幕末期長州藩の藩政改革の推進者。大組(おおぐみ)(馬廻組(うままわりぐみ))士、禄高(ろくだか)50石の家に生まれ、父は代官であった。初名順之(よりゆき)、のち清風。通称は四郎左衛門。少年時、藩校明倫館(めいりんかん)で学び、のち江戸へ出て塙保己一(はなわほきいち)に学ぶが、このころより海防について深い関心を抱く。1819年(文政2)家督相続後藩府に出仕し、各職座を歴任して頭角を現した。とくに13代藩主毛利敬親(もうりたかちか)に重用され、1838年(天保9)表番頭(おもてばんがしら)に抜擢(ばってき)されてからは、天保(てんぽう)の改革の立案・推進者となった。天保改革は(1)江戸藩校有備館(ゆうびかん)の設立、(2)西洋式大操練の実施、(3)淫祠(いんし)の解除、(4)農村の実態調査、(5)藩校明倫館の改築と整備、(6)藩直営の会所の拡充、(7)藩専売制の強化などであり、この政策は清風の立案したものであった。しかし、1844年(弘化1)反対派の坪井九右衛門(くえもん)に政務の実権を奪われ、郷里大津郡三隅(みすみ)村(山口県長門(ながと)市三隅)に引きこもる。同所で近隣の子弟の教育にあたり、一時要職に復帰するが、安政(あんせい)2年死去。
[広田暢久]
『山口県教育会編『村田清風全集』全2巻(1985・マツノ書店)』▽『真鍋繁樹著『義なくば立たず――幕末の行財政改革者・村田清風』(1996・講談社)』
幕末の長州藩士。正しくは〈きよかぜ〉。大津郡三隅村の郡代官の家に生まれる。初名は順之で,四郎左衛門,晩年に織部と称する。藩校明倫館に学び,右筆役に就いて異船防御のため,後に神器陣として知られる新軍制を研究し,能吏として認められた。1838年(天保9)仕組掛に任じ,その後,手元役,用談役と昇進して天保藩政改革を推進した。商業高利貸資本の抑圧や藩政の復古を政策として掲げ,莫大な藩債を整理し,藩営専売を再編成し,越荷方(倉庫・金融業の役所)の経営を行い,また藩内綱紀の粛清のために評定所を強化した。43年37ヵ年賦皆済仕法で商業資本の犠牲により家臣団を救済しようとし,商人や坪井九右衛門らの反対のために辞任した。55年(安政2)後継者の周布(すふ)政之助に政府へ迎えられたが,直後に病死した。村田と坪井の2派は,激動期の藩内の正義派と俗論派の対立に継続し,維新まで影響を与えた。
執筆者:井上 勝生
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1783.4.26~1855.5.26
「せいふう」とも。江戸後期の萩藩士。天保期の藩政改革の指導者。通称は亀之助・新左衛門・四郎左衛門。号は松斎。1838年(天保9)に表番頭・地江戸両仕組掛となり,防長一揆で破綻した藩財政再建に着手。越荷方拡充・専売制などで一定の成果をあげたが,家臣の借財整理を意図した37カ年賦皆済仕法への反発,幕府の諸国専売制の禁止で財政再建策がゆきづまり,44年(弘化元)辞任。55年(安政2)後継者の周布(すふ)政之助に登用された直後に病死した。
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…木工,食料品などの工場があり,かまぼこを特産。仙崎湾最奥の沢江に,長州藩の天保改革を推進した村田清風の旧宅と墓(史)がある。三隅川沿いの湯免温泉はラジウム含有量の多い単純放射能泉で,近くにプールや公園がある。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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