江戸中期の石門心学(せきもんしんがく)者。名は喬房(たかふさ)、信(まこと)。字(あざな)は応元(おうげん)、通称は近江屋源右衛門(おうみやげんえもん)、東郭(とうかく)先生。堵庵と号した。享保(きょうほう)3年5月13日京都に生まれる。石田梅岩(ばいがん)に学び、師の説を平易化し、信と正直を主徳として心の平安を獲得することを強調した。また五楽舎、修正舎、時習社、明倫舎などの心学講舎を各地に設立し、布教に成果をあげ、天明(てんめい)6年2月9日69歳で没。主著に『坐談(ざだん)随筆』(1771)『知心弁疑(ちしんべんぎ)』(1773)『前訓』(1773)『朝倉新話』(1780)などがある。門下から中沢道二(なかざわどうに)、脇坂義堂(わきさかぎどう)(?―1818)らが出た。
[今井 淳 2016年6月20日]
『『増補 手島堵庵全集』全1巻(1973・清文堂出版)』▽『白石正邦編『手島堵庵心学集』(岩波文庫)』
(石川松太郎・天野晴子)
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江戸時代中期の石門心学者。名は信,通称は近江屋源右衛門。堵庵は号。京都の裕福な商家に生まれ,父宗義の薫陶を受け,18歳で石田梅岩の門に入り,やがてその後継者となって心学二世と呼ばれている。平易な言葉で師説を祖述し,心学講舎の制をたてて,教化の普及につくした。《知心弁疑》など著書は20種に及ぶ。また幼児教育にも努め,《前訓》という手引書も著している。《手島堵庵全集》全1巻(1931)がある。
執筆者:竹中 靖一
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1718.5.13~86.2.9
江戸中期の心学者。名は信,通称は近江屋源右衛門,のち嘉左衛門,堵庵は号。京都の商家に生まれ,18歳で石田梅岩(ばいがん)に入門。44歳で家業を長男に譲り,以後心学の普及に専念。心学運動の趣旨と規則を定めた「会友大旨」を制定し,運動の中心である明倫舎ほか3舎を設立するなど,運動の組織化と統制に努めた。その教説は梅岩の思想の社会批判の面を弱めて,保守的な自己修養を中心とするものであった。著書「知心弁疑」。
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…梅岩は商人を市井の臣としてその社会的職分を強調し,商業道徳の確立を説いた。梅岩の後を継いだ手島堵庵(とあん)は師の思想を平易化するとともに,心学の同志が集まって切磋琢磨(せつさたくま)する組織として梅岩以来の月次の研究会を会輔と名づけ,会輔席にあてる講舎の制をたてた。京都では堵庵の自宅をあてた五楽舎のほか,明倫舎,脩正舎,時習舎の3舎ができ,この3舎が心学の本山となって,ここから各種の認可証が発行され,これを三舎印鑑といった。…
※「手島堵庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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