務省に入り、内相秘書官、台湾総督府総務長官などを経て、昭和5〜20年勅選貴院議員。7年斎藤内閣の農相、9年岡田内閣の内相、18年東条内閣の国務大臣を歴任。この間近衛文麿らと新日本同盟を結成、大政翼賛会副総裁、東亜振興会副総裁、大日本防空協会理事長などを務めた。また11年2.26事件の時は私邸にいて難を免れ、事件後首相臨時代理として事件処理をした。戦後、28年大分地方区から緑風会で参院議員に当選。31年日本青年館理事長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
後藤文夫 (ごとうふみお)
生没年:1884-1980(明治17-昭和55)
官僚,政治家。大分県出身。東大卒業後,内務省に入り警保局長,台湾総督府総務長官などを経て,1930年貴族院議員となる。その後,32年には斎藤実内閣の農相に就任し恐慌の打撃克服のために農山漁村経済更生運動を指導して農村の組織化にあたる。この間,安岡正篤らによる国維会に参加し,新官僚の指導的メンバーと目された。34年岡田啓介内閣の内相に就任,選挙の国家的統制を目的とした選挙粛正運動を推進した。以後,大政翼賛会副総裁などを務め,43年には東条英機内閣の国務大臣。敗戦後,A級戦犯に指名されたが,公職追放解除後,53年に参議院議員に当選,緑風会に所属した。
執筆者:吉田 裕
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
後藤文夫【ごとうふみお】
政治家。大分県生れ。1908年東大卒後内務省に入る。台湾総督府総務長官などを経て1930年貴族院議員。新官僚の中心として農村匡救(きょうきゅう)事業を進め,この間安岡正篤(まさひろ)らによる国維会に参加。斎藤実・岡田啓介両内閣に入閣。国内戦時体制指導者として重きをなし大政翼賛会副総裁。第2次大戦後A級戦犯に指名され,公職追放。解除後,1953年―1959年緑風会所属の参議院議員。
→関連項目昭和研究会
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
後藤文夫
ごとうふみお
[生]1884.3.7. 大分
[没]1980.5.13. 東京
内務官僚。 1908年,東京大学政治学科を卒業。 22~23年内務省警保局長,のち台湾総督府総務長官をつとめた。新官僚のリーダーといわれ,32年斎藤実内閣の農相,34年岡田啓介内閣の内相 (二・二六事件では首相臨時代理) ,大政翼賛会副総裁,43年東条英機内閣の国務相を歴任。第2次世界大戦後,公職追放されたが,53年参議院議員として政界に復帰した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
後藤文夫 ごとう-ふみお
1884-1980 大正-昭和時代の政治家。
明治17年3月7日生まれ。内務省警保局長などを歴任。大正14年近衛文麿(このえ-ふみまろ)らと新日本同盟を結成し,青年団運動を指導。昭和7年国維会を組織,斎藤内閣農相となる。のち岡田内閣内相,大政翼賛会副総裁,東条内閣国務相などをつとめた。28年参議院議員。昭和55年5月13日死去。96歳。大分県出身。東京帝大卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
後藤 文夫 (ごとう ふみお)
生年月日:1884年3月7日
大正時代;昭和時代の政治家。内相;参議院議員
1980年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の後藤文夫の言及
【革新官僚】より
…満州事変後,親軍的な官僚層の勢力が増大するとともに,統制強化の動きが各方面に広がり,とくに[農山漁村経済更生運動],[選挙粛正運動]などの新たな組織化が注目されたが,こうした官僚主導型の政治改革を意図するグループが〈新官僚〉と呼ばれるようになった。1935年岡田啓介内閣が国策調査機関として設置した内閣調査局は,これら新官僚の活動の場となり,後藤文夫,吉田茂(戦後の首相とは別人)らの内務官僚が主流をなした。革新官僚とは,この新官僚につづく,より若い官僚を指しており,内閣調査局が企画庁となり,さらに日中戦争の全面化とともに,資源局と合して企画院に発展する過程で,総動員計画の作成にあたるようになる経済官僚がその中心になっていた。…
【国本社】より
…前年の[虎の門事件]に衝撃をうけた平沼が,〈国体ノ精華ヲ顕要スル〉ことを目的として結成した,反政党政治・反国際協調の傾向を強くもつ団体である。メンバーは平沼系の判事,検事が中心であるが,荒木貞夫,宇垣一成,後藤文夫,池田成彬などの軍人や内務省などの高級官僚,財界人をも組織した点に特色がある。地方支部でも司法官や地方政財界の名士を多数組織しており,市役所,裁判所内に事務所を設けている支部も多かった(支部39,会員1万7816名,1935年時の官憲資料)。…
【新官僚】より
…既成政党に従属的であったそれまでの官僚主流に対比して,政党の支配を脱しようとする姿勢に,当時としての〈新しさ〉が感じられた。五・一五事件を機に成立した斎藤実内閣の農相に登用され,経済更生運動を指導した[後藤文夫]をはじめ,次の岡田啓介内閣の組閣参謀となり内閣書記官長に就任した河田烈,同内閣が設置した内閣調査局の初代長官となった吉田茂(戦後の首相とは別人)などがその中心とみられた。大正後期から,青年団運動,[選挙粛正運動]などを推進するなかで,一定の連携をつくりあげてきた勢力であり,[国維会]はその背後にある組織として注目された。…
※「後藤文夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」