日本大百科全書(ニッポニカ) 「日比谷焼打事件」の意味・わかりやすい解説
日比谷焼打事件
ひびややきうちじけん
日露戦争講和条約反対に端を発する民衆暴動。1905年(明治38)9月5日、ポーツマス条約に不満をもつ対露同志会を中心とする講和問題同志連合会が、日比谷公園において国民大会開催を計画。政府は事前に大会を禁止、実行委員を検束、公園を封鎖したが、集まった数万人の民衆は大会を強行した。終了後、街頭に出た民衆は投石を行い警官隊と衝突、また御用新聞の国民新聞社や内相官邸を数千から万を超える民衆が包囲したため、ここでも警官隊と衝突、抜剣した警官により多数の負傷者が出た。夕刻には民衆は東京市内の警察署、派出所、交番を襲い、2警察署、6警察分署、203派出所・交番を焼き打ち、破壊。翌6日も騒擾(そうじょう)は続き、焼け残った警察署、交番が襲撃され、キリスト教会13、電車15台が焼かれた。
このため政府は東京市および府下4郡に戒厳令を敷き、新聞・雑誌の発売禁止・発行停止を行った。7日にも警察官署2か所が襲われたが、ようやく騒ぎが鎮まった。市内約7割の交番・派出所が焼かれ、負傷者2000人、死者17人、検束者2000人(うち起訴者308人)に及ぶ大きな騒擾であった。参加者は職工、職人、人足など戦争のしわ寄せをもっとも受けた都市無産大衆で、日比谷焼打事件は一面で排外主義の要素をもつものの、藩閥専制政治に抗した運動であり、この後の大正デモクラシー運動の出発点に位置するといえる。非講和運動は全国に波及し、約1か月間、各地で騒擾を伴いつつ展開された。
[成田龍一]
『松本武裕「所謂日比谷焼打事件の研究」(司法省刑事局編『思想研究資料 特輯50』1939/復刻版・1974・東洋文化社)』▽『中村政則・江村栄一・宮地正人著『日本帝国主義と人民』(『論集日本歴史12 大正デモクラシー』所収・1977・有精堂出版)』▽『松尾尊兌著『大正デモクラシー』(1974・岩波書店)』