村田清風(読み)ムラタセイフウ

精選版 日本国語大辞典 「村田清風」の意味・読み・例文・類語

むらた‐せいふう【村田清風】

  1. 幕末の長州藩士。通称四郎左衛門。号は松斎。資性弘毅果断、経綸の才に富んで経済に通じた。天保一一年(一八四〇)当役用談役として藩政改革をすすめ、財政の確立、士風の作興、文武の精励に努めたが失脚。しかし、長州藩の借財もなくし維新推進の基礎となった。天明三~安政二年(一七八三‐一八五五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「村田清風」の意味・わかりやすい解説

村田清風
むらたせいふう
(1783―1855)

幕末期長州藩の藩政改革の推進者。大組(おおぐみ)(馬廻組(うままわりぐみ))士、禄高(ろくだか)50石の家に生まれ、父は代官であった。初名順之(よりゆき)、のち清風。通称は四郎左衛門。少年時、藩校明倫館(めいりんかん)で学び、のち江戸へ出て塙保己一(はなわほきいち)に学ぶが、このころより海防について深い関心を抱く。1819年(文政2)家督相続後藩府に出仕し、各職座を歴任して頭角を現した。とくに13代藩主毛利敬親(もうりたかちか)に重用され、1838年(天保9)表番頭(おもてばんがしら)に抜擢(ばってき)されてからは、天保(てんぽう)の改革の立案・推進者となった。天保改革は(1)江戸藩校有備館(ゆうびかん)の設立、(2)西洋式大操練の実施、(3)淫祠(いんし)の解除、(4)農村の実態調査、(5)藩校明倫館の改築と整備、(6)藩直営の会所の拡充、(7)藩専売制の強化などであり、この政策は清風の立案したものであった。しかし、1844年(弘化1)反対派の坪井九右衛門(くえもん)に政務の実権を奪われ、郷里大津郡三隅(みすみ)村(山口県長門(ながと)市三隅)に引きこもる。同所で近隣の子弟の教育にあたり、一時要職に復帰するが、安政(あんせい)2年死去。

[広田暢久]

『山口県教育会編『村田清風全集』全2巻(1985・マツノ書店)』『真鍋繁樹著『義なくば立たず――幕末の行財政改革者・村田清風』(1996・講談社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「村田清風」の意味・わかりやすい解説

村田清風 (むらたせいふう)
生没年:1783-1855(天明3-安政2)

幕末の長州藩士。正しくは〈きよかぜ〉。大津郡三隅村の郡代官の家に生まれる。初名は順之で,四郎左衛門,晩年に織部と称する。藩校明倫館に学び,右筆役に就いて異船防御のため,後に神器陣として知られる新軍制を研究し,能吏として認められた。1838年(天保9)仕組掛に任じ,その後,手元役,用談役と昇進して天保藩政改革を推進した。商業高利貸資本の抑圧や藩政の復古を政策として掲げ,莫大な藩債を整理し,藩営専売を再編成し,越荷方(倉庫・金融業の役所)の経営を行い,また藩内綱紀の粛清のために評定所を強化した。43年37ヵ年賦皆済仕法で商業資本犠牲により家臣団を救済しようとし,商人坪井九右衛門らの反対のために辞任した。55年(安政2)後継者の周布(すふ)政之助に政府へ迎えられたが,直後に病死した。村田と坪井の2派は,激動期の藩内の正義派と俗論派の対立に継続し,維新まで影響を与えた。
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百科事典マイペディア 「村田清風」の意味・わかりやすい解説

村田清風【むらたせいふう】

長州萩(はぎ)藩士。〈むらたきよかぜ〉とも。通称織部(おりべ)。藩校明倫館で学んだ。右筆となり,その能力を高く評価される。1838年仕組掛に任じられ,以後昇進しながら天保藩政改革を推進,殖産興業・兵制改革等に手腕を発揮。1843年には商業資本を犠牲として家臣団救済のために借金の37ヵ年賦皆済方式を採用したが,商人や坪井九右衛門ら反対派のため数年で引退させられた。その後も萩藩では村田派と坪井派の対立が受け継がれ,維新まで影響を与えた。
→関連項目天保改革藩政改革

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「村田清風」の意味・わかりやすい解説

村田清風
むらたせいふう

[生]天明3(1783).4.26. 長州
[没]安政2(1855).5.26. 長州
江戸時代後期の長州藩政の改革推進者。通称,亀之助,新左衛門。郡代官の子。藩校明倫館に学んだ。文化5 (1808) 年藩主の近侍,郡奉行を経て文政 13 (30) 年撫育方 (ぶいくかた) ,次いで当役相談方となり,窮迫した藩の財政再建に尽力。借金制の緩和,越荷方 (こしにかた) を設置,兵制,教学の改革をはかり,藩力の向上にめざましい指導力を発揮した。弘化2 (45) 年引退して私塾道場尊聖堂を開き,安政2 (55) 年藩庁相談役に再任されたがまもなく病死。彼の影響を受けて周布政之助らの後継者が輩出した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「村田清風」の解説

村田清風
むらたきよかぜ

1783.4.26~1855.5.26

「せいふう」とも。江戸後期の萩藩士。天保期の藩政改革の指導者。通称は亀之助・新左衛門・四郎左衛門。号は松斎。1838年(天保9)に表番頭・地江戸両仕組掛となり,防長一揆で破綻した藩財政再建に着手。越荷方拡充・専売制などで一定の成果をあげたが,家臣の借財整理を意図した37カ年賦皆済仕法への反発,幕府の諸国専売制の禁止で財政再建策がゆきづまり,44年(弘化元)辞任。55年(安政2)後継者の周布(すふ)政之助に登用された直後に病死した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「村田清風」の解説

村田清風 むらた-せいふう

1783-1855 江戸時代後期の武士。
天明3年4月26日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。当役用談役となり,天保(てんぽう)の藩政改革を主導。藩債整理,越荷方(こしにかた)の拡充,専売制強化などのほか,兵制改革につとめる。弘化(こうか)元年内外の反発をうけて退任した。安政2年5月26日死去。73歳。初名は順之,将之。字(あざな)は穆夫。通称は四郎左衛門,織部。号は松斎など。名は「きよかぜ」ともよむ。

村田清風 むらた-きよかぜ

むらた-せいふう

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旺文社日本史事典 三訂版 「村田清風」の解説

村田清風
むらたせいふう

1783〜1855
幕末の長州藩士で,藩政改革の指導者
通称亀之助,名は順之,のち清風。号を松斎という。明倫館に学ぶ。天保初年(1830)の大一揆以来,改革派の指導者として,下級武士・富農・富商を基盤に,士民救済の借金の年賦返済法や越荷方 (こしにかた) の拡大など,財政整理・殖産興業・兵制改革を行い,幕末,長州藩の討幕運動の基礎をつくった。

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367日誕生日大事典 「村田清風」の解説

村田清風 (むらたせいふう)

生年月日:1783年4月26日
江戸時代後期の長州(萩)藩士;藩政改革の指導者
1855年没

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防府市歴史用語集 「村田清風」の解説

村田清風

三隅町出身。5代の藩主につかえ、財政関係の責任者として萩藩の改革を進めました。

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世界大百科事典(旧版)内の村田清風の言及

【三隅[町]】より

…木工,食料品などの工場があり,かまぼこを特産。仙崎湾最奥の沢江に,長州藩の天保改革を推進した村田清風の旧宅と墓(史)がある。三隅川沿いの湯免温泉はラジウム含有量の多い単純放射能泉で,近くにプールや公園がある。…

※「村田清風」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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